1話 702号室の剥がれた札

メイプルコートへ帰ってくるのは、いつも同じような時間だった。

駅から歩いて十二分。大通りを外れ、街灯の間隔が急に広くなる道を抜けると、建物の輪郭が見えてくる。築四十年を越えた中層マンションは、夜になると周囲の暗がりへ半分沈んでいた。外壁のタイルはところどころ色が違い、補修した跡が地図のように残っている。正面玄関の自動ドアは閉じるたび、内部のどこかで小さな金属音を返した。

その日も、私はエレベーターの前を通り過ぎた。

帰宅時間が遅いと、あの箱の中に他人と二人きりになることがある。乗ってしまえば七階まで三十秒もかからないのに、私はたいてい階段を選ぶ。階段なら、途中で誰かに追いつかれても、先に行かせることができる。会釈をして壁際へ寄れば、それで済む。

階段の踊り場には、昼間にこぼれた雨の匂いが残っていた。窓の隙間から入り込んだ湿気が、古いコンクリートの内部にまで染みている。手すりに触れると、金属の冷たさが指の節へじわりと移った。私は一階、二階と数えながら上がった。段数ではなく、足音の数を数えていた。

三階で、誰かがドアを閉めた。

重く、二度、戻る音だった。三〇三号室の住人だ。靴底の硬いスリッパで、歩幅が短い。四階では子どもの走る音。五階では、テレビの低い笑い声。六階まで来ると音は薄くなり、私の靴が床を擦る音だけが残った。

七階の踊り場へ出たとき、廊下の蛍光灯が一つだけ明滅した。

私は無意識に立ち止まった。蛍光灯のちらつきは、ここ数週間、何度か見ていた。管理人の森岡さんに言えば交換してくれるだろう。けれど、言ったところで、切れるまではそのままにされる気もした。私はいつものように見上げ、いつものように視線を外した。

七〇二号室は、私の部屋の隣にある。

廊下を曲がって数歩進んだところで、私は何かを探すように速度を落とした。まず、ドアの前の空気が違った。昨夜までそこにあったものが、なくなっている。

音ではなかった。

私は音なら、すぐに分かる。電気ケトルが沸騰する前の低いうなり。椅子を引くときの、床と脚が擦れる乾いた音。紙を一枚ずつめくる、指先のかすかな震え。片桐澪の部屋からは、そういう音が漏れていた。大きな音ではない。隣の私の部屋にいて、テレビを消しているときにだけ聞こえる程度のものだった。

けれど、私は覚えていた。

澪が帰ってきた夜は、玄関の鍵を回してから、少し間を置いてドアを閉める。金属のラッチが一度噛み、それから静かに扉が戻る。外へ出るときは、逆に閉める力が少し強い。急いでいる日だけ、床に靴底を引きずる音が二回続く。

そういう細部を覚えてしまうことを、私はずっと不便だと思っていた。

七〇二号室のドアは、閉じたままだった。

変わっていたのは、その横だった。

表札が剥がされていた。

名札を取り外したというより、名前の書かれた紙だけを急いでこすり取ったように見えた。透明な板の隙間に、白い紙片が一枚だけ残っている。糊の跡はまだ乾ききっておらず、端に灰色の埃が付着していた。誰かが指で乱暴に引き剥がし、途中で破れたのだろう。

私はそこへ顔を近づけた。

紙の繊維が、細い毛のように立っている。名前の一部は残っていなかった。ただ、薄い黒い線が、糊の下に影として沈んでいた。

片桐という字の、最初の払いだったのかもしれない。

そう思った瞬間、昨夜のことがひどく曖昧になった。

私は、昨夜もこの廊下を通ったはずだった。時刻は二十三時を少し回っていた。コンビニの袋を提げ、部屋へ戻る途中、七〇二号室の前で足を止めた。澪の部屋から、布の擦れる音がした。何かを袋へ詰めているような音だった。

私はそれを聞いた。

聞いたあと、何もしなかった。

それだけは覚えている。

けれど、彼女の姿を見たかどうかが思い出せなかった。いつもなら、廊下の照明に髪をきっちり束ねた後ろ姿が浮かぶ。派手ではない紺色の上着。細い肩。郵便受けを確認するとき、必ず一度だけ蓋の裏側へ目をやる癖。

昨夜、私はそれを見たのか。

見ていないのか。

記憶は、消えたというより、最初からそこへ何も置かれていなかったように空白だった。

私はネクタイの結び目へ指を入れた。締めつけられているわけではないのに、首の皮膚が熱く感じられた。指先で少しほどき、結び目を戻す。うまく形が整わず、もう一度触れた。

ドアの前には、荷物を運び出した跡がなかった。

廊下の床に、段ボールの角が擦った線もない。壁にぶつけた跡もない。重い家具を通したなら、どこかに音が残る。エレベーターを使えば、昇降機の作動音が建物全体へ響く。階段なら、踊り場の手すりか床に、靴底の粉塵が残る。

何もなかった。

空室になった部屋だけが、最初から誰も住んでいなかったように黙っていた。

私は自分の部屋の前まで歩き、鍵を取り出した。鍵穴へ差し込む前に、もう一度七〇二号室を振り返った。

剥がれた表札の白さが、廊下の蛍光灯よりも明るく見えた。

澪とは、ほとんど話したことがない。エレベーターの前で一度、彼女が落とした郵便物を拾ったことがある。そのとき、澪は私の手から封筒を受け取り、小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

声は低く、乾いていた。

「いえ」

私はそれだけ答えた。彼女の封筒には、差出人の名前がなかった。宛名の文字は細く、紙の端がきれいに揃えられていた。

そのとき、何か聞けばよかったのだろうか。

たとえば、いつも遅い時間に帰るのか、とか。郵便物を落としたことより、手に持っていた小さな手帳のほうが大切そうに見えたのはなぜか、とか。

だが、隣人にそこまで踏み込む理由はないと思った。

共同住宅では、知らないことが礼儀になる場合がある。そういうふうに私は考えてきた。隣の部屋の生活音を聞いても、聞こえなかったことにする。廊下で誰かが泣いているような気配がしても、足を止めない。困っている人間を見つけたとき、関わらないことが相手のためになる場合もある。

そう信じていたかった。

自分が何もしなかったことを、礼儀や距離感と呼べるように。

部屋へ入ってから、私は明かりをつけた。白い天井が現れ、壁際に置いた机と、脱ぎ捨てた上着が見えた。テレビをつける気になれず、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。プルタブを起こす音が、部屋の中でやけに大きく響いた。

飲みながら、私は隣の壁を見た。

薄い壁の向こうには、もう何もない。

そう思うと、空白は音より重かった。これまで澪の部屋から聞こえていた小さな生活音が、実は私の部屋の静けさを支えていたのだと気づく。誰かが隣で湯を沸かし、紙をめくり、椅子を引いている。その気配があるから、私は自分の無音を孤独と呼ばずに済んでいた。

缶の冷たさが手のひらに残った。

その夜、私は何度もテレビのリモコンを手に取ったが、電源を入れなかった。音を足してしまえば、壁の向こうの不在をごまかせる気がした。けれど、ごまかすことにはもう慣れすぎていた。

午前一時を過ぎても眠れず、私はベランダへ出た。

湿った夜気がシャツの袖から入り、皮膚を薄く撫でた。遠くの幹線道路を走る車の音が、建物の壁に反射して途切れ途切れに届く。向かいの棟には、まだいくつか明かりが残っていた。七〇二号室の窓だけが暗い。

私は暗い窓を見ながら、昨夜聞いた音を思い出そうとした。

布の擦れる音。

椅子を引く音。

それから、何かが床へ置かれたような、短く鈍い音。

私はそのあと、ドアを開けなかった。

開けなかったことは覚えている。だが、なぜ開けなかったのかが思い出せない。疲れていたからか。明日の仕事が早かったからか。それとも、声を聞いたのに、声ではないことにしてしまったのか。

記憶の端に、薄い影があった。

七〇二号室の前に立つ女の背中。きっちり束ねた髪。手にした小さな手帳。彼女が振り返ったような気がする。私を見たのかもしれない。何かを言ったのかもしれない。

しかし、顔だけがどうしても浮かばなかった。

私は窓を閉め、部屋の明かりを消した。

暗闇の中で、隣室との境の壁がぼんやりと見えた。そこには、誰かがいなくなったことを示すものが何もない。表札が剥がされ、生活音が途絶え、部屋の灯りが消えただけだ。

それだけで、人は消えたことになる。

翌朝になれば、誰かが管理室へ行き、退去届の有無を確認する。管理会社が書類を整え、表札を外し、次の入居者を待つ。そうして空室は空室として扱われ、そこにいた人間の名前は、壁や台帳から少しずつ薄くなる。

私はベッドに横になった。

眠りへ落ちる直前、壁の向こうから聞こえたはずの椅子を引く音が、記憶の底でまた鳴った。

乾いた音だった。

誰かが立ち上がり、部屋を出る前に、最後まで戻さなかった椅子の音。

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