6話 台帳の白い筋

黒田さんと別れたあと、私はそのまま会社へ戻るつもりだった。

駅へ向かう道の途中で、何度も腕時計を見た。午後の予定にはまだ間に合う。会議室の大きな窓から見える空は、いつも通り薄い青で、メイプルコートの古い郵便受けも、七〇二号室の空白も、そこからは見えない。

それなのに、足は駅の入口を通り過ぎた。

黒田さんが言った、鍵の音が耳に残っていた。

鍵を使う必要のない場所で、鍵を鳴らす人は限られる。

私はそれを、真奈美さんを疑う根拠にしたくなかった。彼女は管理人で、鍵束を持っている。管理室の前を通れば音がするのは当然だ。郵便受けの前へ行くことも、七〇二号室の退去処理に関わることも、すべて職務の範囲内にある。

ただ、職務の範囲内にある行動ほど、見分けにくいものはない。

人が何かを隠すとき、特別な動きをするとは限らない。鍵を使い、書類をめくり、電話に出る。誰にでも許された動作の中へ、隠したいものを薄く混ぜる。それを見つけるには、動作そのものではなく、動作の間に残るわずかな引っかかりを見なければならない。

私はそう考えながら、メイプルコートの正面玄関をくぐった。

昼を過ぎた建物は、朝よりも人の気配が多かった。二階のどこかで掃除機が回り、三階の窓から洗剤の匂いが落ちてくる。掲示板の前では、見知らぬ男が古い張り紙を剥がしていた。紙を剥がすたび、壁に残った糊が白く伸びる。

私はその音から目を逸らし、管理室へ向かった。

ドアは半分開いていた。中から電話の声が漏れている。

「はい。七〇二号室です。ええ、今朝の処理で……はい、名義変更の確認は、こちらで」

真奈美さんの声だった。

私はすぐに入らず、ドアの脇に立った。電話の相手の声は聞こえない。管理室の奥には、古い事務机と金属製の書庫が並び、窓際に小さな電気ポットが置かれている。冷めた茶の匂いと、紙の湿った匂いが混じっていた。

「はい。本人確認については、退去届の控えがあります。ええ、そういうことでお願いします」

そこで彼女は、私の気配に気づいたようだった。電話を続けたまま、視線だけをこちらへ向ける。鍵束が腰のあたりで一度鳴った。

私は会釈をした。

真奈美さんは電話の相手へ、短く返事をしてから受話器を置いた。置き方が妙に静かだった。何かを終わらせたというより、音を残さないように手放したように見えた。

「戻ってきたんですね」

「はい。少し、確認したいことがあって」

「七〇二号室のことなら、先ほど申し上げた通りです」

「退去届のことではありません」

真奈美さんは、鍵束を親指で一度鳴らした。

「では、何でしょう」

管理室へ入ると、外より空気が重かった。窓は閉じられ、古い冷房の風だけが天井近くを循環している。机の上には、電話で使ったメモ用紙が一枚置かれていた。箇条書きの数字が並んでいる。七〇二、午後十時四十八分、鍵、退去。私はそこへ目を向けかけて、すぐに視線を戻した。

「郵便受け台帳を見せてもらえますか」

「何のために?」

「黒田さんから、七〇二号室の郵便受けについて話を聞きました。三日前から受け取りの流れが変わっていたそうです。台帳に、何か記録があるのか確認したいんです」

「配達員さんの話を、管理室の記録と照合する必要がありますか」

「必要があるかどうかを判断するために、見たいんです」

真奈美さんは私を見た。目は細くなっていたが、怒っているようには見えなかった。人の言葉を聞きながら、その言葉をどこまで台帳へ載せるか決めている顔だった。

「郵便受けの台帳は、管理上の記録です。住人の方に見せるものではありません」

「でも、七〇二号室は空室になった。退去届が今朝届いて、表札も剥がされている。郵便受けの記録も、すでに片桐さんの生活から切り離されているんですか」

「生活という言い方は、管理には必要ありません」

「では、何が必要なんですか」

「部屋番号と名義。それから、鍵の返却。必要なのはその程度です」

その答えは簡潔だった。簡潔すぎて、かえって管理室の空気を狭くした。

私は机の横へ視線を流した。古い郵便受け台帳が、棚の下段に立てかけられている。真奈美さんはそれを見ていなかった。あるいは、見ていることを私に悟らせなかった。

そのとき、管理室の奥の電話が鳴った。

真奈美さんが受話器を取る。

「はい、森岡です」

私は一歩だけ、棚へ近づいた。

電話の内容は聞こえなかった。真奈美さんは「ええ」「はい」と短く返し、時折、机の上の書類へ目を落とした。声の主は、先ほどの相手と同じかもしれない。私は耳を澄ませたが、受話器の向こうから漏れる音は、空調の唸りにかき消された。

棚の下段から台帳を抜き取る。

持ち上げた瞬間、紙の束が湿気を含んで重く沈んだ。表紙の角は擦れて丸くなり、黒ずんだ指の跡が幾つも残っている。誰かが長い時間をかけて、同じ場所を何度も開いた跡だった。

私は台帳を開いた。

日付の欄。部屋番号。郵便物の受け渡し。返却。保管。印。

細かな文字が、縦横に並んでいる。書いた人間の筆圧がほとんど均一で、数字だけが紙の表面へ深く沈んでいた。私はページをめくり、七〇二号室の欄を探した。

あった。

片桐澪の名前と、七〇二の番号。三日前の日付の横に、郵便物を受け取った印がある。その下には、翌日の日付。その欄だけ、横長の白い筋で覆われていた。

修正テープだった。

テープは一度で貼られたものではない。端の部分がわずかに重なり、中央だけが厚く盛り上がっている。何かを書いたあとで消し、さらに上から別の文字を書き、その文字もまた消したように見えた。

白い筋の下から、古い数字の角が透けている。

私は指で触れず、目だけで追った。

七。

その下に、二ではない数字の曲線があるように見えた。郵便受けの番号ではなく、時刻か、別の住戸番号かもしれない。上から書き直された数字は、周囲の記入と線の硬さが違っていた。台帳全体の文字には、一定の流れがある。だが、その数字だけは、紙の上へ押しつけるように書かれていた。

誰かが、急いで正しい形にしようとした字だった。

「桑原さん」

背後で、鍵束が短く鳴った。

私は振り返った。

真奈美さんは電話を切っていた。受話器のコードが、机の脇で小さく揺れている。彼女は私の手元ではなく、台帳の開かれたページを見ていた。

「それは、どこから?」

「棚にありました」

「戻してください」

「七〇二号室の記録だけ、修正されています」

「よくある処理です」

答えが早かった。

説明より先に、扉が閉じられたように感じた。

「よくあるなら、どういう処理か教えてください」

「退去や名義変更の際には、郵便受けの管理情報を修正します。旧名義を残しておくと、誤配や個人情報の問題が起きるので」

「三日前の欄を消す必要がありますか」

「必要があれば」

「片桐さんの退去届が今朝届いたのなら、三日前の記録を消す必要はないはずです」

真奈美さんの指が、鍵束の輪に触れた。金属が一度だけ鳴る。

「あなたは、管理の手順を知らない」

「だから聞いています」

「知らないまま、見たものだけで判断しないでください。台帳は、その日その日の事情をすべて書くものではありません。残していいものだけを残すための記録です」

「残していいものだけを?」

「記録は、あればいいというものではないんです。人の名前や部屋番号は、扱いを間違えれば、その人の生活を別の人間へ渡してしまう。管理する側には、消す責任もあります」

「消す責任があるなら、誰が消したのかも残すべきじゃないですか」

自分でも驚くほど、声が揺れていた。真奈美さんは私の顔を見た。今度は視線を逸らさなかった。

「残した記録が、誰かを救うとは限りません」

「でも、消せば、最初から何もなかったことになります」

「何もなかったことにしたほうが、傷つかずに済む人もいます」

「片桐さんもですか」

その名前を出したとき、真奈美さんの表情は変わらなかった。ただ、呼吸が一度だけ深くなった。胸元の布がわずかに動いた。

「片桐さんが何を望んでいたか、私は知りません」

「知ろうとしなかったんですか」

「管理人は、住人の望みを聞く仕事ではありません」

「それなら、何の仕事ですか。人がいなくなったあとに表札を剥がして、台帳の名前を消して、何も起きなかったように次の人を入れる仕事ですか」

言葉が管理室の狭い空間へぶつかり、戻ってきた。私は怒鳴ってはいなかった。だからこそ、自分の声が壁に吸われず残るのが分かった。

真奈美さんはしばらく黙っていた。やがて、台帳へ手を伸ばし、私の手からゆっくり取り上げた。

「あなたは、何も起きなかったようにしたい人を、悪い人だと思うんでしょう」

「違います」

「同じです。人が消えた理由を知りたい。自分が見たものを証明したい。そうやって記録を増やしていけば、誰かの名前が別の誰かへ渡る。住人の生活が管理室から外へ出て、警察や会社や、もっと知らない場所へ流れていく。そうなったあと、その人たちが元の暮らしへ戻れると思いますか」

「戻れなくても、消されるよりはいい」

真奈美さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。

「あなたは、戻れなくなることを知らない」

その言葉だけが、彼女の声の底から出てきた。私は返事をできなかった。

真奈美さんは台帳を閉じた。紙が重なり、湿った音を立てる。

「この建物では、騒ぎにならなければ、暮らしは続きます。住人が朝に出て、夜に戻り、郵便受けを開ける。電灯が切れれば交換する。水漏れがあれば止める。それで十分な人もいる。誰かの事情を知ってしまえば、これまでと同じ顔で廊下を歩けなくなることもあるんです」

「同じ顔で歩けないほうが、いい場合もあります」

「それを決めるのは、あなたではない」

「では、誰が決めるんですか」

真奈美さんは答えなかった。

窓の外で、子どもの自転車のベルが鳴った。明るい音だった。管理室の重い空気には似合わず、すぐに遠ざかっていく。

私は彼女の手元へ視線を落とした。台帳の表紙の上に、細い赤い紙片が貼りついている。赤いインデックスの端だった。真奈美さんはそれを剥がそうとしたが、爪が紙の端に届かず、途中で止まった。

「それは何ですか」

「古い分類です」

「七〇二号室の記録に付いていたものですか」

「違います」

否定するまでの間が短かった。

短すぎた。

真奈美さんは台帳を机の端へ置き、管理室の引き出しを一つ押し込んだ。金属が擦れる音が、薄く長く尾を引く。引き出しは完全には閉まらず、角に赤いインデックスの切れ端が挟まっていた。

私はそれを見逃さなかった。

「見せてもらえますか」

「何をです」

「引き出しの中を」

「管理書類です」

「七〇二号室のものは」

「ありません」

「なら、見せられますよね」

真奈美さんは私を見た。

鍵束は鳴らなかった。初めて、彼女の手が動かなかった。

管理室の外を、誰かが通り過ぎた。足音が三つ。二つ目だけ、床を少し擦っている。私はそれが誰のものか考えかけ、やめた。今は、音を覚えることより、目の前にある沈黙を見届ける必要があった。

「桑原さん」

「はい」

「あなたは、片桐さんと親しかったんですか」

「いいえ。ほとんど話していません」

「なら、なぜそこまで」

「話していないからです」

自分の口から出た言葉が、管理室の中で思いがけず大きく響いた。

「話していなかった。困っているように見えたときも、音を聞いたときも、隣人だからという理由で踏み込まなかった。知りませんでした、で済ませるために、知らないままでいたんです。だから、せめて今あるものまで消えるのは、見ていられない」

真奈美さんは目を伏せた。

台帳の表紙を、指先でゆっくり撫でる。紙の角を揃えるような動作だったが、その指は一度だけ止まった。

「あなたは、思ったより面倒な人ですね」

「よく言われます」

「誰に」

「自分にです」

真奈美さんは、ほんのわずかに息を吐いた。笑ったわけではない。ただ、張り詰めていたものが一筋だけほどけたように見えた。

「引き出しの中身は、あなたには見せられません」

「どうしてですか」

「私が見せないと決めたからです」

「決めたのは、真奈美さんですか。それとも、管理会社ですか」

その問いに、真奈美さんはすぐ答えなかった。

彼女の視線が、机の上の台帳から、壁の時計へ移る。時計の秒針が、乾いた音を立てて進んでいる。規則正しい音だった。規則正しすぎて、何かを隠すのに向いているように思えた。

「管理人が、自分の判断だけで台帳を扱えると思いますか」

やがて、彼女はそう言った。

「では、誰が」

「あなたがそこまで知る必要はありません」

「必要かどうかは、私が決めます」

「そうやって、いろいろな人が同じことを言いました」

真奈美さんは台帳を抱え、書庫の上へ戻した。鍵を掛ける。鍵穴へ差し込む動作に迷いはなく、回したあと、指先で錠が戻ったことを確かめる。鍵束が鳴った。

「でも、最後まで見続けた人はいませんでした」

私は返す言葉を失った。

彼女は書庫の前から離れ、机へ戻った。電話のメモを裏返し、箇条書きの数字を隠す。

私は引き出しの角へ目を向けた。

赤い紙片は、まだ挟まっている。

分類用のインデックスなら、なぜ引き出しを閉めるたび、そこだけが外へ残るのか。何度も閉め直され、紙の端が擦れて白くなっている。誰かが急いで書類を押し込んだあと、確認を怠った跡のようにも見えた。

私は管理室を出た。

ドアが閉まる直前、背後で真奈美さんが言った。

「桑原さん。台帳の白い筋を、証拠だと思わないことです」

私は振り返らなかった。

「消されたものが、そこにあったというだけです」

それ以上、彼女は何も言わなかった。

廊下へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。管理室の中に溜まっていた紙と茶の匂いが、背中のドアに閉じ込められる。私は階段へ向かいながら、台帳に見えた白い筋を思い返した。

消されたものが、そこにあった。

それは証拠ではないのかもしれない。けれど、証拠にならないように消された跡であることは確かだった。

七階へ上がる途中、廊下の蛍光灯が一つ明滅した。

私は立ち止まらなかった。

ただ、今度は視線を逸らさず、灯りの切れかけた場所を見上げた。白い光が一度沈み、また戻る。その短い暗がりの中で、階段の壁に赤いものが見えた。

誰かが貼った古い掲示物の端だった。

近づくと、赤いインデックスではなく、自治会の回覧板を留めていたテープの跡だと分かった。私は笑いそうになり、笑えなかった。すべての赤いものが同じ意味を持つわけではない。見つけたものを、見つけたいものへ変えてはいけない。

それでも、管理室の引き出しに残った赤い紙片は、私の中から消えなかった。

部屋へ戻り、鞄からメモ帳を出す。

私は今日の出来事を書いた。

七〇二号室の台帳に修正テープ。

旧記録の数字が透けていた。

真奈美さんは「よくある処理」と言った。

引き出しに赤いインデックスの切れ端。

管理会社の電話。

そして、最後にこう書いた。

消されたものが、そこにあった。

書き終えたあと、私はペンを置いた。紙の上の文字は、思ったより乱れていた。澪なら、もっと細く、均一に書いただろう。角を揃え、余白を残し、あとから読む人間が迷わないように。

私はメモ帳を閉じた。

壁の向こうは静かだった。

けれど、その静けさはもう、空室の静けさだけではなかった。誰かが書類を閉じ、引き出しを押し込み、鍵を回したあとの静けさだった。

記録は消えても、消す音までは消えない。

私はそう思いながら、机の上の封筒へ手を伸ばした。紙のざらつきが指先に触れる。折り目を押さえると、澪の筆圧がまだそこに残っているような気がした。

見なかったことにして。

その言葉を、私は今夜も読み返した。

けれど、もうそれは願いにも命令にも見えなかった。

白い筋の下で消されかけた数字と同じように、誰かが残そうとして、誰かが消そうとした跡に見えた。

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台帳の白い筋 - 空室の綻び - 誰でも作家life