第3話 役場の台帳と、雨の夜

翌朝、私は囲炉裏の前で、火箸の位置を写真に収めた。
昨夜、私が置いた角度から、また少しだけ内側へ寄っている。誰かが柄を持ち、先端を炉の中央へ向けたのだろう。そう考えるのは簡単だった。だが、土間には足跡がなく、戸も窓も閉じたままだった。
私は火箸に触れず、灰の筋を測った。二本。昨日とほとんど同じ位置にある。ただし、左の筋だけが少し短い。火を扱った者の利き手や、灰ならしを引いた距離まで推測できそうだった。
推測できそうで、できない。
私は手帳を閉じた。観察を続ければ、いつか人の手の輪郭に届くと思っていた。しかし、輪郭へ近づくほど、その手が自分のものに似てくる。
囲炉裏の縁へ指を置きかけ、やめた。
その動作を、昨日から何度も繰り返していた。
午前のうちに、私は山を下りた。北沢は来なかった。昨日、明日も斜面が崩れると言っていたから、来ないこと自体は不自然ではない。けれど彼なら、来ない理由を一度は伝える。伝えないこともまた、彼の沈黙の一部だった。
沢筋の道は夜の雨を含み、靴底へ重くまとわりついた。杉の幹から落ちる雫が、歩く私の肩や手帳の表紙を濡らす。道の端には小さな崩れがあり、泥の中から古い瓦の欠片が覗いていた。
集落には、家がいくつも残っている。
屋根が落ちた家。蔦に呑まれた家。戸を失った家。けれど、旧・真柴家だけは、壊れているのに壊れきっていなかった。薪の束や箒の置き方が、そこだけ時間の流れを拒んでいる。
家は、人がいなくなれば空き家になる。
そう考えていた。
だが真柴家では、人がいなくなったあとも、家の方が人の扱い方を覚えていた。
その考えを振り払うように、私は歩く速度を上げた。
役場の建物は、山の入口から車で二十分ほど下った町にある。合併前は別の村役場だったという二階建ての建物で、壁の隅には古い町章の跡が残っている。自動ドアをくぐると、湿った山の匂いが途切れ、代わりに床用洗剤と紙の乾いた匂いが鼻についた。
受付で名前を告げると、藤堂美咲がすぐに現れた。
薄い灰色のカーディガンに、髪はきちんとまとめられている。片手には書類の束があり、表紙の角を指先で押さえていた。
「昨日のうちに連絡しようと思っていました」
「何か出ましたか」
「出たというより、出ないものが多すぎました」
美咲は一拍置いた。
「こちらへ」
案内されたのは、庁舎の奥にある閉架書庫だった。廊下の突き当たりに鉄の扉があり、開けると、冷えた空気が流れ出てくる。窓は小さく、蛍光灯の白い光が棚と棚の間に均等に落ちていた。
棚には、合併前の村帳、旧戸籍、農地台帳、祭礼費の記録が年代順に並んでいる。表紙の布は変色し、背表紙の金文字はところどころ剥がれていた。
美咲は机の上へ三冊の台帳と、数枚の複写紙を置いた。書類の角を揃え、私の側へ少しずつ向きを整える。
「真柴家の戸籍です」
「現行のものですか」
「現行というより、改製前後をつないだものです。戸籍は書き換えられますが、書き換えた事実まで完全には消えません」
美咲は一番古い台帳を開いた。
紙は湿気を吸って柔らかくなっていた。古い墨の匂いに、わずかなカビ臭が混じっている。行間には、異動、出生、婚姻、死亡の記録が並んでいた。人の一生が、紙の上では数文字ずつに縮められている。
真柴家の欄には、当主の名と、その妻、子どもたちの名がある。
だが、途中から行が乱れていた。
名前の間隔が不自然に広い。紙を削った跡があり、その上から薄く墨が塗られている。別の紙を継いだ部分には、印影の端だけが残っていた。
「ここです」
美咲が赤鉛筆の先で示した。
「この空欄は、改製による欠落ではありません」
「根拠は?」
「改製なら、同じ年度の他の戸籍にも似た形式が出ます。ところが真柴家だけ、欄の幅が違う。いったん別の紙を貼り、あとで剥がしたような跡があります」
「記載を消した?」
「そう見えます」
「誰が、何のために」
「そこまでは、文書には書かれていません」
美咲はそう言ってから、紙面を指でなぞった。彼女の指は名前のある行ではなく、空白の部分で止まった。
「でも、何を消したかは推測できます」
「推測でいいので、聞かせてください」
「この位置です。真柴家の女性の系譜にあたります。ここに本来なら、娘か、養女か、あるいは家から出た女性の記録が入るはずでした」
「女性だけが消えている」
「正確には、女性に関わる記録が消えています。家の外へ出た者、別の家へ入った者。そういう移動の線が切られている」
私は台帳を見た。
真柴家という名前は残っている。家長の名も、土地の記録も、年ごとの納税も残っている。残っていないのは、誰がそこから出て、どこへ行ったかという線だった。
「真柴家の女性が、別の家へ移った記録を隠した?」
「隠したのか、隠されたのかは分かりません」
「家から出たこと自体を、なかったことにした」
「そうかもしれません」
「けれど、別の紙には残っている」
「はい」
美咲は複写紙の一枚を取り上げた。紙の端が破れている。そこには、別の家の戸籍の一部が写されていた。
「これを見てください」
私は紙を受け取った。
細い活字の列の中に、祖母の名前があった。
旧姓だった。
その文字を見た瞬間、書庫の冷気が一段深くなったように感じた。名前は知っている。祖母が生きていた頃、病院の書類や古い手紙で何度も見た名前だ。けれど、その名がここにある理由を、私は知らない。
美咲は私の顔を見なかった。視線は紙の端に固定されている。
「桑原さんのお祖母さまの名前です」
「分かっています」
「真柴家の欄から消えた時期と、この記録が作られた時期が近い」
「近いだけでしょう」
「そうです。近いだけです」
乾いた返事だった。
「だから、今の段階で血縁があるとは言いません。戸籍の連続性も、完全には確認できません。似た名前の可能性もあります。ですが、筆跡の癖は同じです」
「筆跡が?」
「こちらの記録を書いた人間と、真柴家の古い補記を書いた人間。『真』の横線の始まりが同じです。右へ流す前に、一度だけ筆圧が強くなる」
美咲は別の紙を並べた。
「名前は消せても、書き方までは消しきれない」
私は紙の上の文字を見つめた。
祖母は、山の話をしなかった。私が子どもの頃、霜降山という地名を出しただけで、茶碗を置く音が変わった。普段なら軽く笑って済ませる人だったのに、その話題だけは声を低くし、話の終わりを決めていた。
私はそれを、年寄り特有の記憶違いだと思っていた。
家族には、話したくない過去が一つや二つある。そういうものだと。
「この記録が、私の祖母だと確認できるんですか」
「戸籍だけでは無理です」
「では、なぜ見せたんです」
「見せない理由がないからです」
美咲は顔を上げた。
「役場の記録は、正しいことを証明するためだけにあるわけではありません。どこで不自然になったかを示すためにもある。私は、空白を見つけたら埋めるべきだと思っています。ただし、勝手な名前で埋めるのは違う」
「空白を埋めないまま残すことも、記録ではありませんか」
「ええ。だから、空白の形を記録します」
美咲の声は静かだった。
「何が書かれていないか。どの紙が継がれ、どの印がずれ、どの行だけ幅が違うか。そういうものを残しておけば、後から来た人が、ここに誰かがいたと分かるかもしれない。名前が戻らなくても、消されたことだけは戻せる」
私は複写紙を机に置いた。
「あなたは、私が真柴家とつながっていると思っているんですか」
「思っていません」
「では、何を」
「つながっていないと言い切れない、と思っています」
「それは、ほとんど同じでは?」
「違います。前者は判断で、後者は保留です」
美咲は眼鏡の縁を押し上げた。
「桑原さんは、すぐに結論を欲しがる人ではないでしょう」
「欲しがっていないつもりです」
「つもり、という言い方をする人は、たいてい欲しがっています」

ほんの少しだけ、彼女の口元が動いた。笑ったのかもしれない。だがそれはすぐに消えた。
「火の記録もあります」
美咲は別の薄い冊子を開いた。
旧村の祭礼費と供物の一覧だった。神社への米、酒、紙垂、修繕費。年ごとの欄に、手書きで小さく「炭俵」と記されている。金額はない。数量もない。ただ、同じ日付の横に、何年も同じ字で書かれていた。
「火納め、という言葉もあります」
「どこに?」
「祭礼費の備考欄です。ただ、何を納めたのか、誰が納めたのかは書かれていません」
「真柴家が関わっていた?」
「記録上は、真柴家の名が近くに出ています」
「近くに、というのは」
「同じ頁にあるだけです」
「それも保留ですか」
「保留です」
美咲は台帳を閉じた。
「ただし、空白が同じ方向を向いています」
その言葉が、書庫の中に残った。
私は、囲炉裏の灰を思い出した。何度均しても残る細い筋。火箸の角度。誰かが無意識に繰り返した手順。
紙の上でも、同じだった。
消した跡だけが、消せずに残っている。
「この複写、持ち帰ってもいいですか」
「本来は閲覧用です」
「では、写真を撮らせてください」
「構いません。ただし、個人情報の扱いには注意してください」
「分かっています」
「本当に?」
美咲の言葉に、私は顔を上げた。
「記録することと、持ち出すことは違います。真柴家の記録は、すでに何度も持ち出されている。村から役場へ、役場から合併先へ。紙が動くたび、そこに書かれた人間の生活だけが置いていかれた」
「それでも、記録しなければ消えます」
「ええ。だから、持ち出してもいい。ただ、消えた人を自分の調査成果にしないでください」
美咲の目は冷静だった。
「桑原さんの祖母が、何を隠していたのかは知りません。隠した理由も、真柴家との関係も。ですが、もし本当に何かつながりがあるなら、それは論文の注記より先に、あなた自身の問題です」
私はすぐに答えられなかった。
学者は当事者になってはいけない。
調査対象と自分の生活を混ぜれば、観察は歪む。そう教えられてきたし、自分でもそう信じてきた。
だが、祖母の名が紙の端に残っている。
その文字を見てから、私はもう完全な外部の人間ではいられない。
「私の祖母について、他に何かありますか」
「今のところはありません」
「今のところ、という言い方をするなら、探しているんですね」
「探します」
美咲は即答した。
「仕事だからですか」
「仕事だけなら、ここまで古い紙を触りません」
「では、なぜ」
「空白が、何度見ても同じところにあるからです」
彼女は台帳を閉じ、表紙の埃を薄い手袋で払った。
「何度見直しても、増えるはずのない空白が増えて見える。そういうものを見つけると、放置できません」
その言葉は、私にも向けられているようだった。
役場を出る頃には、空が低く垂れ込めていた。山へ戻る道の途中で、雨が降り始めた。最初はフロントガラスに小さな点が散るだけだったが、沢筋へ入る頃には、ワイパーが追いつかないほどの雨になっていた。
旧・真柴家に着いたとき、辺りは夕方より暗かった。
戸を開けると、湿気が内側から押し返してきた。人のいない家は、雨の日になると音を溜め込む。屋根を打つ雨、軒先から落ちる雫、壁板の内側を伝う水の音。それぞれが別々に聞こえるのに、家の中では一つの低い響きになっていた。
囲炉裏は黒かった。
私は荷物を置き、先に火箸を見た。
朝、写真を撮った位置から、また変わっている。
昨夜よりも、内側へ。
私は写真と実物を交互に見比べた。角度の変化は小さい。けれど、偶然では説明しにくい方向へ、毎回少しずつ寄っている。
誰かが、火のそばへ戻そうとしている。
そう思った。
あるいは、私を。
私はその考えを手帳へ書かなかった。根拠がない。観察ではなく解釈だ。だが、書かないことで消えるものもある。
火を起こし、湯を沸かした。雨の日の煎り番茶は、いつもより焦げた匂いが強かった。湯気は梁の方へ上がり、途中で見えなくなる。昼間に見た祖母の名が、紙の上から離れずにいた。
私は囲炉裏の前へ座った。
火は小さく、薪の表面だけを赤く舐めている。炎の向こうで、灰の縁が白く浮かんでいた。
戸締まりを確認し、裏口の掛け金を確かめ、最後に玄関へ戻った。外の雨は強く、杉林は一本の暗い塊になっている。
床板が鳴った。
今度は、はっきり聞こえた。
背後だった。
私は振り返った。
座敷には誰もいない。寝袋も、手帳を入れた鞄も、昼間と同じ場所にある。窓の障子は閉じている。隙間から雨の光が滲んでいるだけだ。
それなのに、囲炉裏の縁へ置いた私の手のひらが、勝手に動いた。
まず、木の縁を短くなぞる。
次に、灰の端へ触れる。
指を引き、息を止める。
私はその動作を止めようとした。手首に力を込めたが、指先だけが遅れて作法を続けた。火箸を取り、炭をほんの少し手前へ寄せる。灰を指の腹で撫で、中央を空ける。
動作が終わってから、ようやく息を吐いた。
煤の匂いが濃くなっていた。
梁の上から落ちてくるように、湿った黒い匂いが土間へ沈んでいる。私は天井を見上げた。暗い梁の間に、何か白いものが挟まっているように見えた。
紙かもしれない。
古い布かもしれない。
懐中電灯を向けると、白いものは消えた。光が埃を照らし、細かな粒が雨音の中でゆっくり落ちてくる。
私は手帳を開いた。
今日見たものを書こうとした。
役場の空白。祖母の名。火箸の角度。梁から落ちる煤の匂い。
だが、鉛筆の先は動かなかった。
代わりに、手帳の端へ、意味のない短い線を三本引いた。
長さも間隔も、灰に残っていた筋と同じだった。
私はその線を見つめた。
自分で書いたはずなのに、自分が書いたという実感が薄い。紙の上の線が、囲炉裏の灰から移ってきたように見えた。
雨は夜更けまで止まなかった。
私は火を消すことができず、その前に座り続けた。火を守っているのか、火に見張られているのか、それさえ判然としない。
やがて炎が低くなり、赤い炭だけが残った。
眠る前に、私は灰をかぶせた。
完全に消えたことを確認しようとして、火箸を伸ばす。
そのとき、囲炉裏の奥で、赤いものが一つだけ明滅した。
私は手を止めた。
灰の下の熾火は、私が消したものと同じ形をしていた。
けれど、その位置は、私が炭を寄せた場所ではなかった。
炉の向こう側。
私から最も遠い、誰かが座る場所に近いところで、赤い光が静かに息をしていた。
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