第6話 空白の順番

資料館へ戻る道で、霧笛が一度鳴った。
音は港の奥から押し寄せ、建物の壁にぶつかってから、遅れて私たちの背中へ回り込んできた。満潮まで一時間半。高瀬が倉庫で告げた時間は、もう少し縮んでいる。
資料館の正面扉は施錠されていた。相馬が鍵を出すより先に、内側から錠が外れた。
黒瀬悠人が立っていた。
「お帰りなさい。ずいぶん早かったですね」
濡れていない革鞄を片手に、黒瀬は微笑んだ。外は霧雨だった。私たちの肩や髪には細かな水滴がついているのに、彼の外套には湿り気がない。
「いつから中に」
相馬が訊いた。
「市役所で資料館の臨時閉鎖について協議していました。こちらへ寄ったところ、皆さんが戻られると聞きまして」
「誰から聞いた」
黒瀬は一度だけ目を細め、それから柔らかく笑った。
「館の職員からです。名前を挙げる必要がありますか」
「必要になるかもしれません」
相馬の声は低かった。
黒瀬はそれ以上答えず、先に廊下へ歩き出した。靴底が乾いた石床を叩く。私はその音を聞きながら、床の端に目を落とした。
入口から奥へ向かって、細い水滴の跡が一つだけ続いている。
私たちのものではない。私たちは倉庫から戻ったあと、正面の庇の下で一度立ち止まっている。水滴の跡は、それより前から乾きかけていた。
「黒瀬さん」
呼び止めると、彼は振り返った。
「はい」
「この廊下を、先ほど歩きましたか」
「ええ。職員室へ」
「そのとき、床は濡れていましたか」
「気にしていませんでした」
「気にしない人の靴底にしては、跡が少ない」
黒瀬は自分の靴を見た。黒い革靴の縁に、白い粉が薄く付着している。
琴音がしゃがみ込み、指先で床をなぞった。白い粉を親指と人差し指で擦る。
「石灰です」
高瀬が小さく息をついた。
「倉庫の箱と同じですね」
「同じではありません」琴音は粉を鼻先へ近づけた。「倉庫のものは乾ききっていました。これは湿ったあとに固まっている。誰かが館内で使ったものです」
黒瀬の笑みが崩れたわけではない。ただ、口元の形だけが先に残った。
「石灰など、改修工事では珍しくありません」
「この館では、改修工事は三年前に終わっています」
「細かな補修は続いていますから」
「補修の記録には、石灰を使った記載がありません」
琴音は立ち上がった。手袋についた粉を、乱暴に払わず、布で丁寧に拭い取る。
「記録にないことは、工事にもなかったことになるんですか」
黒瀬は彼女を見た。敵意を向けるほど強い視線ではない。だが、相手を仕事の範囲へ押し戻そうとする冷たさがあった。
「白波さん、建物の保全と事件の捜査は別です」
「壊れ方を見れば、別ではありません」
琴音の返事は穏やかだった。
「建物は、人が何をしたかを残します。残したくないことほど、変なところに残るんです」
黒瀬はそれを聞き流すように、奥の回廊へ目を向けた。
私は彼の視線の先を追った。
潮見回廊の可動壁が、閉館時とは逆の位置にある。
壁と床の境目に、細い黒い線が走っていた。石灰を混ぜた水で目地を埋め直した跡だ。乾いた部分と湿った部分が、きれいに分かれている。
「動かしましたね」
私が言うと、黒瀬はすぐに否定しなかった。
「危険な状態でしたので、確認しただけです」
「鍵もなしに?」
「管理用の鍵は、私も預かっています」
澪が近づいてきた。白手袋をはめた手が、壁の継ぎ目の手前で止まる。
「管理用の鍵は、可動壁を固定するためのものです。動かすための鍵ではありません」
「古い機構です。慣れた者なら扱えます」
「あなたは、慣れているのですか」
澪の声は静かだった。
黒瀬は澪を見た。二人の間に、長い沈黙が落ちた。霧雨が窓を細く叩いている。
「篠原さん。私はこの館を守るために、できることをしているだけです」
「守る、という言葉は便利ですね」
澪の指先がわずかに動いた。壁へ触れそうになり、触れずに戻る。
「見せないことも、動かさないことも、封じることも、すべて守ると呼べる」
「では、あなたは何と呼ぶのです」
「確認です」
私は壁の脇にある操作盤へ歩いた。古い金属板の上に、六つの印が刻まれている。波、錨、塔、月、空白、削られた印。
その下に、薄く鉛筆で数字が残っていた。
二、五、一、四、三。
第五の印の横に、細い傷が一本ある。誰かが最後の数字を書きかけて、途中で消した跡だった。
「黒瀬さん」
彼は返事をしなかった。
「あなたは、六本鍵の順番を知っていた」
高瀬が息を呑んだ。相馬はすぐには口を挟まず、手帳を開いた。
黒瀬は操作盤に手を伸ばさなかった。代わりに、鞄の留め金を指で撫でた。
「知っていたとして、私が盗難を行った証拠にはなりません」
「ええ。まだ」
「まだ、という言葉で人を追い詰めるのは、調査員の仕事ですか」
「記録の空白を埋めるのが仕事です」
私は操作盤の下の床を見た。石灰の粉が、壁の前で途切れている。そこから先にはない。壁を動かした者は、壁の向こうへ入ったのではない。手前で何かを出し入れし、戻した。
琴音が床板の一枚を指で叩いた。
「ここ、音が違います」
「また隠し収納か」
高瀬が言った。
琴音は工具箱から錐を取り出した。黒瀬が初めて一歩だけ前へ出た。
「白波さん。そこは床材が傷みやすい場所です。許可なく外すのは――」
「傷ませたのは、私ではありません」
錐の先が目地へ入る。
乾いた音がした。
床板が浮く。下には浅い空間があり、石灰で白く汚れた布切れと、真鍮の薄い輪が落ちていた。文書はない。
相馬が手袋を替え、輪を証拠袋へ入れる。
「これは何ですか」
黒瀬は答えなかった。
澪が空間の内側を覗き込んだ。白手袋の指先が、布切れの端で止まる。
「これは、建市文書を包んでいた布ではありません」
「なぜわかる」
「織り目が違います。館の保管布は麻です。これは綿。しかも、石灰水を含ませてあります」
「石灰水を含ませると、何が起きる」
私が訊くと、琴音が布の中央を広げた。
そこに、押しつぶされた文字の跡が残っていた。
紙を包んだまま、強く何かへ押しつけた跡だ。文字は読めない。ただ、四角い枠と、その内側に並ぶ六つの小さな印だけが浮いている。
「写しを作ったんです」澪が言った。
「文書の写しを?」
「いいえ。順番の写しを」
黒瀬が目を伏せた。
その瞬間、遠くで二度目の霧笛が鳴った。
今度は音が近かった。満潮が、港の底からゆっくり押し上がってきている。
相馬が証拠袋を閉じた。
「黒瀬さん。市役所へ同行願えますか」
「もちろんです」
彼は穏やかに答えた。
「ただ、その前に一つだけ。篠原さん、あなたが隠している写しは、もう一枚ありますね」
澪の顔から血の気が引いた。
私は彼女を見た。黒瀬は笑っていたが、その笑みは先ほどまでのものとは違っていた。相手を安心させるためではない。逃げ道を塞いだ者の笑みだった。
澪の手が、胸元の内ポケットへ触れた。
紙の擦れる音がした。
← 横にスクロールして読み進められます
