第4話 夜明け前の封筒

眠れないまま、朝になった。
カーテンの隙間から入る光は、朝というより、夜が薄まった色をしていた。部屋の中にあるものの輪郭は戻ってきているのに、色だけがまだ決まっていない。机の上へ置いた封筒も、白ではなく、灰色の紙片に見えた。
私は椅子に座ったまま、何度も封筒の中身を確かめた。
紙一枚。
見なかったことにして。
部屋番号を写した細長い紙片。
七〇二。
午後十時四十八分。
それだけだった。
内容は少ないのに、紙を重ねるたび、机の上の空間が狭くなっていく気がした。言葉と数字しかない。けれど、その背後には、私が知らない時間が折り畳まれている。澪が誰かに追われていたのか、誰かを避けていたのか、それとも自分から消える準備をしていたのか。私はどの可能性にも手を伸ばせず、ただ紙の角を揃えた。
角が少しずれていた。
私は指先でそれを直した。
その動作が澪の癖を真似ていることに気づき、手を止めた。澪が紙を折るところを、私は一度しか見ていない。エレベーターの前で、彼女が封筒の角を何度も撫でていた。そのときの細い指と、伏せられた目だけを覚えている。
顔は、うまく思い出せなかった。
髪をきつく束ねていたこと。服の色。歩くとき、右足だけわずかに床を擦ること。声が低く、言葉の最後をほとんど伸ばさないこと。
顔だけが、霧の中にある。
私は腕時計を見た。六時二十七分。針の動きはいつもと同じなのに、時間だけが私の周囲から離れていくようだった。出勤の支度をしなければならない。シャワーを浴び、髭を剃り、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。いつもなら、手順を追えば考えずに済む。今朝は、その手順の一つひとつが、何かから逃げる動作に見えた。
洗面所の鏡に映った顔は、寝不足以上に疲れていた。
ネクタイを締める。結び目を作る。私は反射的に首元へ指を入れ、少しだけほどいた。ほどいてから、また締め直す。鏡の中の私は、同じ動作を繰り返していた。
隣の部屋から、音はしない。
七〇二号室は空室になった。そう頭では理解している。それでも、壁の向こうに耳を澄ませてしまう。電気ケトルが沸く前の低い唸り。椅子を引く音。床へ置かれた袋が、わずかに沈む音。
何もない。
無音というのは、音がない状態ではない。そこにあった音が、戻ってこないと分かる状態だ。私はその違いを、澪がいなくなった夜から知ってしまった。
机の上の封筒を、透明なクリアファイルへ入れた。紙が擦れる音を聞いていると、封書をこのまま持ち歩くことがひどく不用意に思えた。けれど部屋に置いて出ることもできなかった。誰かが合鍵で入るような想像をしたわけではない。そんなことができる人間が、この建物にいるとは考えたくなかった。
考えたくないことほど、形を持って浮かんでくる。
私はファイルを鞄の内ポケットへしまった。
部屋を出ると、廊下の空気は夜より冷たかった。窓の外には薄い雲がかかり、向かいの棟の壁が濡れたように沈んでいる。七〇二号室の前を通るとき、私は足を止めなかった。
止めなかったが、視線だけは表札の跡へ吸い寄せられた。
白い糊の縁に、細かな埃がたまっている。昨夜見たときより、剥がれた紙片はさらに小さくなっていた。風が吹いたわけでもないのに、何かが少しずつ落ちていく。名前が消えるときには、こういうふうに、目に見えない速度があるのかもしれない。
階段を下りる途中、五階の踊り場で芦田さんとすれ違った。
芦田さんは手すりのそばに立ち、窓の外を見ていた。私に気づくと、すぐには挨拶をしなかった。白髪を撫で、私の顔を見て、それから一拍置いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけ交わして、私は通り過ぎた。
背中に視線を感じた。振り返る気にはなれなかった。芦田さんが何かを知っているように見えたのは、昨日の話を聞いたあとだからだろうか。それとも、ずっと前から、彼は建物の空白を見ていたのだろうか。
一階へ降りると、郵便受けの列が目に入った。
朝の玄関ホールは、夜とは違う静けさを持っていた。外から新聞配達の自転車が通る音がし、自動ドアが開くたび、冷たい空気が床を低く流れていく。けれど郵便受けは、まだ誰の生活も受け取っていない顔をしていた。
私は自分の受け口の前で立ち止まった。
鍵を出す前に、手を一度握り直す。
昨日の封筒は、私の郵便受けに入っていた。差出人も、切手も、消印もなかった。郵便物として届いたのではなく、郵便受けを使って置かれたものだった。
それなら、誰かがこの玄関ホールへ入ったことになる。
夜間でも正面玄関は施錠されない。住人なら誰でも入れる。管理室の前を通り、郵便受けへ手を伸ばすこともできる。そう考えれば、特別なことではない。
特別ではないことの中に、私は澪の失踪を置こうとしていた。
誰でもできる。
誰でも見られる。
だから誰も覚えていない。
私は受け口を開けた。中には広告が二枚と、電気料金の通知が一通入っていた。封筒の底を指で撫でる。昨日まであった冷たさは残っていない。金属はただの金属に戻っていた。
それでも、私は受け口の奥を何度も見た。
「空ですよ」
背後から声がした。
振り返ると、玄関の外に黒田みつえが立っていた。赤い配送用バッグを肩から下げ、濡れた手袋を外しているところだった。髪の端に細かな水滴が残っている。雨は降っていないはずなのに、朝の空気が湿っていた。
黒田さんは私の郵便受けではなく、私の指先を見た。
「何か、探してるんですか」
「いえ」
反射的に否定してから、私は口を閉じた。
黒田さんはそれ以上聞かなかった。手袋をバッグの脇へ挟み、郵便受けの列を端から目で追っていく。部屋番号を見るというより、箱の蓋の傾きや、差し込まれた広告の厚みを確かめているようだった。
その視線が七〇二号室の欄で止まった。
私は彼女の横顔を見ながら、昨夜の封筒を思い出した。投函時刻。差出人のない紙。誰かの手が、私の郵便受けへ触れた時間。
「黒田さん」
「はい」
「少し、聞きたいことがあります」
声をかけたとき、自分の声が思っていたより低く出た。喉の奥が乾いていた。
「七〇二号室の片桐さんのことです」
黒田さんは、すぐにこちらを見なかった。郵便受けの蓋を一つだけ指先で押し、閉まり具合を確かめた。金属が小さく鳴った。
「片桐さん、ですか」
「昨日、部屋が空になっていました。管理人さんは退去届が出たと言っていましたが、私は、その前の夜まで生活音を聞いています。急に引っ越したようには思えません」
黒田さんはバッグの口を閉じた。赤い布が擦れる音が、玄関ホールの静けさに混じった。
「郵便のことなら、少し覚えています」
「郵便のことなら?」
「人のことを覚えているとは言いません。顔を覚えるのは苦手です。でも、受け取る箱の状態は覚えます。閉まり方、詰まり方、何日分を溜めるか。郵便受けは、住んでいる人より正直なことがあります」
言葉は淡々としていた。世間話のようなのに、軽くはなかった。
「片桐さんの受け口に、何か変わったことがありましたか」
「七〇二号室の郵便受けは、少し前から受け取りが遅くなっていました。毎日取っていた人が、二日置くようになった。二日置いたあと、まとめて取るわけでもない。何かを待っているというより、受け取ること自体を見られたくない感じでした」
「郵便受けだけで、そこまで分かるものですか」
「分かるというより、毎日見ていれば残ります。受け口の角度は、住んでいる人の手つきに似るんです。乱暴な人は蓋が少し跳ね返る。急いでいる人は、最後まで閉めない。片桐さんは、いつも一度押してから離していました」
その仕草は、私も見たことがあった。
澪は部屋へ戻る前、郵便受けの蓋を閉めたあとに、必ず指で一度押した。閉まったことを確かめるというより、そこに残った何かを封じるような動きだった。
「昨日の夜、私の郵便受けに封筒が入っていました」
言うと、黒田さんの目が初めて私の顔へ向いた。
「桑原さんのところに?」
「差出人はありません。切手も消印もない。中に、七〇二号室の部屋番号と、投函時刻を書いた紙が入っていました」
「時刻は?」
「午後十時四十八分です」
黒田さんはすぐに答えなかった。バッグの肩紐を握り直し、親指で濡れた布をゆっくり撫でた。
「その時刻なら、私の配達は終わっています」
「誰が投函したか、分かりますか」
「人の顔は見ていません」
「では、何か気づいたことは」
「気づいたことならあります」
黒田さんはそう言って、郵便受けの列から少し離れた。玄関のガラス越しに外を見た。植え込みの葉には水滴が残り、車道を走る車の音が、壁の向こうで薄く膨らんでは消えている。
「郵便受けに封筒が入ると、音がします。紙の厚さによって、落ちる場所も違う。軽いものは奥まで滑るし、少し厚いものは途中で止まる。昨日、ここへ来たとき、七〇二号室の受け口に、何かが途中で止まったような跡がありました」
「跡、というのは」
「中身を取ったあとではなく、投函されたままの状態に近かった。奥へ落ちていない。誰かが、受け取る人間に見える位置へ置いたように感じました」
「私の封筒と同じだと思いますか」
「紙質までは見ていません。ただ、投函というより、置かれた感じでした」
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
置かれた。
届いたのではなく、置かれた。
手紙は、宛先へ向かって運ばれるものだと思っていた。けれど、誰かが相手を選び、誰かに見つけさせるために郵便受けを使うなら、それは手紙というより、痕跡だった。
「投函した人を見ていないのに、どうしてそれが片桐さんと関係あると思うんですか」
黒田さんは、少しだけ眉を寄せた。
「関係があるとは言っていません。ただ、受け取りの流れが変わった部屋には、たいてい理由があります。住人が出ていく前に郵便が止まることもあるし、出ていったあとに、誰かが何度も郵便受けを確認することもある。そういう部屋は、空室になる前から空室の形をしています」
私は七階の廊下を思い浮かべた。
剥がれた表札。
消えた生活音。
乾いたドアの前。
空室になったのは昨日でも、空白そのものはもっと前から始まっていたのかもしれない。
「黒田さんは、片桐さんがいつまでここにいたか分かりますか」
「配達員が、住人の在宅を断定することはできません」
「分かっています。ただ、何か覚えていることがあれば」
「覚えていることはあります。でも、それを話すと、あなたはもっと調べるでしょう」
黒田さんは私を責めるようには言わなかった。むしろ、私が次にすることをすでに見ている人の声だった。
「調べないほうがいいと思いますか」
「そうは言っていません」
「では、話してください」
「話すことと、関わることは違います。見たことを話すだけなら、私は何度もしてきました。けれど、話したあとに誰かが動くとは限らない。郵便受けの中身を確認する人はいても、その箱の向こうにいる人間を確認する人は少ないですから」
その言葉の静けさに、私は聞き覚えのあるものを感じた。
自分の生活を守るために、他人へ踏み込まない。異変に気づいても、見なかったことにする。そういう態度を、私は距離感や礼儀と呼んできた。黒田さんは同じ場所に立ちながら、そこから目を逸らさずにいる。
「私は、昨夜、隣の部屋から音を聞きました」
気づくと、私はそう話していた。
「布を擦る音と、椅子を引く音です。そのあと、何かを床に置いたような音がしました。声だったのかもしれません。でも、私はドアを開けなかった。疲れていたから、明日の仕事があったから。そう思っていました」
黒田さんは何も言わなかった。
「今になって、あれが助けを求める気配だったのかもしれないと思っています。でも、思い出そうとすると、澪さんの顔だけが出てこない。音は覚えているのに、見たかどうかが分からないんです」
自分で口にした言葉が、床へ落ちる音を聞いたような気がした。
黒田さんはしばらく外を見ていた。やがて、濡れた手袋をバッグの横へしまい、低い声で言った。
「見たかどうか分からないなら、見ていないことにはしないほうがいいですよ」
私は顔を上げた。
「それは、証言としては曖昧です」
「証言の話をしているんじゃありません。自分の中で、消してしまわないほうがいいと言っているんです。見たものだけが事実じゃない。聞いたものも、触れたものも、受け取らなかった郵便も、生活の一部です。あとから都合よく分けると、最後には何も残らなくなる」
その言葉は、澪の「見なかったことにして」という一行と、反対向きに重なった。
黒田さんは配送用バッグから、小さく折った紙を取り出した。配達順を書いたメモのようだった。開かずに、指先で一度だけ折り目を押さえる。
「私が覚えているのは、七〇二号室の郵便受けが、三日前からほとんど開かなかったことです。昨日の朝、管理室の前を通ったとき、森岡さんが誰かと話していました。相手の顔は見えませんでしたが、鍵の音がした。鍵を使う必要のない場所で、鍵を鳴らす人は限られます」
「管理人さんですか」
「たぶん。ただ、たぶんを断定に変えるほど、私は勇敢ではありません」
「その相手が、私の封筒を入れた可能性は」
「分かりません。郵便受けは、誰が手を入れたかを覚えません。残るのは、蓋が閉まったかどうかと、紙がどこで止まったかだけです」
黒田さんは私の手元を見た。
「でも、紙は残ります」
朝の光が玄関ホールへ差し込み、郵便受けの金属を薄く照らした。箱の傷が一本ずつ浮かび上がる。どの傷も古く、いつついたのか分からない。それでも、消えずに残っていた。
「今日の配達が終わったら、また話せますか」
私が言うと、黒田さんは少しだけ考えた。
「話すことがあれば」
「それでも、お願いします」
自分から頼むことに慣れていなかった。声は小さかったが、今度は取り消さなかった。
黒田さんは頷いた。
「では、昼前にこの辺りを通ります。七〇二号室の話をするなら、管理室の前ではなく、外でしましょう。壁は古いけれど、音はよく拾いますから」
それだけ言うと、彼女は赤いバッグを肩へ掛け直した。正面玄関の外へ出る前に、一度だけ振り返り、郵便受けの列を見た。
住人の顔ではなく、箱の並びを見ていた。
私はその背中を見送った。
黒田さんの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
見たものだけが事実じゃない。
私はこれまで、見なかったものを事実から外してきた。聞こえた音を気のせいにし、足を止めなかったことを礼儀と呼び、誰かの不在を他人の事情として処理した。
駅へ向かう道の途中、私は腕時計を見た。六時五十八分。電車には間に合う。いつも通りの時刻だった。
けれど、会社へ着いてからも、仕事の予定は頭へ入らなかった。机の上の資料を開き、メールを返し、会議の時間を確認する。手順は追える。指は動く。だが、どの作業にも、紙の端に残った白い筋のようなものがあった。
昼休みに、私は小さなメモ帳を開いた。
午後十時四十八分。
七〇二号室。
布の擦れる音。
椅子を引く音。
開けなかった。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
最後の一行を、私は何度も書き直した。
声だったかもしれない。
助けを求めていたかもしれない。
私はそのどちらも断定できなかった。だからこそ、消してはいけないと思った。
メモ帳を閉じ、鞄の中のクリアファイルへ手を置いた。封筒の紙のざらつきが、布越しにも分かる気がした。
黒田みつえに訊く。
それが、この建物の中で私が初めて自分で決めたことだった。
帰宅したら、また七〇二号室の前を通る。表札の跡を見る。郵便受けの蓋を確かめる。もし何も起きていなくても、何も起きていないという状態を、今度は自分の都合で片づけない。
窓の外には、昼の街が広がっていた。ビルの隙間を人が流れ、信号が変わり、誰もが自分の行き先へ向かっている。その流れのどこかで、澪もまた、誰かに見られないまま消えたのかもしれない。
私は仕事用のネクタイに指を入れた。
首元は、まだ落ち着かなかった。
それでも、ほどくのをやめた。
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