第5話 満ちる前に

倉庫街は、開発途中の傷口のような場所だった。
新しい舗装が半分だけ敷かれ、残り半分は旧い石畳のまま剥き出しになっている。相馬の車を降りると、潮の匂いが濃くなった。港湾特有の油と鉄と藻の匂いに、資料館では感じなかった生臭さが混じっている。
高瀬が先に立って歩いた。革靴の底が濡れたコンクリートを打つ音は、驚くほど規則正しい。
「十二棟のうち、再開発区域に含まれるのは八棟です。残りの四棟は既に解体申請が出ています」
「解体前に、中を見た人間は」
「私と、市の担当者、それから――」私が言い終える前に、高瀬は答えを継いだ。「黒瀬さんも、一度視察に来ています。文化財の移設可能性を確認するために」
九条が杖を止めた。
「移設、とは穏やかな言葉だ」
「解体すれば、何もかも失われるよりはましでしょう」
「移した先で失われることもある」
二人のやり取りに構わず、琴音は倉庫の外壁に手を当てていた。錆びた鉄扉の前で足を止め、蝶番のあたりを覗き込む。
「ここ、最近開けられています」
「解体の下見でしょう」相馬が言う。
「下見なら、もっと丁寧に扱います。この蝶番、無理に押し込んだ跡がある」
倉庫の中は薄暗く、埃と潮気の混じった空気が滞っていた。木箱が積まれ、その隙間から鈍い光が差し込んでいる。相馬が懐中電灯を向けると、床に細い足跡が浮かび上がった。
濡れた跡ではない。乾いた泥の跡だった。
「新しい」
私はしゃがみ込み、跡の輪郭をたどった。踵の減り方が均一で、爪先だけが深い。急いで歩いた足だ。だが、跡は途中で不自然に途切れている。
「ここで消えている」
「消えたわけじゃない」琴音が床板を軽く叩いた。「板が変えられています。周りより新しい」
板を剥がすと、下から出てきたのは空の木箱だった。中には何もない。ただ、内側に薄く白い粉が付着していた。真鍮を削った粉に似ていたが、匂いを確かめると違う。石灰だ。
「これは――」
「囮です」
澪の声だった。彼女はいつの間にか倉庫の入口に立っていた。白手袋をしたまま、木箱を見下ろしている。
「囮とは、穏やかでない言い方だ」九条が振り返る。
「文書は、ここにはありません。最初からなかった」
「なぜ言い切れる」
「石灰は、建市文書の保管に使われたことがない資材だからです。館では珍しい保存剤を使います。この箱に文書が入っていたなら、必ず違う匂いが残る」
私は箱の縁に鼻を近づけた。澪の言う通り、資料館の紙の匂いはしない。あるのは、倉庫そのものの匂いだけだった。
「誰かが、ここに文書があったように見せかけた」
「見せかけて、何を得る」高瀬が眼鏡を直しながら言う。
「時間です」相馬が短く答えた。「捜索先を分散させれば、その分、本当の場所を探す時間が延びる」
高瀬は反論しなかった。ただ、腕時計に目を落とした。
「満潮まで、あと一時間半です」
「潮位が、何の意味を持つ」
「潮見回廊の可動壁は、満潮時には動かせません。水位が上がると、床下の機構が浸水域に入る」
私は琴音を見た。彼女は既に頷いていた。
「つまり、犯人が館の内部で動けるのは、干潮の前後だけ。倉庫に文書を運んだように見せかけたのは、その時間の外へ私たちを誘導するためです」
九条が杖の先で床を突いた。
「では、我が家の地図も、その誘導の一部か」
「おそらく」
「私を巻き込んでまで、時間を稼ぎたい者がいる、ということだな」
彼の声には、初めて微かな怒りが滲んでいた。家の名を利用されたことへの怒りだ。
倉庫を出ると、霧はさらに濃くなっていた。港の向こうに、資料館の尖塔がぼんやりと霞んでいる。私はその輪郭を見ながら、澪の横顔をうかがった。
「あなたは、最初から囮だと気づいていた」
「疑っていただけです」
「疑いを、なぜ黙っていた」
澪は少し間を置いた。
「間違っていた場合、九条様の家を余計に疑わせることになる。順番を誤れば、誰かを傷つける」
「今回は、順番を守って正しかった」
「正しかったかどうかは、まだわかりません」
彼女はそう言って、白手袋の指先を見つめた。その先に、まだ見えない何かがあるように。
相馬が無線で本署に連絡を入れる声が、霧の中に低く響いた。満潮までの時間が、いよいよ短くなっていた。
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