4話 偽りの海図

霧笛の余韻が消えるまで、私たちは誰も口を開かなかった。

壁の奥にある空洞は、耳を近づけると海の底のような音を返した。水が流れているわけではない。石と石のあいだに残った湿気が、遠い港の振動を抱えているだけだ。

琴音が工具箱から小型の鏡を取り出し、壁際の隙間へ差し込んだ。鏡面に映ったのは、錆びた棒と、六角形の金具だった。

「機構の一部です。収納ではないですね」

「文書を隠せる広さは」

「人が手を入れる程度。紙束なら、入らなくはないですけど、出すには壁を戻さないといけない」

「つまり、ここを使ったなら、最後に必ず可動壁を閉じる必要がある」

「閉じた痕跡はあります。さっきの擦過痕です」

澪は壁の印を見つめていた。波、錨、塔、月、空白、削られた印。六つ目だけが消されているため、順序の最後がわからない。

「この印の意味を、あなたは知っていますね」

私が言うと、澪はすぐに否定しなかった。

「知っているのは、意味ではなく記録です。旧要塞の改修図に、同じ印が使われている。ただし、六つ目は最初から空白でした」

「最初から?」

「少なくとも、私が確認した写しには」

「原本では違う可能性がある」

「あります」

澪の声は薄かった。紙のように薄く、それでも破れない。

「原本は市役所の文書庫にあります。ですが、閲覧許可が必要です」

「黒瀬さんなら取れる」

「ええ。だから、彼に渡したくない」

澪がそう言った瞬間、琴音が工具箱の蓋を閉じた。

「壁の向こう、見てきます」

「どこから入る」

「入るんじゃなくて、開けます」

彼女は床に這いつくばり、目地の奥へ細い錐を差し込んだ。石を壊す音ではない。固まった埃をほぐす、乾いた音だった。しばらくして、床板の一枚がわずかに浮いた。

その下から出てきたのは、薄い真鍮板だった。表面に、古い数字が刻まれている。

二、五、一、四、三。

最後だけが削り取られていた。

「鍵の順番だ」

「違います」

琴音は板を指で押さえた。

「これは順番そのものじゃない。順番を試した記録です。誰かが五本までは動かして、最後で止めた」

「なぜ最後で止める」

「開けられなかったか、開けたくなかったか」

澪が息を吸った。ほんのわずかな音だったが、石壁の反響より近くに聞こえた。

私は数字を手帳へ写した。二、五、一、四、三。六つ目の代わりに空白がある。

そのとき、一階から相馬の声がした。

「蓮見さん。九条さんが来ています」

旧家の当主は、開館前の資料館に似つかわしくないほど整った外套を着ていた。濡れた杖の先だけが、石床の上で微かに水を落としている。

「朝から失礼する」

九条宗信はそう言い、私ではなく澪を見た。

「昨夜、我が家の蔵を調べた者がいる」

「警察ですか」

相馬が尋ねる。

「警察なら、名乗るでしょう。名乗らぬ者が、地図の保管箱だけを開けた」

九条は家紋の入った封筒を机へ置いた。封は切られていたが、中の紙は一枚も乱れていない。

「未公開地図を盗まれたのですか」

「盗まれてはおらぬ。写しを一枚、抜き取られた」

「それは盗難でしょう」

「家の中のことを、他人の言葉で決めるものではない」

九条はそう言って、別の紙を取り出した。古い海図の写しだった。港の輪郭と旧要塞の地下線が、薄い墨で描かれている。資料館の地下から外港の倉庫へ向かう線が一本だけ、赤くなぞられていた。

「この線を知る者は」

「我が家では、私と先代だけだった。先代は死んでいる」

「では、あなたが疑われます」

「疑いは、持つ者の自由だ。だが地図は私のものではない」

九条は海図の端を押さえた。

「これは写しだ。原図には、港へ抜ける線などない」

私は紙の裏を見た。表よりも裏のほうが湿っている。海霧を吸った湿り方ではない。片面だけが、長く石か木に接していたような冷たい膨らみだった。

「この写しは、どこにあった」

「蔵の北側、石壁に埋め込んだ保管箱だ」

「石壁の中?」

琴音が身を乗り出した。

九条は彼女へ目を向けた。

「古い家には、古い仕舞い方がある」

琴音は紙を受け取らず、端だけを見た。

「この赤い線、あとから引かれています」

「なぜわかる」

「墨の沈み方が違う。下の線は紙の繊維に入り込んでいるのに、赤いほうは表面を撫でただけです。しかも、紙が湿った状態で引かれている。線の端に毛羽立ちがある」

「つまり、誰かが濡らしてから書いた」

「濡らしてから、乾く前に折った」

琴音が折り目を示した。海図の中央に、細い白い筋が走っている。

私は、潮見回廊の床に残った真鍮粉を思い出した。濡れた足跡。可動壁。壁の奥の空洞。そして、港へ向かう赤い線。

「これは盗難経路を示すために置かれた」

九条の目が細くなった。

「私を疑うのか」

「あなたを、ではない。この地図を疑っています」

「紙は嘘をつくまい」

「紙は嘘をつかない。嘘を書く人間がいるだけです」

九条はしばらく私を見た。怒りは見えなかった。ただ、古い家の扉を内側から閉めるような沈黙があった。

高瀬匠が、その沈黙を割った。

「仮にこの地図が偽物だとしても、港側の倉庫を確認する価値はあります。再開発区域内ですから、立ち入りの手配は私ができます」

「手配ではなく、同行してください」

私が言うと、高瀬は眼鏡の位置を直した。

「もちろん構いません。ただ、倉庫は十二棟あります。全部を見るなら、少なくとも三時間は必要です」

「数字で逃げないでください」

「逃げてはいません。現実を申し上げています」

彼は穏やかに笑った。

「もし文書が港へ運ばれたのなら、潮位の関係で動かせる時間は限られます。次の満潮まで二時間四十分。急ぐべきでしょう」

相馬が腕時計を見た。

「倉庫へ行きます。ただし、地図は証拠として預かる」

九条が杖を持ち直した。

「その地図が偽物なら、誰が何のために作ったのかを見届けたい」

澪は黙っていた。机の端で、白手袋をはめた指が一度だけ紙を揃えた。

私はその動きを見た。彼女は海図を見ていない。海図の下に重ねられた、薄い複写紙を見ている。

紙の隙間から、鉛筆の跡がわずかに透けていた。

赤い線ではない。

六つの印と、最後に残された空白だった。

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