8話 空室の夜

翌朝、私は出勤する前に、七〇二号室の前で立ち止まった。

昨夜、机の上へ並べた紙片は、鞄の内ポケットに入れてある。澪の手帳の切れ端。郵便受け台帳に残っていた数字の控え。封書に挟まっていた七〇二と、午後十時四十八分。どれも薄い紙だったが、重ねると、ポケットの内側で硬い板のようになった。

表札の跡には、朝の湿気が細かく張りついていた。剥がれた紙の繊維が水分を含み、白い毛のように浮いている。昨日までなら、そこへ誰かの名前があった。名前があるだけで、その部屋には人がいるように思えた。今は、名前の代わりに糊の跡が残っている。

廊下の奥で、杖の先が床を叩いた。

私は振り返った。

芦田さんが、手すりに片手を添えて歩いてきた。薄い灰色のカーディガンを着て、もう片方の手には小さな懐中電灯を持っている。朝から使う必要のないものだった。彼は私の前で足を止め、七〇二号室の表札の跡を見た。それから私の顔へ視線を移し、一拍置いた。

「おはようございます」

「おはようございます」

挨拶を終えても、芦田さんは動かなかった。懐中電灯の金属部分を指で撫でている。古い傷が幾つもあり、角は手の脂で黒くなっていた。

「これを、見ていたんですか」

「はい」

「そうですか」

それだけ言って、彼は七〇二号室のドアへ目を戻した。

「この部屋は、昔の空室に似ています」

声は低く、言い切る手前で少しだけ濁った。

「昔にも、こういうことがあったんですか」

「似たことは、ありました。似ているだけで、同じとは言えませんが」

「一晩で空になった部屋が?」

芦田さんはすぐには答えなかった。廊下の窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。向かいの棟の壁が白く見え、そこへ電線の影が細く重なっていた。

「六〇五号室でした」

その部屋番号を聞いたとき、胸の奥で何かが小さく動いた。聞いたことがあるのか、数字の並びが六〇一号室に近かったから反応しただけなのか、分からない。

「何年前ですか」

「七年ほど前です。もっと前だったかもしれません。建物の中では、年月がよく混ざります」

「住んでいた人は」

「男の人でした。名前は……」

芦田さんは白髪を撫でた。指が髪の流れを崩さず、何度も同じ場所を往復する。

「名前は、覚えていません」

「覚えていない?」

「部屋番号は覚えています。六〇五。よく夜中に帰ってくる人でした。廊下を歩くとき、右の踵を少し引きずった。ドアを閉める前に、必ず一度、外を見た。顔より、そちらのほうを覚えています」

私は息を止めた。

人の顔より足音や扉の閉まる強さを覚える。私もそうだった。名前より、生活の癖のほうが記憶に残る。そのことを、私は自分だけの神経質さだと思っていた。けれど芦田さんは、それを建物に長く住む者の記憶として語った。

「その人が、突然いなくなったんですか」

「ある朝、部屋が空になっていました。表札は外されていた。荷物を運んだ跡は、見えませんでした。廊下に音が残っていなかった」

「退去届は?」

「管理室に出ていたそうです。詳しいことは、森岡さんに聞けば分かったでしょう。ただ、誰も聞きませんでした」

「なぜですか」

「聞く理由がなかったからです」

「人がいなくなったのに?」

私の声が少し強くなった。芦田さんは私を責めるようには見なかった。ただ、私の言葉を手のひらへ載せ、重さを確かめるように黙っていた。

「人がいなくなったことと、聞く理由があることは、同じではありません。ここに住む人たちは、それをよく知っていました」

「それは、知っていたというより、知ろうとしなかっただけではないですか」

「そうかもしれません」

芦田さんは、あっさり認めた。

「ただ、知らないままでいることにも、暮らしの都合がありました。隣の部屋の事情を知れば、次に廊下で会ったとき、同じように挨拶できなくなる。誰かが困っていたと知れば、次に物音を聞いたとき、扉を開ける責任が生まれる。そういう責任を持たずに済むよう、皆で少しずつ見ないことにしたんです」

「皆で、ということは」

「私も含めて、です」

その言葉のあとに、長い沈黙が落ちた。

私は七〇二号室のドアを見た。表面に傷はない。鍵穴の周りにも、こじ開けた跡はない。人が消えるとき、部屋はその人の不在を隠すのに向いている。扉を閉め、鍵をかければ、内側で起きたことは廊下へ出てこない。

「六〇五号室では、監視カメラの映像も途切れたんですか」

芦田さんの指が、懐中電灯の端で止まった。

「どうして、それを?」

「黒田さんから聞きました。今回の封書が投函された夜、管理室の前を誰かが通った。鍵の音がしたそうです。台帳には修正された跡があり、七〇二号室が空になる前から、郵便の流れも変わっていた。偶然とは思えません」

芦田さんは私を見た。目の奥に、古い水のような光があった。

「今回のことを、調べているんですね」

「調べているというほどではありません。見たことを、順番に並べているだけです」

「それが、調べるということです」

「六〇五号室のときは、何があったんですか」

芦田さんは、廊下の奥へ視線を向けた。エレベーターの表示が点滅している。六階で止まったまま、扉は閉じていた。

「夜中に、廊下の灯りが途中まで消えました。七階へ上がる階段のあたりです。電球が切れたのかと思いましたが、翌朝には点いていた。管理人に聞いた人もいましたが、機械の不具合だと言われたそうです」

「監視カメラは」

「六階から七階へ上がるところだけ、映像がありませんでした」

「どのくらいの時間ですか」

「夜の十時過ぎから、十一時前まで」

午後十時四十八分。

数字が、鞄の中で紙を擦った気がした。

「その時間に、誰かが荷物を運んだ?」

「見ていません」

「音は?」

芦田さんは目を伏せた。

「聞きました」

その一言が、廊下の空気を変えた。

「何を聞いたんですか」

「重いものを引きずる音です。階段を上がる音ではありませんでした。何かを一度置いて、少し休み、それからまた動かす。そんな音だった」

「誰かに相談しましたか」

「しませんでした」

「どうして」

「当時の私は、あれを荷物の音だと思いました。荷物なら、私が口を出すことではない。そう考えたんです」

それは、私が何度も自分に言い聞かせてきた言葉と、ほとんど同じだった。

荷物なら関係ない。生活音なら関係ない。声でなければ、扉を開ける必要はない。

私は七〇二号室の前で聞いた音を思い出した。布の擦れる音。椅子を引く音。短い呼吸。私はそれらを、荷物と家具の音に置き換えた。そうすれば、疲れたまま部屋へ戻れた。

「そのあと、六〇五号室の人はどうなったんですか」

「いなくなりました」

「今、どこにいるかは」

「知りません」

芦田さんは、そこで初めて懐中電灯を握りしめた。金属が皮膚へ食い込み、指の関節が白くなる。

「何も知らないんですか」

「知っていることはあります。あの夜、七階の廊下の灯りが消えたこと。監視カメラの映像が途切れたこと。翌朝、六〇五号室の表札がなくなっていたこと。管理室の前に、見慣れない黒い靴が置かれていたこと。そういう細かいことは覚えています」

「では、なぜ名前を覚えていないんです」

「名前を呼ばなかったからです」

答えは、あまりにも静かだった。

「廊下で会えば挨拶はしました。でも、名前を尋ねたことはない。相手も名乗らなかった。部屋番号だけを知っていて、それで生活できてしまった。そういう関係でした」

私は胸の奥を押さえたくなった。メイプルコートでは、住人の名前より部屋番号が先に立つ。郵便受けも、台帳も、鍵も、人間を数字へ変えて扱う。数字になれば、消すのも簡単になる。

「六〇五号室の記録は、残っていますか」

「私が持っているものなら」

芦田さんはカーディガンのポケットから、折り畳まれた紙を取り出した。新聞の切れ端に見えたが、開くと古いマンションの案内図だった。紙は黄ばんでおり、端が何度も折られて柔らかくなっている。

六階の間取り図に、赤い鉛筆で小さな印があった。

「これは、六〇五号室ですか」

「はい」

「どうして持っているんですか」

「空室になった翌朝、管理室の前に落ちていました。拾って、そのまま捨てられずにいます」

「森岡さんへ渡さなかったんですか」

「渡そうと思いました。けれど、管理室のドアが開いていて、中から話し声が聞こえた。『このまま処理します』と、誰かが言っていました」

「誰の声でしたか」

「分かりません。女性の声でした。森岡さんかもしれないし、違う人かもしれない。建物では、壁を通る声は少しずつ別の声になりますから」

「大原由紀という人を知っていますか」

名前を出すと、芦田さんの目が案内図の上へ落ちた。すぐに答えなかった。いつもの一拍より長い沈黙だった。

「名前だけなら、聞いたことがあります。管理会社の方でしょう」

「六〇五号室のときにも関わっていた?」

「そこまでは知りません」

「知っていることだけでいいです。分からないことを、分からないまま話してください」

自分で言いながら、その言葉が澪の考え方に近いことに気づいた。事実を整えすぎず、空白を空白のまま残す。私はこれまで、曖昧な証言を嫌っていた。仕事でも、日時と担当者と結論が揃っていない話は、処理しにくいものとして遠ざけていた。

けれど、曖昧さを消すために、誰かの記憶まで消してはいけない。

「大原さんは、昔、何度か来ていました」

芦田さんが言った。

「住人へ挨拶をする人ではありませんでした。廊下で会っても、部屋番号を見てから、名前を確認するような目をする。人を覚えるというより、どの部屋に何があるかを確かめている感じでした」

「今回も来ていますか」

「見ました」

「いつですか」

「七〇二号室が空になる前の夜です」

私は息を呑んだ。

「どこで」

「非常階段の踊り場です。私は夜、決まった時間に階段を見ます。理由はありません。古い建物では、配管の音や風の通り方が時間で変わるので、長く住んでいると気になるんです」

「大原さんは、何をしていましたか」

「七階から降りてきました。手にファイルを持っていました。厚いものではない。けれど、紙の束を抱えている人の持ち方ではなく、落としたくないものを一枚だけ持っているような持ち方でした」

「声をかけましたか」

「挨拶をしました」

「大原さんは?」

「一拍置いて、笑いました。『遅い時間までご苦労さまです』と」

芦田さんは、そこで一度、声の調子を真似るように唇を動かした。柔らかく、相手を安心させる声だった。

「それだけですか」

「それだけです。ただ、彼女が降りたあと、七階の灯りが一つ消えました」

私はエレベーターの前へ歩いた。点検中の札が、空調の風で小さく揺れている。黄色い札の文字は、何度も雨に濡れたように滲んでいた。

「この建物では、何かが起きるたびに、灯りや映像や記録が消えるんですね」

私が言うと、芦田さんは案内図を折り直した。

「消えるのではなく、消したことにされるんです」

その言葉は、今まで聞いたどの説明よりも深く沈んだ。

「消えたことにされる、と」

「灯りなら故障。映像なら機械の不具合。記録なら手続きの修正。人なら自主的な退去。名前の違う同じ処理が、建物の中にはいくつもあります」

「それを、皆が知っていたんですか」

「皆が知っていたわけではありません。知っている人が少しずつ黙り、知らない人がその沈黙を普通のことだと思う。そうして建物全体が、知らないふりをする仕組みになる」

芦田さんの言葉は、私を責めていなかった。責めていないからこそ、逃げ場がなかった。

私はこれまで、知らない側にいると思っていた。管理人でも、不動産会社でも、夜中に荷物を運ぶ人間でもない。自分はただ隣に住んでいただけだと。

けれど、知らないことは、無関係であることとは違う。

私は隣の部屋から音を聞いていた。表札が剥がれる前の空白を見ていた。澪が郵便受けの蓋を押す手つきを覚えていた。それでも、声をかけなかった。

見ていないのではなく、見たものを自分の生活から追い出していた。

「芦田さん」

「はい」

「六〇五号室のとき、誰かが助けを求めていると思いませんでしたか」

芦田さんは、すぐには答えなかった。エレベーターの表示が六階から消え、数字のない黒い窓になった。誰も乗っていない箱が、建物の中で止まっている。

「思いました」

やがて、彼は言った。

「でも、思っただけでした。扉を開けなかった。管理室へ行かなかった。翌朝、表札がなくなっているのを見て、もう遅いと思いました。遅いと思うと、人は自分を責めずに済みます。できることがなかった、と言えるからです」

私は返事ができなかった。

「ただ、桑原さん」

芦田さんは私を見た。白い眉の下にある目は、思っていたより強かった。

「遅いことと、何もしなくていいことは、同じではありません」

その言葉が、私の胸の奥に残った。

非常階段の窓から、風が入り込んだ。湿った空気が頬を撫で、手すりの金属へ触れた指先を冷やす。私は手を離さず、その冷たさを受けていた。誰かの手の油で鈍く光る手すりは、何年もの移動を覚えている。上り下りした人間の重さも、途中で立ち止まった時間も、誰かが人目を避けて通った夜も。

エレベーターの前を通ると、点検中の札がまた揺れた。

誰も乗らない箱が、夜を入れたまま止まっているように見えた。昼間なのに、内部には暗い時間が溜まっている。扉の向こうへ入れば、七階まで運ばれる。けれど今は、その箱を使う気になれなかった。

私は階段のほうへ向き直った。

「芦田さん。六〇五号室の記録を、少し貸してもらえますか」

「記録と呼べるほどのものではありません」

「それでも、残っているものです」

「あなたは、見続けるつもりですか」

「はい」

答えたあと、喉が乾いた。

「少なくとも、今度は、見たことをなかったことにしないつもりです」

芦田さんは一拍置いた。

それから、折り畳んだ案内図を私へ差し出した。紙は乾いて軽かったが、受け取った掌には、長い年月の重さが移ってきた。

「では、これを。返すときは、名前を書き足さないでください」

「どうしてですか」

「名前は、書くと残ります。残るものは、消そうとする人間に見つかります」

「部屋番号だけなら」

「部屋番号も、同じです。ただ、名前よりは長く生きることがあります」

案内図を開くと、赤鉛筆の印のそばに、細い字が残っていた。

六〇五 夜間搬出  灯り消失  記録なし

澪の字に似ていた。

私はその三行を見つめた。書いた人間の指先が、紙の上で一度だけ止まったような跡がある。最後の「なし」だけ、少し筆圧が強い。

その紙を、私は鞄の内ポケットへしまった。

七〇二号室の前へ戻ると、廊下の蛍光灯が一度だけ明滅した。白い光が沈み、剥がれた表札の跡が暗がりへ落ちる。次の瞬間、灯りは戻った。

名前のない場所が、また明るくなった。

それでも、そこに誰かがいたことまでは、明るさだけでは消せなかった。

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