5話 郵便受けの息

昼前に外へ出られたのは、偶然ではなかった。

午前の会議が長引くはずだったところを、私は課長に頭を下げて先に抜けさせてもらった。理由は取引先への急な確認だと言った。噓ではなかったが、本当の目的地はメイプルコートの周辺だった。駅から続く道を、いつもとは逆の速さで歩く。昼の光の下で見る町は、夜とはまるで違う顔をしていた。街灯は消え、洗濯物が窓の外にはためき、宅配業者の軽自動車が路肩に停まっている。誰もが自分の用事のためだけに歩いていて、隣を通り過ぎる人間の生活の中身までは、誰も気にしない。

私は、その中身を気にする側に回ろうとしていた。

メイプルコートの角を折れたところで、赤い配送用バッグを見つけた。肩から下げた黒田みつえが、集合ポストの並ぶ玄関前で足を止めている。バッグの口が少し開き、中の紙の匂いが雨上がりの湿った空気に混じって薄く漂っていた。紙の匂いというのは、乾いた紙だけの匂いではない。インクと、糊と、誰かの手の脂と、そういうものが積もって、独特の湿った甘さを持つ。私はそれを、ずっと澪の封筒の匂いだと思い込んでいたが、こうして見ると、郵便物全般に共通する匂いなのかもしれなかった。

黒田さんは私の足音に気づくと、顔を上げるより先に目を細めた。

「桑原さん」

「すみません、約束の時間より早いかもしれません」

「いいえ。むしろ、こっちが早く着いてしまったんです」

彼女はバッグの持ち手を握り直し、玄関脇の郵便受けの列へ向かって歩き出した。私はその後を追った。古い金属の箱が、部屋番号の順に積み重なっている光景を、私はもう何度も見ていたはずだった。だが黒田さんが指先でその列をなぞる動きには、私が見ていた景色とは違う輪郭があった。

「封筒の重さは、紙だけの重さじゃないんだよ」

彼女はそう言って、七〇二号室の受け口の前で足を止めた。指の背で、金属の蓋を一度だけ、軽く叩く。こん、と乾いた音が返る。次に、六〇一号室の蓋を同じように叩いた。こん、という音は、さっきよりわずかに重く、腹の底に響くような余韻を持っていた。

「聞き比べてみて」

「違いが、あるようには聞こえます。でも、それが何を意味するのか――」

「音が軽いのは、箱の中に何も入っていないときの音。何かが挟まっていたり、底に紙が沈んでいたりすると、音は変わる。七〇二号室の受け口は、いつもより軽かった。うちの配達がなくても、あの部屋の郵便受けは、ずっとこの軽い音を出していた」

私は蓋にもう一度触れてみた。金属は昼の陽射しを吸って、ほんのり温かい。だが、その温かさの奥に、確かに空虚な軽さがあるように感じられた。それが本当に音の違いなのか、私が黒田さんの言葉に引かれて、そう感じたいだけなのか、判別できなかった。

「あの夜のことを、もう少し詳しく話してもらえますか」

私が言うと、黒田さんはバッグの肩紐を握ったまま、視線を玄関のガラス戸の向こうへ流した。何かを思い出すときの癖なのか、彼女は言葉より先に、いつも景色を探すようだった。

「配達を終えたのは、夕方の五時過ぎだった。次の日の朝、いつもの区域を回っていたときに、七〇二号室の受け口だけ様子が違うことに気づいた」

「様子が違う、というのは」

「郵便物が、奥まで落ちていなかった。うちの郵便受けって、紙を差し込むと、傾斜で自然と奥へ滑り落ちる作りになっている。だけど、その封筒は、口の近くで止まっていた。誰かが受け取る前提で残されたみたいに、箱の奥へは沈んでいなかった」

沈んでいなかった、という言い方が、妙に生々しく耳に残った。まるでその封筒が、箱の中で息を止めていたかのように聞こえた。

「その封筒は、私の封筒とは別のものですか」

「そうだと思う。宛先までは見ていない。ただ、その形が気になって、朝の配達の中でも覚えてしまった。それだけ」

「誰かが投函したところを、見ましたか」

「見ていない。ただ、前の日の夜、この建物の前を通ったときに、管理室の灯りがついていたのは覚えている」

彼女はそこで一度、言葉を切った。玄関のガラス戸に、通りかかった車の影が滑り、消えていく。黒田さんはその動きを目で追ってから、また続けた。

「足音は、急いでいなかった。焦って歩く人間の足音とは違う。むしろ、決まった手順をなぞるみたいな足取りだった。誰かが管理室の前を通って、こっちへ来て、また戻っていった。そのとき、鍵の音がした」

「鍵の音、というのは」

「鍵束が触れ合う音。あれは、誰にでも出せる音じゃない。ポケットに一本二本の鍵を入れているだけなら、あんな音は出ない。何本もまとめて持ち歩いている人間の音だった」

管理室の鍵束を鳴らして歩く人物を、私はひとり知っていた。だが、それを口にすることが、真奈美さんを疑うことになるのか、それとも単に事実を並べているだけなのか、自分でも判断がつかなかった。

「その人が、七〇二号室の受け口に封筒を入れたと思いますか」

「思う、とまでは言えない。でも、あの夜、この建物の中で動いていた人間は限られている。それに――」

黒田さんは一度、私の顔をまっすぐ見た。彼女の目には、私を試すような色はなく、ただ確認するような静かさがあった。

「郵便受けは、誰が触れたかを記録に残さない。でも、触れられた跡は残る。蓋の傾き、紙の止まり方、口の周りに残る指の跡。私が見ているのは、そういう跡だけ。人間そのものじゃない」

「それでも、黒田さんはずっと、その跡を覚えてきたんですよね」

「覚えなければ、配達なんて務まらない。同じ道を何年も歩いていると、変わらないものと、変わったものの区別がつくようになる。変わったものの方が、たいてい理由を持っている」

その言葉を聞いて、私は澪のことを思い出した。彼女もまた、郵便受けの投函時刻や、ゴミ袋の結び方や、階段の汚れ方を、覚えていた人だった。目立たない生活の細部に、意味を見出そうとしていた人だった。黒田さんと澪は、会ったことがあるのかどうかも分からない。それでも、二人の観察の仕方には、似た輪郭があった。

「片桐さんも、こういう見方をする人でした」

私が言うと、黒田さんはわずかに眉を上げた。

「話したことは、ほとんどないですけど」

「そうでしょうね。でも、そういう人ほど、郵便受けの前では正直になる。取りに来る時間、受け取り方、開けたあとの表情。あの人の受け取り方は、いつも同じだった。開けて、中を見て、閉める前に、もう一度蓋を押していた」

「それは――」

私は言葉を止めた。閉めたあとに、もう一度押す仕草。私はそれを、澪本人の癖として覚えていたはずだった。だが、それを見ていたのが私だけではなかったという事実が、妙に安堵と、同時に居心地の悪さを連れてきた。私だけが見ていたものではなかった。私だけが、彼女の生活に気づいていたわけではなかった。

「その癖が、三日前から消えていた、ということですか」

「消えたわけじゃない。受け口を開けること自体が、少なくなっていた。取りに来る回数が減って、まとめて取ることもしなかった。何かを溜めているようにも見えなかった。むしろ、受け取ること自体を、誰かに見られたくないようだった」

黒田さんはそう言って、七〇二号室の受け口をもう一度、指の背で叩いた。こん、という軽い音が、玄関ホールの静けさの中に短く響いて消えた。

「桑原さん。あなたは、この話を聞いて、何をするつもりですか」

その問いは、優しくも冷たくもなかった。ただ、確認するための言葉だった。

「まだ、分かりません。ただ、聞いたことを、聞かなかったことにはしたくないです」

私がそう答えると、黒田さんはしばらく私の顔を見ていた。それから、赤いバッグの肩紐を握り直し、玄関の外へ視線を戻した。

「郵便受けは、部屋そのものより先に、空室を知らせることがあります。人がいなくなる前から、受け取りの流れが変わっていく。今回のことも、たぶんそう。片桐さんの部屋は、退去する前から、もう配達の流れから切り離されていた」

配達の流れから切り離された。その言い方には、失踪という言葉よりも、もっと静かな響きがあった。誰かが出ていったのではなく、誰かが少しずつ、この建物の呼吸から外されていった。そういう手触りだった。

「今日、話してくれて、ありがとうございます」

私が頭を下げると、黒田さんは小さく頷き、バッグを掛け直した。

「話すことと、関わることは違うと言いましたけど」

彼女は玄関のガラス戸に手をかけたまま、続けた。

「今回だけは、少し関わってもいいと思っています。あの受け口の軽い音が、まだ耳に残っているので」

それだけ言って、黒田さんは外へ出た。昼の光の中で、赤いバッグの色が一際目立って見えた。彼女の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は七〇二号室の受け口にもう一度、指先で触れた。

金属は温かく、けれど中は空だった。

その空虚さの奥に、澪が最後に押し込めたかもしれない何かの気配が、まだわずかに残っているような気がした。

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