10話 梁裏の保管箱

朝、目を覚ます前に、匂いがした。

湿った木の匂い。その奥に、乾いた炭の匂いが混じっている。眠りの底へ細い糸を垂らされ、引かれたように、私は目を開けた。

障子の向こうはまだ暗い。雨は降っていない。屋根から落ちる雫の音もない。

それなのに、土間の方から、かすかな熱が流れてきた。

私は布団を出た。足裏に畳の冷たさが触れる。昨夜、囲炉裏の火は消した。灰ならしで炭を押し込み、表面を平らにした。記録も残している。火が戻る余地はなかった。

土間へ降りると、囲炉裏の灰が赤く光っていた。

炎はない。炭も見えない。ただ、灰の下で小さな赤みが息をしている。明るくなったり、暗くなったりするたび、灰の表面がわずかに膨らんだ。

火箸は右側にそろえて置いてある。

二本とも、私が置いた位置より内側へ寄っていた。

私は近づかなかった。

手を伸ばせば、また身体が先に動く。灰をならし、火箸を直し、何かを受け入れるような所作を始める。それを確かめることは、もう調査ではない気がした。

私は囲炉裏から目を離し、梁を見上げた。

黒ずんだ梁の一本に、昨夜までは気づかなかった切れ目がある。梁と板壁の接する場所に、細い木釘が二本。煤で覆われていたが、周囲の木より新しい。

脚立を引き寄せた。

床板が軋むたび、囲炉裏の赤みが強くなった。

「見ているんですか」

声に出してから、誰に向けた言葉なのか分からなくなった。

返事はなかった。

私は脚立へ上がり、木釘の頭へ指をかけた。冷たい。だが、指を離そうとした瞬間、釘の周りから温かさが伝わってきた。

釘を抜く。

二本目を抜く。

板は、音を立てずに外れた。

梁の裏には、拳二つ分ほどの空洞があった。その中へ、黒ずんだ木箱が押し込まれている。箱の蓋には、煤の跡が三本ついていた。

私は脚立から降り、箱を土間へ運んだ。

囲炉裏の赤みが、今度は消えた。

箱を開ける前に、私は手帳を開いた。時刻、位置、状態を書き留める。文字を書いているあいだだけ、自分の手が自分のものに戻ってくる。

箱の蓋を持ち上げた。

中には、薄い日記帳と、折り畳まれた布、それから木札が三枚入っていた。日記帳は、私が写したものと同じ表紙だった。けれど、手帳に写し取ったのは数ページ分だけで、こちらにはまだ後ろがある。

最初の頁をめくる。

火を消した者は、家を捨てたのではない。

そこに、そう書かれていた。

私は指を止めた。

次の頁には、短い文章が続いている。

火を残す者は、家を守る。  火を消す者は、家を戻す。  どちらも、同じ手ではできない。

紙の端が湿っていた。文字の一部が滲み、誰かの指でなぞったように黒く伸びている。

私は頁をめくった。

火納めの夜、外へ出すのは炭だけではない。  家に残せない者を、家の外へ戻す。  戻した者の名は、家の帳面から消す。  消すことは捨てることではない。  戻った先で生きるために、家から切る。

喉の奥が乾いた。

祖母の名前が書かれているわけではない。それでも、空欄の異動届と、真柴イネの署名と、北沢が見たという女の子の姿が、紙の上で重なった。

私は続きを読んだ。

家を継ぐ者は、血で決めない。  火の前で、残すものと戻すものを分けられる者。  名を抱えたまま、名に抱かれない者。

最後の一行だけ、筆圧が異様に強かった。

桑原の子には、火を見せるな。

私は日記を閉じた。

土間の隅で、何かが擦れた。

振り向くと、誰もいない。裏口の戸は閉じている。座敷へ続く襖も動いていない。

ただ、囲炉裏の灰の表面に、一本の線が伸びていた。

炉の奥から、私の足元へ。

線の先で、灰が小さく盛り上がっている。

私は木箱の中から、最後の木札を取り出した。裏面には、見覚えのある筆跡があった。祖母の字に似ている。だが、似ているだけだった。文字の払い方も、木を削る深さも、私には断定できない。

木札には、二つの名が並んでいた。

真柴イネ。

その下に、桑原姓の女の名。

私はその名を読まなかった。

読めば、そこから先は記録ではなく、呼びかけになる気がした。

木札を箱へ戻し、日記帳を手帳の横へ置く。火を消すために来たのではない。火が何を残し、何を外へ戻したのかを確かめるために来た。

それでも、胸の奥には一つの疑問が残った。

祖母は、火から逃げたのか。

それとも、火を消す手を誰かから受け取ったのか。

戸の外で、足音がした。

北沢ではない。もっと軽く、濡れた土を踏む音だった。

私は木札を握ったまま、玄関へ向かった。

戸の向こうから、美咲の声がした。

「桑原さん。開けないでください」

私は足を止めた。

「どうしてですか」

「外に、足跡があります」

「誰の」

「分かりません。ただ……」

美咲の声が、そこで途切れた。

「桑原さんの靴跡が、家の中から外へ続いています」

私は自分の足元を見た。

濡れた土間に、黒い足跡が一つだけ残っている。

つま先は玄関へ向いていた。

けれど踵は、囲炉裏の方を向いていた。

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