3話 1階の郵便受け

管理室を出たあと、私はすぐに七階へ戻らなかった。

階段の踊り場で一度立ち止まり、手すりに手を置いた。金属は昼間より冷たく、掌の熱を吸い込んでいく。下の階から、誰かが玄関のドアを開ける音がした。続いて、靴底が床を擦る音。二歩、間を置いて、また二歩。

私は音の主を考えかけて、やめた。

いつもなら、何号室の住人かまで思い出す。だが今は、考えること自体が他人の生活へ踏み込む行為のように感じられた。森岡さんの言葉が、階段の吹き抜けに残っていた。

余計なことは、ないほうがいい。

私はそれを、忠告として受け取ったつもりだった。けれど実際には、許可を求めていたのかもしれない。気にしなくていい。調べなくていい。ここでやめても、誰も責めない。そう言ってくれる人間を、私はずっと待っていたのだと思う。

一階まで降りると、正面玄関の自動ドアが開いた。外から湿った夜気が流れ込み、廊下の乾いた冷たさを少しだけ撫でていった。植え込みの土の匂いと、遠くの車の排気が混ざっている。玄関脇の照明には小さな虫が集まり、光の中で何度も同じ円を描いていた。

郵便受けは、玄関ホールの壁際に並んでいる。

古い金属製の箱が、部屋番号の順番に積み重なっていた。表面には細かな傷が走り、何度も鍵を差し込まれた場所だけが黒く光っている。住人たちは帰宅すると、ほとんど誰も顔を上げない。郵便受けの前で鍵を回し、必要なものだけを取り出し、残りは見ない。そこに他人の手紙があっても、隣の箱の蓋が開いていても、気づかないふりをする。

私も同じだった。

自分の部屋の番号を探し、二列目の端にある一九八号の前まで歩いた。鍵を取り出す。そこで、いつものように一度だけ手を止めた。

郵便受けを開ける前、私は必ず鍵を握り直す。

理由はない。鍵が滑るわけでも、錠が固いわけでもない。ただ、開ける前にほんの一瞬、そこに何が入っているかを想像してしまう。請求書か、広告か、何もないか。その想像をしてから、現実に触れる。

今夜も、指が勝手に鍵を握り直した。

差し込むと、錠の内部で小さなばねが弾けた。蓋を下ろした瞬間、いつもの白い広告や折り畳まれた請求書に混じって、一通の封筒が目に入った。

宛名は、桑原透。

私の名前が、細い黒い字で書かれていた。

差出人欄には何もない。切手も、消印もなかった。封筒の紙は、一般的な事務用のものよりわずかに厚く、表面がざらついていた。指先で触れると、細い繊維が皮膚に引っかかる。新品の紙ではない。どこかで一度、湿気を吸って乾いたような手触りだった。

私は封筒を取り出した。

郵便受けの底に、冷たさが残っていた。誰かがさっきまで手を入れていたのか、それとも金属が夜の温度を保っているだけなのか、分からなかった。私は箱の奥を覗き込んだ。何もない。隣の受け口との境目に、薄い埃が溜まっているだけだった。

玄関ホールには、私のほかに誰もいなかった。

正面のガラス越しに、車のライトが横切った。白い光が床を滑り、郵便受けの番号を一瞬だけ照らして消えた。そのとき、封筒の宛名が、誰かに見られたように感じた。

私は周囲を見回した。

エレベーターの表示は六階で止まっていた。廊下の奥には管理室のドアがある。閉じた扉の向こうからは、何も聞こえなかった。真奈美さんがまだいるのか、帰ったのかも分からない。

私は封筒をスーツの内ポケットへ入れた。

自分の部屋へ戻るには、階段を上ればいい。けれど、足は動かなかった。

この場で開けるべきだと思った。誰かが見ているかもしれない場所で、誰かから届いたものを開く。そのほうが、少なくとも自分だけの妄想にはならない気がした。

一方で、開けた瞬間から、私はこの建物の内側へ入り込んでしまうような気もした。

封筒は軽かった。

軽いのに、胸のあたりに置くと、そこだけ重みが沈んだ。

私は管理室の向かいにある長椅子へ腰を下ろした。表面の合成皮革が冷たく、スーツの薄い布越しに体温を奪っていく。封筒を膝の上へ置くと、宛名の文字が正面を向いた。

その字に見覚えがあった。

すぐに澪の字だと断言できるほど、私は彼女の手紙を見ていない。エレベーターの前で拾った封筒と、掲示板の前で彼女が持っていた小さな手帳。その程度の記憶しかない。

それでも、文字の細さはあの人のものに思えた。

線が細いのに、筆圧だけは弱くない。紙へ押しつけられた黒い跡が、途中でほとんど揺れていなかった。急いで書いた字ではない。書くことを決め、逃げずに一画ずつ置いた字だった。

私は封筒の端を爪でなぞった。

封は糊で閉じられていた。切手の貼られる場所も、宛名の周囲も、汚れがない。誰かに宛てたものというより、手渡す相手を選んでから作られたものに見えた。

澪は、私を選んだのか。

そんな考えが浮かび、私はすぐに打ち消した。

ほとんど話したことのない隣人を、どうして選ぶのか。私は彼女の友人でも、身内でもない。名前を知っているだけで、何を考えていたのかも知らない。むしろ、知らなかったから選ばれたのかもしれない。何も知らない人間なら、余計な先入観を持たずに紙を受け取る。

その考えは、親切ではなく利用されることへの不安に近かった。

私は封を切った。

紙を破る音が、玄関ホールに長く響いた。自動ドアのモーター音より小さいのに、誰かに聞かれたような気がした。中には、折り目のついた紙が一枚入っていた。

紙を開く。

中央に、細い字で一行だけ書かれていた。

見なかったことにして

句点はなかった。

命令なのか、願いなのか、判別できない。澪が私に見なかったことを求めているのか、それとも、誰かにそう言われた事実を残しているのか。短い言葉は、向きを失ったまま紙の上に置かれていた。

私は何度も読み返した。

見なかったことにして。

その言葉は、昨夜の自分の行動とよく似ていた。隣の部屋から聞こえた布の擦れる音。床へ何かを置いたような鈍い音。私はドアを開けなかった。声をかけなかった。電気もつけなかった。

見なかったことにした。

その事実を、誰かに先回りして書かれたように感じた。

紙の下に、もう一枚、細長い紙片が挟まっていた。取り出すと、そこには数字が書かれていた。

七〇二。

部屋番号を写しただけのように見える。だが、数字の周囲には、何度か折り直した跡があった。紙の角は揃えられている。澪が何かを折るときの癖を、私は知らない。それでも、彼女がエレベーター前で封筒を持っていたとき、角を指先で何度も整えていたことを思い出した。

紙片の裏には、さらに小さな数字があった。

午後十時四十八分。

時刻の横に、丸で囲んだ印がひとつ付いている。

私は腕時計を見た。今は午後十一時を少し過ぎていた。封筒は、私が帰宅するより前に郵便受けへ入れられていたことになる。もし澪が自分で投函したのなら、少なくとも私が七階へ上がる前には、一階まで来ていたはずだ。

その時間、私はまだ駅前のコンビニにいた。

レジの前で、缶ビールと弁当を受け取っていた。店員が袋を二重にしたことまで覚えている。腕時計を見たわけではないが、店内の時計は十時四十六分を指していた。

では、封筒を入れたのは誰か。

澪はその時刻に、まだこの建物にいたのか。あるいは、もっと前に準備した封筒を、誰かに託したのか。

紙片を持つ指が、少し震えた。

私は自分の部屋へ戻り、机の上で改めて確認しようとした。だが、封筒を閉じることができなかった。折り目のついた紙をしまい、封筒を膝の上へ置いたまま、しばらく動かなかった。

玄関ホールの照明が一度、低く唸った。

その瞬間、管理室の奥で何かが擦れる音がした。

私は顔を上げた。

続いて、金属が触れ合う音がひとつ。鍵束の音に似ていた。真奈美さんがまだ管理室にいるなら、こちらの気配に気づいているかもしれない。

私は反射的に紙を封筒へ戻した。

戻し方が悪く、紙の角が少しずれた。私はそれを直そうとして、澪のように角を揃えてしまった。折り目を指で押さえ、封筒の口を閉じる。紙の端が掌の汗を吸い、ほんの少し柔らかくなった。

その感触が、妙に生々しかった。

誰かが触れていた紙を、自分の手で温めている。澪の指がそこにあった時間と、私の指が触れている時間が、薄い繊維の中で重なっているようだった。

私は立ち上がった。

管理室の前を通ると、ドアは閉じていた。覗き窓の向こうは暗い。鍵束の音も、もう聞こえなかった。私はそのまま階段へ向かったが、二段目で足を止めた。

七階から、かすかな音が降りてきた。

ドアが閉まる音だった。

重く、二度、戻る音。

私は息を止めた。三〇三号室の住人なら、今夜はもう帰宅しているはずだ。音の響き方も違った。七階の廊下から落ちてきた音だった。

七〇二号室。

そう思った。

けれど、あの部屋のドアは閉じたままだ。中に誰もいないことは、表札の剥がれと生活音の消失が示している。私は階段の手すりから手を離し、廊下を見上げた。

音はもうしなかった。

私は七階へ戻ることも、一階に留まることもできず、階段の途中に立ち尽くした。胸の中で、さっきの紙の一行が何度も繰り返される。

見なかったことにして。

誰が書いたのかは分からない。

だが、その言葉を見た瞬間、私はもう、見なかったことにはできなくなっていた。

← 横にスクロールして読み進められます

1階の郵便受け - 空室の綻び - 誰でも作家life