第7話 欠けた写し

澪の手は、胸元から離れなかった。
白手袋の指先が、布地の上で紙の角を押さえている。隠しているというより、そこにあるものが崩れないよう支えているように見えた。
「篠原さん」
相馬が呼んだ。
声は静かだったが、今度は問いではなかった。証拠を提出するよう求める声だ。
澪はすぐには答えなかった。床下の浅い空間には、石灰で汚れた布切れと、証拠袋に収められた真鍮の輪だけが残っている。文書はない。順番の写しだけが、犯人の手順を物語っていた。
黒瀬は一歩下がり、壁際に身を寄せた。逃げるためではない。場全体を見渡すための位置だった。
「その写しは、事件の前からお持ちでしたか」
相馬が訊いた。
「はい」
「なぜ、最初から提出しなかった」
「提出すれば、誰かが順番を読み取るからです」
「誰か、とは」
澪は黒瀬を見なかった。
「鍵を持つ者です」
高瀬が小さく息を吐いた。腕時計に目を落とす癖が、途中で止まる。
「つまり、六本鍵の操作順を知っている人間が、館の中に複数いるということですか」
「違います」
澪は内ポケットから、薄い封筒を取り出した。家紋も館の印章もない、ただの灰色の封筒だった。角は湿気で少し波打っている。
「この写しは、順番を伝えるためのものではありません。順番が書き換えられたことを示すためのものです」
黒瀬が初めて口を挟んだ。
「篠原さん、それは少し乱暴な解釈ではありませんか」
「あなたに言われたくはありません」
澪の声には怒気がなかった。そのことが、かえって強かった。
彼女は封筒から一枚の紙を取り出した。薄い和紙のように見えたが、表面には細かな繊維の凹凸がある。ところどころに、押しつぶされた六つの印が残っていた。
私は紙を受け取らず、澪の手元を見た。
「これは、文書の一部ではない」
「ええ。建市文書を包んでいた保存紙に、印を転写したものです。元の紙を傷めないよう、湿らせた布を挟んで押し当てた」
琴音が眉を寄せた。
「だから綿布に石灰水を含ませたんですね。繊維を柔らかくして、印を拾うために」
「石灰は紙を傷めます。短時間なら、ですが」
「短時間で済ませるつもりだった」
琴音の言葉に、澪は返事をしなかった。
私は紙の中央に残された印を覗き込んだ。波、錨、塔、月。そして空白。最後に、削られた跡。
操作盤と同じだった。
ただし、順番が違う。
「二、五、一、四、三」
私が呟くと、黒瀬の指が革鞄の留め金から離れた。
紙に転写された印は、波、空白、塔、錨、月、削られた印の順に並んでいる。操作盤に残された鉛筆の数字とは一致しない。
「この紙が作られた時点では、五番目が空白だった」
「空白が鍵になっているのか」
高瀬が訊いた。
澪は紙の端を持ち上げた。
「鍵ではありません。順番を一度止めるための位置です。六本鍵は、六つすべてを使う必要がある。ただし、空白の前で一度、機構が沈黙する」
琴音が操作盤へ戻った。印の刻まれた金属板に指を添え、削られた跡をなぞる。
「削られた印は、後から消したものです。刻印そのものを削ったというより、上から新しい板を当てて隠している」
「隠したのは誰だ」
相馬が言った。
琴音は板の縁を見た。
「新しい板は、古いねじで留められています。でも、ねじ頭に錆がない。取り外して、もう一度付け直した」
私は床に落ちていた石灰の粉を思い出した。壁を動かした跡。床下の布。可動壁の前で途切れた白い線。
「黒瀬さん。あなたは順番を知っていたんじゃない。順番を変えた」
「私が?」
「操作盤の板を交換し、元の順番を消した。そうすれば、館の人間が正しい順番を使っても、文書の保管庫ではなく別の空間が開く」
黒瀬は、困ったように笑った。
「なるほど。面白い推理です。ただ、私が板を交換したという証拠はどこにありますか」
「まだない」
「では、私を疑う理由も――」
「あります」
言葉を挟んだのは澪だった。
黒瀬が彼女を見る。
「あなたは、私にこの写しを見せるよう求めました」
「確認したかっただけです」
「いいえ。私が持っていることを知っていた。だから、返してほしいと言わず、隠していると指摘した」
「館の主任学芸員なら、写しの管理状況くらい把握していて当然でしょう」
「私が誰にも見せていない写しを?」
黒瀬の笑みが薄くなった。
澪は紙を胸の前へ戻した。
「この写しの存在を知っていたのは、私と、以前これを転写した担当者だけです。その担当者は三年前に退職し、今は市外にいます」
「それでも、記録に残っていた可能性はある」
「記録には、転写したことを書いていません」
「では、あなたが誰かに話した」
「話していません」
二人の会話は、声を荒らげないまま硬くなっていった。霧雨が窓を叩く音だけが、その間を埋めている。
私は澪の紙を見た。端に、小さな黒い点が三つ並んでいる。墨の汚れではない。紙の繊維が押し潰され、焦げたように変色していた。
「この写しは、いつ作った」
「三日前です」
「盗難の前日か」
「はい」
「なぜ、その時期に」
澪は一度、目を伏せた。
「目録原本の空白が、単なる記載漏れではないと気づいたからです。建市文書を封印した際、鍵の順番を記した頁だけが抜かれていた。けれど、抜かれた頁の綴じ糸に、古い紙粉が残っていた」
「誰かが後から抜いた」
「そして、抜かれた頁の内容を知る者が、別の順番を作った」
高瀬が紙を覗き込んだ。
「文書を盗むために?」
「盗んだように見せるために、です」
私は彼を見た。
高瀬は口を閉じた。数字を探すように、親指で万年筆の軸を撫でている。
そのとき、相馬の無線が鳴った。
『本署より。資料館北側の排水路で、不審な車両の目撃情報。白い保冷車、ナンバー一部不明。発見時刻は――』
相馬が応答し、時刻を確認する。
「満潮まで、あと二十五分です」
黒瀬が窓の外を見た。
霧の向こうで、港の照明が滲んでいる。潮はもう、回廊の床下へ届き始めているはずだった。
「保冷車が本物なら、文書は館の外へ運ばれた可能性があります」
高瀬の声に、焦りはなかった。代わりに、計画がまた数字へ戻っていく冷たさがあった。
「偽物なら」
私が言うと、彼は黙った。
黒瀬は革鞄を持ち直した。
「皆さん、外の車両を確認すべきではありませんか。ここで私を疑い続けても、文書は戻りません」
「あなたも来てもらいます」
相馬が言った。
「もちろんです」
黒瀬は頷いた。
だが、澪の手にある紙へ視線を落とした瞬間、彼の右手が鞄の内側へ入った。
私は反射的に腕を伸ばした。
黒瀬の指先が封筒へ触れる寸前、琴音が工具箱を床へ落とした。金属が大きな音を立て、黒瀬の手が止まる。
相馬が彼の腕を掴んだ。
鞄の中から、薄い金属板が滑り落ちた。
操作盤に取り付けられていた、古い印の板だった。
その裏側には、石灰で白くなった指の跡が残っていた。
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