第2話 管理室の鍵の音

朝になっても、封筒はまだ届いていなかった。それを知っているのは、この時点では私だけだった。
七〇二号室の空白を目にした夜から一夜が明け、私は出勤前にもう一度、剥がれた表札の前を通った。糊の跡は乾いて白く粉を吹き、昨夜より少しだけ古びて見えた。時間が過ぎるほど、そこにあったはずのものは薄くなっていく。人が消えるというのは、そういうことなのかもしれない。急に無くなるのではなく、周りの空気がゆっくりと、その不在に馴染んでいくことなのかもしれない。
仕事を終えて帰った私は、玄関を入る前に一階へ降りた。エレベーターの扉が開く音を聞きながら、私は結局それを使わず、階段の脇にある管理室へ向かった。誰かに何かを尋ねるという行為は、私にとって珍しいことだった。だが、あの表札の空白を、このまま自分の中だけに沈めておくことができなかった。
管理室のドアの前に立つと、内側から金属の鳴る音が聞こえた。乾いた、小さな音の連なりだった。それが鍵束の音だと分かるまでに、一拍の間があった。ドアがゆっくりと開き、森岡真奈美が姿を見せる。
短く刈った髪、無駄のない肩の動き。手の中にある古い鍵束は、彼女が身体を動かすたびに、控えめに鳴った。まるでその音自体が、彼女の存在を証明する仕組みになっているようだった。
「七〇二号室の件で、少し伺いたいのですが」
私がそう切り出すと、真奈美は私の顔を一度だけ見て、それから視線を私の背後、廊下の奥へ流した。誰かが来ていないかを確かめるような、癖のある動きだった。
「退去届は、今朝届いた」
それだけだった。声に高低はなく、感情の起伏もない。まるで台帳に書かれた一行を、そのまま読み上げたような響きだった。
「今朝、ですか」
「そう」
「昨日の夜まで、あの部屋には人がいたはずです。生活音がしていました。それが今朝、退去届が出ているというのは――」
言葉を継ごうとした私を、真奈美は遮らなかった。だが、遮らないことが、遮ることよりも強い拒絶に感じられた。彼女は私の言葉を最後まで聞いたうえで、私がそこから先へ入っていくための扉を、静かに閉じてしまうような態度をとった。
「退去は、住人の都合です。急なことは、たまにある」
「表札は、こすり取るように剥がされていました。普通の退去処理で、そんなふうになりますか」
私がそう言うと、真奈美は一拍だけ黙った。鍵束が微かに鳴った。彼女が身体の重心を、わずかに右へ移したせいだった。
「表札は、次の入居者が決まるまで、こちらで外すことになっています。多少乱暴になることも、ある」
「多少、ではないように見えました」
「見え方は、人によって違うでしょう」
その言い方には、私を否定するというより、私自身の感じ方の方を疑わせようとする響きがあった。私は思わず、ネクタイの結び目に指を入れた。締めつけられているわけでもないのに、首の皮膚が熱く感じられる。ほどいて、また戻す。うまく元の形にならず、もう一度触れる。
「片桐さんという方でした。何度か、エレベーターの前で見かけたことがあります。落とした郵便物を拾ったこともありました」
その名前を出したとき、真奈美の目の動きがわずかに変わった。瞬きの回数ではなく、視線がほんの一瞬、私の顔の右側から、机の上へ逸れた。そこには、古い郵便受け台帳が伏せて置かれていた。表紙の角が擦れ、長年の指の跡で黒ずんでいる。
「片桐さんが、どうかしましたか」
「いえ。ただ、こんなふうに人が消えることに、慣れていらっしゃるように見えたので」
言ってしまってから、自分でもその言葉の棘に驚いた。だが、真奈美はそれを刺として受け取らなかった。彼女はむしろ、私が思っていたよりも静かに頷いた。
「長くこの仕事をしていれば、慣れます。慣れなければ、続けられない」
「慣れることと、見過ごすことは、違うと思います」
その言葉を口にした瞬間、私は自分自身に向けて言っているのだと気づいた。真奈美は私の顔を、初めて長く見た。値踏みするような視線ではなく、何かを測るような、静かな視線だった。
「あなたは、七〇二号室の隣に住んでいる方でしたね」
「桑原です」
「桑原さん。あなたが心配しているのは、片桐さんのことですか。それとも、自分がなにも知らなかったということですか」
私は答えられなかった。その問いは、私が自分でまだ言葉にできていない部分に、正確に触れていた。真奈美はそれ以上追及せず、机の上に置かれた台帳へ、指先で紙の端をそっと押さえた。何かを確かめるような、しかしそこに何も書かれていないと示すような動きだった。
「台帳は、退去処理が済んだものから消していきます。決まりです」
「消す、というのは」
「記録を、その通り整理するという意味です」
彼女はそう言って、台帳を閉じた。紙の擦れる音が、思ったより長く尾を引いた。私はその音の余韻の中で、机の隅に見えた赤いインデックスの切れ端に気づいた。修正テープとは違う色だった。だが、それを指摘する前に、真奈美は静かに言葉を挟んだ。
「桑原さん。あなたのような人は、たまにいます。細かいことに気づいて、それを見過ごせない人。悪いことだとは言いません。でも、この建物では、余計なことは、ないほうがいい」
その声は荒くない。むしろ穏やかだった。だが、廊下に置かれた鉄の手すりを握ったときのような、乾いた冷たさが、言葉の底にあった。
「余計なこと、というのは」
「詮索です。誰かが、いつ、なぜ出ていったか。それを追いかけて、良いことがあった例を、私は知りません」
私はしばらく黙っていた。真奈美の言葉には、脅しの気配はなかった。むしろ、経験に基づいた忠告のように響いた。だからこそ、それがひどく重く感じられた。彼女はこの建物で、私よりずっと長く、こうした空白と向き合ってきたのだろう。そして、そのたびに、同じ結論に落ち着いてきたのだろう。騒がないことが、最善の処理であると。
「分かりました。お時間をとらせて、すみませんでした」
私はそう言って頭を下げた。真奈美は鍵束を一度鳴らし、ドアの内側へ半歩戻った。会話が終わったことを示す、最小限の動作だった。
「桑原さん」
ドアを閉める直前、彼女がもう一度私の名前を呼んだ。
「灯りは、切れたままにしないほうがいい。七階の廊下の、あれ。前から気になっていたでしょう」
それだけを言って、ドアは閉まった。金属の鳴る音が、内側から一度だけ響いた。
私は階段を上りながら、その言葉の意味を考え続けた。灯りのことを話したのに、それは廊下の蛍光灯の話ではないような気がした。彼女は、私がずっと見て見ぬふりをしてきた何かを、遠回しに指摘したのかもしれなかった。あるいは、それは単なる管理人としての、業務的な忠告だったのかもしれない。
七階へ着くころには、廊下の蛍光灯がまた一度、小さく明滅した。七〇二号室の前を通るとき、私は足を止めなかった。だが、視線だけは、剥がれた表札の白さへ、自然と流れていった。
あの部屋の鍵は、今も管理室の引き出しの中で、他の合鍵と並んでいるのだろうか。それとも、もう別の場所へ移されているのだろうか。
私にはまだ、それを知る術がなかった。
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