7話 紙片の順番

夜更けの部屋で、私は机の上へ紙を並べた。

管理室で見た台帳の写し。正確には、あの場で記憶を頼りに書き留めた数字の控えだった。澪の手帳から剥がされたらしい切れ端。封書に挟まっていた、七〇二号室の部屋番号と投函時刻のメモ。

紙の角をそろえる。

少しずれる。

またそろえる。

同じ動作を何度も繰り返しているうちに、澪の癖が自分の指先へ移ってきたようで、落ち着かなかった。彼女が封筒の角を撫でていた姿を、私は一度しか見ていない。それなのに、その指の動きだけは鮮明だった。顔が思い出せないのに、紙を扱う手つきは残っている。

人間の記憶は、均等には消えない。

私はそう考えながら、机の上の紙を見下ろした。

封書に書かれていた言葉は、一行だけだった。

見なかったことにして。

その下に、七〇二という数字。裏には、午後十時四十八分。

黒田さんは、投函は慌てた様子ではなかったと言った。誰かが急いで逃げるように置いたのではなく、決められた場所へ、決められた手順で置いたように見えたという。

それなのに、封筒の中身には空白があった。

私は封筒を明かりへかざした。紙は薄くない。内側に何かが入っていたなら、重みや影が残っていてもおかしくない。だが、見えるのは糊の跡と、細い繊維の乱れだけだった。誰かが中身を抜き取ったあと、もう一度閉じたようにも見える。

けれど、封の端に破れはない。

私が開けたとき、紙は一度だけ素直に裂けた。封を切る前に、誰かが開けた形跡はなかった。

では、最初から空だったのか。

そう考えかけて、私は手を止めた。

空だったのなら、なぜ重さが残っているように感じたのだろう。なぜ黒田さんは、封筒が軽いのに、ただの紙の軽さではないと言ったのだろう。

私は封筒の内側を指先でなぞった。

ざらついた紙が、爪の先へ引っかかる。湿気を吸って乾いたような手触り。澪が選んだ紙なのか、誰かが用意した紙なのか、それすら分からない。

机の右側へ、澪の手帳の切れ端を置いた。

それは、今日、七〇二号室の前で拾ったものだった。拾ったというより、剥がれた表札の下、廊下の隅に細く挟まっていた。最初は古い掲示物の紙片だと思った。けれど、裏返すと、細い黒い字がいくつか残っていた。

数字。

時刻。

部屋番号らしいもの。

そして、途中で切れた文章。

――受け取りなし。二日目。

――六〇一、二十三時十六分。

――階段、灯り消失。

文字は澪のものだと思った。断言できるほど、私は彼女の字を知らない。けれど、封書の宛名と同じく、線は細く、筆圧だけが深かった。急いで書いたのではなく、消される前に残すために、紙へ押し込んだ字だった。

台帳の写しと手帳の切れ端を並べる。

最初に、時刻を合わせた。

封書のメモは、午後十時四十八分。

台帳に残っていた三日前の記録は、午後十時四十六分に受け取りの印が付いている。私は数字を見間違えているのかもしれない。紙へ写すときに、四を六に変えた可能性もある。

だが、台帳の数字は、二度書き直されていた。

上から書かれた六の線が硬く、周囲の数字と馴染んでいなかった。修正テープの下には、別の数字の曲線が沈んでいた。四だったのか、九だったのか、それとも時刻ではない別の番号だったのか。

私は机の引き出しから古い万年筆を取り出した。子どもの頃から持っている、擦り切れたものだ。紙の上へ、台帳に残っていた数字をいくつか書き写す。四、六、九。並べてみると、澪の手帳の切れ端にある数字と、形が似ているものがあった。

六〇一。

高瀬の部屋番号だった。

手帳の切れ端には、六〇一のあとに、小さな丸が付いている。丸の横には、短い線が二本。印なのか、見落としなのか分からない。

私は椅子から立ち上がり、窓の前へ移動した。

考え事をするとき、私は立ったまま外を見る。向かいの棟には、まだいくつか灯りが残っていた。誰かが台所に立っているのか、カーテンの隙間から黄色い光が揺れている。別の部屋では、青いテレビの明滅だけが壁を照らしていた。

同じ建物の中に、眠れない人間が何人もいる。

けれど誰も、隣にいる人間が眠れているかどうかを知らない。

夜の街は、灯りの数だけ孤独を持っている。窓が明るいからといって、そこに誰かがいるとは限らない。暗いからといって、誰もいないとも限らない。私はこれまで、灯りと音だけを頼りに、住人たちの存在を勝手に測っていた。

澪の部屋から音が消えたとき、私は彼女が消えたことに気づいた。

だが、音がしていたときには、彼女が何を求めているのかを考えなかった。

それは、気づいていなかったのではない。気づいていたものを、意味のないものへ戻したのだ。

窓ガラスに映った自分の顔を見た。疲れた目と、ほどきかけたネクタイ。私は首元へ指を入れ、結び目を少しゆるめた。ゆるめたまま、なぜか戻せなかった。

机へ戻る。

紙片の順番を変えた。

最初に、澪の手帳の切れ端。

次に、台帳の写し。

最後に、封書のメモ。

すると、数字がひとつの流れに見えた。

六〇一。

七〇二。

午後十時四十八分。

階段、灯り消失。

私は思わず息を止めた。

六〇一号室から何かが運ばれ、七〇二号室へ向かった。あるいは、その逆だった。手帳の記録が示しているのは、荷物の流れなのか、人間の動きなのか。判断するには情報が足りなかった。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

澪は、部屋番号を単独で書いていなかった。

郵便受けの投函時刻、ゴミ袋の結び目、階段の灯り。彼女はそれらを別々の出来事としてではなく、同じ建物の中で起きる一続きの変化として見ていた。

私は、そこに自分の部屋番号を探した。

紙片にはなかった。

台帳の写しにも、私の部屋に関する記録はない。

それなのに、封書は私の郵便受けへ入っていた。

私はその事実を、何度も頭の中で転がした。

澪は、私を知っていたのだろうか。

私が夜遅く帰ること。階段を使うこと。廊下の音を覚えていること。隣の部屋から漏れる生活音に気づいていること。

あるいは、そういうことを知らなくてもよかったのかもしれない。

私が一番近くにいたから。

最後に音を聞いた人間だったから。

見なかったことにした人間だったから。

そのどれもが、私を選ぶ理由になり得た。

私は封筒を手に取り、裏返した。糊の跡の一部に、黒い繊維が付着している。髪の毛かと思って目を近づけたが、紙の繊維が焦げたように固まっているだけだった。

そこへ、細い線が残っていた。

封筒を閉じる前に、何かが強く押しつけられた跡。澪が紙面を指で押さえたのか、それとも別の誰かが封を急いだのか。

私は指先でその線をなぞった。

その瞬間、記憶の底から音が戻ってきた。

布の擦れる音。

何かを袋へ詰める音。

椅子を引く、乾いた音。

そして、その直後に聞こえた、短い呼吸。

私はそれを声だと思わなかった。

声にしてしまえば、扉を開けなければならなくなる。誰かに尋ねなければならなくなる。だから私は、呼吸を物音へ置き換えた。布が擦れた。椅子が動いた。何かが落ちた。

それだけのことにした。

壁の向こうへ耳を澄ませる。

七〇二号室から、音は返ってこない。

空調の風が、窓の隙間で低く鳴っている。遠くの道路を走る大型車の振動が、建物全体をゆっくり揺らしている。隣室に人がいないから静かなのではない。隣室に人がいた時間を知ってしまったから、その静けさが空白になる。

私は椅子へ座った。

紙片をもう一度、並べ直す。角をそろえ、余白を合わせ、順番を変える。

六〇一。

七〇二。

十時四十八分。

消えた灯り。

その下へ、私は新しい紙を置いた。

開けなかった。

書いてから、しばらくその文字を見つめた。自分の筆跡は、澪のように細く整っていない。線は途中で震え、最後の「た」が紙の端へ寄っている。

私はその一行を、消さなかった。

今までなら、書き直していた。もっと客観的な言葉に変えていただろう。助けを求める気配を聞いた可能性あり。確認せず。そう書けば、事実として扱いやすい。

けれど、それではまた、声を物音へ戻してしまう。

私は、開けなかった。

疲れていたからでも、関わる理由がなかったからでもない。開ければ、誰かの苦しみに自分の名前がついてしまう気がして、怖かったからだ。

その怖さを、私は何年も知らないふりをしてきた。

夜が深くなる。

廊下の蛍光灯が、壁の向こうで一度だけ明滅した。白い光がドアの隙間から細く差し込み、机の上の紙を照らす。封書のざらつき、台帳の白い筋、澪の切れ端に残った数字。消されたものばかりが、妙に明るく浮かんでいた。

私は立ち上がり、七〇二号室の壁へ手を当てた。

冷たかった。

澪がこの壁の向こうで、紙を折り、数字を書き、誰かの足音を聞いていた。その時間を、私は知らない。知ろうともしなかった。けれど、彼女の残した紙がここにある以上、知らなかったという言葉だけで逃げることはできない。

壁の向こうには、もう椅子を引く音はない。

それでも、記憶の中では何度も鳴り直した。

乾いた音。

誰かが立ち上がり、部屋を出る前に、最後まで戻さなかった椅子の音。

私は壁から手を離した。

机へ戻り、紙片を透明なクリアファイルへ収める。順番は、六〇一、七〇二、十時四十八分、消えた灯り。最後に、自分の「開けなかった」という一行を重ねた。

紙の束は薄い。

薄いのに、そこには一人分の生活と、何人分もの沈黙が挟まっている。

私はファイルを閉じた。

明日、芦田さんに話を聞く。

そう決めたとき、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。決めることは、行動することより簡単だ。けれど、決めたことをなかったことにしないためには、翌朝になっても、その場所へ足を運ばなければならない。

私は机の照明を消した。

暗闇の中で、封書だけが手のひらに残った。紙のざらつきが皮膚へ触れ、誰かの指先の代わりに、私をそこへつなぎ止めているようだった。

見なかったことにして。

私はその言葉を、今度は声に出さなかった。

ただ、消さずに持っていた。

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