8話 潮の下の保管庫

相馬が金属板を拾い上げた。

証拠袋の口が開き、透明な膜越しに、板の裏側が見える。石灰で白く汚れた指の跡。その中央に、細い傷が幾つも走っていた。ねじを外すために使った工具の痕だ。

黒瀬は抵抗しなかった。相馬に腕を取られたまま、落ち着いた声で言った。

「それだけで、私が文書を盗んだことになりますか」

「盗難の前に操作盤を改変し、事件後にその板を持ち出そうとした。理由を聞く必要はあります」

「理由なら、館の機構が危険だったからです。古い金具が緩んでいた。事故が起きれば、責任を問われるのは誰ですか」

「あなたが板を外した理由にはなっていません」

「理由というものは、後からいくらでも名前を変えられます。保全、隠蔽、管理、改ざん。呼ぶ人間の立場で変わる」

黒瀬の言葉は穏やかだった。だが、その穏やかさの底で、何かが沈みきらずに揺れている。

相馬は手帳に時刻を書き込んだ。

「十七時二十二分。操作盤の旧板を所持。現場で確認」

「相馬さん」

黒瀬は彼を見た。

「あなたは手順を重んじる。なら、まだ私を犯人とは呼ばないはずです」

「呼んでいません」

「ですが、そう扱っている」

「扱いではなく確認です」

相馬はそれ以上続けず、黒瀬の鞄を別の警官へ渡した。革の表面には乾いた霧の粒が付着している。内側からは、古紙と油の混じった匂いがした。

私はその匂いに覚えがあった。

建市文書を包む保存箱に使われていた、薄い防湿紙の匂いだ。

「鞄を開ける前に」

私は言った。

黒瀬の視線がこちらへ戻る。

「何でしょう」

「その鞄、いつから持っていましたか」

「朝からです」

「市役所にも?」

「ええ。会議資料を運んでいました」

「中身は誰が確認した」

相馬が警官へ目を向けた。鞄の留め金が外される。

書類の束、予備の名札、折り畳まれた地図。どれも表面は乾いていた。底の内張りだけが、わずかに波打っている。

琴音が身を屈めた。

「底、濡れています」

「結露でしょう」

黒瀬はすぐに言った。

「革鞄なら、この季節には珍しくありません」

琴音は答えず、指先で内張りを押した。布が沈む。底板の下に空間があるらしい。

「結露なら、端から乾きます。これは中央だけが湿っている」

警官が鞄を裏返した。底板を固定していた薄い金具が外れ、内側から黒い防水布の切れ端が出てきた。

文書はなかった。

代わりに、白い紙片が一枚だけ残っていた。紙の表面には、六つの印が並んでいる。波、錨、塔、月、空白、削られた印。

第七話で見た写しと同じだった。

ただし、この紙片には印の下に数字がない。裏側に、鉛筆で一行だけ書かれていた。

〈水が満ちると、上へ戻る〉

「詩ですか」

高瀬が言った。

その声に、苛立ちが混じっていた。数字へ変換できない言葉を、彼は扱いにくそうに見ている。

澪が紙片へ手を伸ばしかけた。だが白手袋の指を止め、相馬を見る。

「触れても?」

相馬は頷いた。

澪は紙片を受け取り、表裏を確かめた。

「これは建市文書の紙ではありません。現代の機械漉きです」

「では、ただの偽物か」

九条が杖先で床を確かめながら言った。

「偽物にも、作った者の意図は残る」

九条の目は黒瀬へ向いていた。

黒瀬は小さく息を吐いた。

「皆さん、私を悪役に仕立てるのは簡単です。開発会社にも、市役所にも、資料館にも、私を疑う理由がある。調整役というのは、誰からも好かれる代わりに、何かあれば最初に疑われる立場です」

「便利な役割ですね」

澪が言った。

「誰かの責任を引き受けるふりをして、誰の責任も残さない」

黒瀬は彼女を見た。微笑みは消えていない。しかし頬の筋肉が、わずかに固まっていた。

「篠原さん。あなたは公開の順序を選び続けた。その結果、誰にも知られない空白が生まれた」

「空白を作ったのは私ではありません」

「空白を残した者も、時には同じ責任を負います」

「だから盗んだのですか」

澪の声が、初めて低く沈んだ。

黒瀬は答えなかった。

外で霧笛が鳴った。短く、一度。続いて、北側の排水路から警官の声が聞こえた。

白い保冷車が見つかったらしい。

私たちは資料館を出た。霧はさっきより濃く、正面階段の先が灰色の壁になっていた。港の水音が近い。満潮が、石積みの下まで来ている。

保冷車は北側の排水路脇に停まっていた。車内には濡れた麻布、空の木箱、石灰の袋が一つ。建市文書はなかった。

木箱の蓋には、六本の浅い溝が刻まれていた。

琴音が溝へ指を入れる。

「これは鍵を置くための跡じゃありません」

「では何のためだ」

相馬が訊いた。

「鍵を押しつけた跡です。六本を並べて、上から蓋を閉めた」

私は木箱の底を覗き込んだ。石灰の粉が一方向へ寄っている。車が走った振動で動いたのではない。箱を傾け、何かを滑らせたときの寄り方だった。

「この箱は、文書を運ぶためじゃない」

「囮か」

「ええ。誰かに見つけさせるための」

高瀬が車内を見回した。

「では、本物はまだ館内にある?」

私は答えず、手にした紙片を見た。

〈水が満ちると、上へ戻る〉

操作盤の六つの印。空白の前で機構が沈黙すること。可動壁の前で途切れた石灰。床下にあった浅い収納。

水が満ちると、上へ戻る。

「琴音。潮見回廊の床下に、排水の逆止弁はあるか」

彼女は顔を上げた。

「あります。旧要塞の排水設備を一部残している。ただ、今は使われていないはずです」

「使われていない記録は?」

「記録では」

琴音は工具箱を抱え直した。

「現物を見ないと何とも言えません」

資料館へ戻る途中、黒瀬は相馬に付き添われていた。霧のなかで、彼の靴音だけが妙に乾いて聞こえた。

潮見回廊の床板を外すと、下から冷たい空気が上がってきた。先ほどの浅い収納より深い。石造りの縦穴があり、その底に水が溜まっている。

琴音が灯りを差し込んだ。

水面の下に、真鍮の輪が見えた。

「下ではなく、上です」

琴音が呟いた。

縦穴の側壁に、錆びた梯子が取り付けられている。水位が上がれば、浮力で内部の蓋が押し上がる仕組みらしい。だが蓋は途中で止まり、石の縁に引っかかっていた。

琴音が工具を差し込む。金具が軋んだ。

そのとき、黒瀬が初めて声を荒らげた。

「触るな!」

回廊に声が跳ね返った。

誰も動かなかった。

黒瀬自身が、声を出したことに驚いたように口を閉じる。相馬が彼の肩を押さえた。

「理由を聞きます」

黒瀬は水面を見下ろしていた。

「そこには、危険なものがある」

「建市文書ですか」

「文書だけではない」

澪が一歩近づいた。

「何を隠したのです」

黒瀬は目を伏せた。笑みを作ろうとして、うまくいかなかった。

琴音が金具を外す。

石の蓋が、潮の上昇に押されてゆっくり浮いた。

その裏側に、防水布で包まれた束が固定されていた。布の端から、古い紙の角が覗いている。

同時に、細い金属音が六度、地下から響いた。

ひとつずつ、順番を確かめるように。

澪が息を吸った。

私は水の匂いを含んだ紙へ手を伸ばした。指先に触れる前から、それが建市文書だとわかった。

だが、束の下にはもう一つ、薄い封筒が挟まっていた。

表には、黒いインクでこう書かれている。

〈公開を止めた者たちへ〉

黒瀬の顔から、最後の微笑みが消えた。

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