第9話 ずらす音

管理人室を出たあと、私は廊下の端まで歩いた。
行き先があったわけではない。エレベーターの前に立ち、表示灯の消えた階数を確かめ、戻ってくる。それだけの動作を、必要な確認のように繰り返していた。
四〇五号室の前を通り過ぎるとき、扉の内側で何かが触れ合った。
金属ではない。ガラスでもない。乾いた布が、硬いものの角に擦れたような音だった。
私は足を止めた。
三秒。
廊下の向こうで、配管が低く鳴った。
七秒。
四〇五号室の扉が開いた。
日野菜摘が立っていた。髪は乱れていない。部屋着の襟元も整っている。けれど、左手だけが胸元を押さえ、右足のつま先が玄関の内側と外側の境目を何度も往復していた。
「また音を立てたでしょう」
声は鋭かった。
「歩いていただけです」
「歩く音の話じゃありません。今、止まったでしょう。そこで。わざとでしょう」
「何をわざとしたんですか」
「聞いていた」
「何を?」
菜摘は廊下の床を見た。それから天井を見上げ、また床へ目を戻した。視線が落ち着かないというより、落ち着ける場所を探しているようだった。
「あなた、音を聞くとき、壁に近づくでしょう。藤崎さんと同じ」
「藤崎さんも、ここで壁に耳をつけていたんですか」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「では、何を聞いているんですか」
「私の部屋の前で、その聞き方をしないでください」
「聞き方に種類があるとは思いません」
「あるんです。何も知らない人の聞き方と、知っている人の聞き方は違う」
菜摘の声が廊下へ跳ね返った。返った声が、彼女自身へ戻ってくる。その反響を恐れるように、菜摘はすぐ扉の内側へ半歩下がった。
私は四〇五号室の玄関を見た。靴箱の脇に、青い防音テープが貼られている。床と壁の隙間、ドア枠の縁、通気口の周囲。隙間を塞ぐためのテープが、何重にも重なっていた。貼った人間が、一度では信用できず、同じ場所を何度も補強した跡だった。
「昨夜の音を聞いたんですか」
私が尋ねると、菜摘の喉が動いた。
「何のことです」
「四〇四号室の前で、鍵を探していた音」
「私は知りません」
「鍵束が鳴ったと、あなたは言いました」
「言っていません」
「昨日、真壁さんの鍵を見て、そう言った」
「そんな細かいことまで覚えているんですか」
「音と同じです。残るものは残ります」
菜摘は私を睨んだ。だが、目の奥に怒りより先に恐怖があった。恐怖を見られたくない人間は、相手を睨む。私はそれを、彼女の表情ではなく、呼吸の短さで知った。
「あなたは、記録するだけで何もしない」
菜摘が言った。
「藤崎さんもそうだった。何か聞けば書く。何か見れば書く。それで自分だけは、関わっていないつもりになる。紙の上に置けば、自分の外へ出せると思っている」
「藤崎さんを責めているんですか」
「責めているんじゃない。羨ましかったんです」
その言葉のあと、菜摘は口を閉じた。
私は聞き返さなかった。聞き返せば、彼女はまた怒りの形へ戻ると思った。
廊下の手すりから、水滴が落ちた。床に小さな輪ができ、すぐに防水シートの溝へ消えた。
「夜中に、何かをずらす音がするんです」
菜摘は、扉を完全には開けずに言った。
「家具を引きずる音じゃない。家具なら、最初に重さが出る。床へ沈む音がして、引く音が続く。でも、あれは違う。床の向こう側を、薄いものが擦っていく。壁の中を通って、部屋の下へ抜けるみたいに」
「壁の下?」
「そう聞こえるんです。四〇四号室の床の下から、私の部屋の床へ向かって、何かがずれる。少しずつ。押すんじゃなく、逃がすように」
「逃がす?」
「音を逃がすんです。大きな音がしたあと、誰かが別の場所で水を流す。配管が鳴る。その間に、また何かが擦れる。だから、何の音か分からなくなる」
菜摘の手が、胸元から離れた。指先には、白い耳栓のケースが握られている。ケースの蓋には細かな傷があり、何度も開け閉めしたことが分かった。
「苦情は出しましたか」
「何度も」
「管理人室に?」
「最初は紙で。次は口で。最後は、紙に書いても出さなかった」
「なぜ?」
「書いたものを読まれるのが嫌だったからです」
「読まれるために書くのでは?」
「違います。書いている間だけ、音が自分のものになる。どこから来たか分からなくても、何時何分に聞こえたかだけは、自分の手で決められる。でも、それを誰かに渡したら、また別の意味をつけられる。気にしすぎ。建物の音。隣人同士のよくある揉め事。そうやって、私の聞いたものが私のせいにされる」
「藤崎さんは、違う意味をつけなかった?」
「つけました」
「どんな意味を?」
菜摘は目を閉じた。
「連絡だと言った」
「何の連絡ですか」
「誰かが、部屋から部屋へ何かを伝えている。声を出すと聞かれるから、扉や配管や家具を使って知らせている。そう言っていました」
「藤崎さんは、誰が連絡していると思っていたんですか」
「聞きませんでした」
「なぜ?」
「聞いたら、答えが返ってくると思ったから」
菜摘は耳栓のケースを強く握った。プラスチックが軋む。
「答えが返ってきたら、私はもう眠れなくなる。知らない間は、音だけで済むんです。音は、こちらへ入ってこない。意味を持たせたら、そこに人がいる。人がいるなら、いつか扉を開けなければならない。私は、扉を開けたくない」
「それでも、音を聞き続けている」
「聞きたくないから聞くんです」
その言葉は、廊下の空気に長く残った。
私は彼女の部屋の中を見た。玄関の正面に、小さな時計が置かれている。秒針は動いているが、音は聞こえない。時計の周囲には、厚い布と吸音材が立てかけられていた。自分の生活から音を削り続けた部屋なのに、壁の向こうの音だけは消せないらしい。
「記録を見せてもらえますか」
「警察みたいなことを言うんですね」
「警察に見せるべきだと思います」
「あなたに渡したら、あなたも読むでしょう。読んで、順番を変えるでしょう。あなたは音を数えるけど、順番を変えない保証はない」
「変えません」
「どうして?」
「事実は、整合していなければ信じないからです」
「整合しているように並べることもできる」
「あなたは、もう並べている」
菜摘は私の手帳へ目を落とした。
「藤崎さんの記録と同じ時刻を書いていた。あなたも、あの人と同じ場所に立っている」
「同じ場所に立っているだけです」
「それを、関わっていないと言うんでしょう」
返事の代わりに、階段のほうから足音が聞こえた。
一歩。
二歩。
そこで一度止まる。
沢渡葵が、薄い紺色の折りたたみ傘を畳みながら廊下へ出てきた。傘の先から水滴が落ち、床に小さな線を引いている。彼女は私と菜摘を見比べたが、どちらにもすぐ声をかけなかった。まず、床に残った水滴の間隔を見た。
「お話の途中でしたか」
「帰ってください」
菜摘が言った。
葵は傘を壁際へ立てかけ、黒い手帳を開いた。
「分かりました。ただ、帰る前に、ひとつだけ確認させてください」
「確認なら管理人にしてください」
「真壁さんには、すでに聞いています」
「私は何も知りません」
「知っているかどうかではなく、聞いた順番を確認したいんです」
葵は私ではなく、菜摘の手元を見ていた。
「日野さん。昨夜、最初に聞いたのは何ですか」
「……音です」
「種類は?」
「引き戸」
「次は?」
「配管」
「その次は?」
菜摘は答えなかった。
葵は急かさなかった。手帳の余白に、万年筆で小さく線を引く。書いたのは文字ではなく、三つの空欄だった。
「日野さん。私は音の正体を決めに来たわけではありません。誰かが何をしたのかを、今ここで断定するつもりもない。ただ、聞いた順番だけは、聞いた人の記憶として残しておきたいんです。音は消えます。人は、あとから聞いた話に合わせて、自分の記憶を直してしまう。だから、今の順番をそのまま置いておく。間違っていても、まずは間違ったまま残す必要があります」
菜摘は、葵の顔ではなく、手帳の空欄を見た。
「警察の人は、そうやって書いたものを、あとで別の紙に移すんでしょう」
「移すことはあります」
「都合のいいところだけを?」
「そうならないように、原本を残します」
「原本がなくなったら?」
「なくなったこと自体を記録します」
菜摘は小さく笑った。笑いというより、乾いた息が漏れた。
「そんなことを言って、何が変わるんですか。私が前に出した苦情は、いつの間にか『生活音に関する相談』になっていた。『何かをずらす音がする』と書いたのに、『家具の移動音が気になる』になっていた。私が書いたのは、家具じゃない。なのに、誰かが読みやすい言葉に直した。読みやすくなった代わりに、怖さだけが消えた」
「苦情の控えはありますか」
「あります」
菜摘は扉の内側へ戻り、すぐには入らず、こちらを振り返った。
「でも、見せたら、あなたたちはまた意味をつける」
「見せてください。意味はあとで考えます。まず、何と書かれているかを確認します」
「確認して、私を疑うんでしょう」
「疑う必要があるなら、疑います」
葵の声は静かだった。

「ただし、日野さんの不安を理由に疑うことはしません。時間、場所、音の種類。そこに矛盾があるかどうかだけを見ます。あなたが怖がっていることは、証拠にはなりません。でも、怖がっている人が何度も同じ時刻と同じ音を書いているなら、それは記録として扱います」
菜摘は扉の取っ手を握った。
「冷たいですね」
「そう言われることはあります」
「冷たい人は、聞こえないふりをする人よりましだと思いますか」
葵は一拍置いた。
「聞こえないふりをする人が、温かいとは限りません」
菜摘はしばらく黙り、やがて部屋の中へ消えた。
扉は閉めなかった。
奥から、紙を束ねる音がする。引き出しを開ける音。何かを探しているのだろう。私はその間隔を数えそうになり、手帳へ伸ばしかけた指を止めた。
やがて菜摘が戻ってきた。
手には、折り目のついた白い封筒が数枚あった。どれも開封済みで、宛名の部分には黒い線が引かれている。
「読んでください」
葵が受け取る。
菜摘は私へ向かって言った。
「私は、藤崎さんを嫌っていたわけではありません」
「そうは思っていません」
「思っていたでしょう。私が怒鳴るから。四〇四号室の前で、あの人と何度も言い争っていたから。私が一番、あの人を追い出したがっていたように見えたでしょう」
「違うんですか」
「追い出したかったのは、音です。藤崎さんではない。あの人が来てから、音に名前がついた。私が一人で怖がっていたものを、あの人は記録にして見せてきた。見せられたら、知らないふりができなくなる。だから怒鳴った。怒鳴れば、あの人は黙る。黙れば、音も消えると思った」
「消えましたか」
「消えなかった」
葵が封筒の一枚を開いた。
「日付は八年前の十月三日。二十三時十七分。『四〇五、引き戸。二秒後、配管。四〇四、壁際に擦過音』」
私は紙へ目を向けた。
澪の記録と同じ時刻だった。
葵は次の紙を開く。
「十月五日。二十三時二十一分。『四〇四、床面をずらす音。家具ではない。音の終点、四〇三側』」
私の手が、ポケットの中で鍵を握った。
菜摘は、私を見ていなかった。見ているのは葵の手元と、紙の端だけだった。
「これを、藤崎さんから見せられたんですか」
葵が尋ねる。
「はい。あの人は、音の記録を見せるとき、必ず私の部屋の前で立ち止まった。中へ入ろうとはしなかった。ただ、紙を差し出して、私が読むまで待った。読んだあとで、いつも言ったんです。『あなたは聞いている』って」
「日野さんは、何と返しましたか」
「聞いていない、と言いました」
「本当は?」
菜摘は、手のひらを耳栓のケースへ重ねた。
「聞いていました。ずっと」
その声は、怒鳴り声より小さかった。
「でも、聞いていると認めたら、次は見なければならない。誰かが何かをずらしている。誰かが、部屋番号の間を行き来している。誰かが、いないことにされている。そこまで分かってしまったら、私はもう、ただ眠れない住人ではいられない」
「だから、苦情を消した」
「自分で消したものもあります。管理人室へ持っていったものも、返されたものもある。返された紙には、私が書いていない言葉が混じっていた」
「どんな言葉ですか」
「『個人差があります』『建物の構造上、音が伝わる場合があります』『他住戸への配慮をお願いします』。どれも間違ってはいない。でも、間違っていない言葉は、怖いものを隠すのに向いているんです」
葵は紙を揃えた。
「この控えを、預かってもいいですか」
菜摘はすぐに答えなかった。
「返してください」
「原本として、コピーを取ります」
「コピーしたあとで、原本は?」
「お返しします」
「本当に?」
「本当に」
「あなたがそう言うだけでは、信じられません」
葵は自分の手帳から一枚のメモ用紙を切り取った。そこへ日付と時刻を書き、菜摘へ差し出す。
「預かるのは四枚。日野菜摘さんから、沢渡葵が受領。返却予定、明日。これでよければ、署名をお願いします」
菜摘は紙を見つめた。
「そこまで書くんですか」
「書いたほうが、あとで誰も『そんなものは預かっていない』と言えません」
「あなた自身が、忘れないため?」
「私が忘れても、紙が残ります」
菜摘はペンを受け取った。指先が震えていたが、署名の線は意外なほどまっすぐだった。
私はその字を見て、彼女が怒り任せに苦情を書いていたのではないと知った。文字は短く、端正だった。怖さを文章の形から削り落とし、誰にも「感情的だ」と言わせないために整えられている。
葵は四枚の紙を封筒へ戻した。
「最後に、ひとつだけ確認します。『ずらす音』は、毎回四〇三号室側で終わっていましたか」
菜摘の顔が固まった。
「……どうして、それを」
「この記録に書いてあります」
葵は紙の一行を指で押さえた。
「十月五日には、そう書かれている」
「毎回ではありません」
「違う?」
「最初は、四〇三号室側でした。でも、ある夜から変わった」
「どこへ?」
菜摘は廊下の奥を見た。薄暗い窓の向こうで、湾岸の空が白く濁っている。
「四〇四号室の中へ戻る音になった」
「戻る?」
「ずらしたものが、壁のこちらへ来るんじゃない。壁の向こうへ戻っていく。四〇五号室で引き戸が開く。配管が鳴る。四〇四号室で何かが擦れる。そのあと、四〇三号室のほうで音が止まる。まるで、誰かが聞いていることを確かめてから、奥へ引き返すみたいに」
「その夜の時刻は?」
「二十三時二十一分」
私は無意識に、ポケットの中の手帳を握った。
その時刻は、私の記憶にも残っている。
聞こえても、開けなかった。
葵は私を見た。
「佐伯さん。何か思い出しましたか」
「まだ、分かりません」
「分からないことを、そのまま言えるなら十分です」
菜摘がこちらを見た。
「あなたも、あの夜ここにいたんですか」
「分かりません」
「違う。あなたはいた」
彼女の声は震えていた。
「四〇三号室の前で、誰かがずらす音を聞いていた。私は四〇五号室の中で、あなたの鍵の音を聞いた。三回、回したでしょう。最初に一回。少し待って、もう一回。最後に、もう一回」
私の指が、鍵の形をなぞった。
三回。
今は一回しか回さない鍵を、昔は三回回していた。
「どうして、私だと分かるんですか」
「音で分かるんです」
菜摘は初めて、私の顔を見た。
「顔なんか見なくても、誰がどこにいるか分かる。だから怖いんです。壁は薄い。人は近い。なのに、誰もお互いを知らないふりができる。そのふりをしている間だけ、ここは安全に見える」
葵は、受け取った封筒をバインダーへ挟んだ。
「日野さん」
「何ですか」
「あなたが聞いた音は、苦情ではなく記録として扱います」
「それで、何が変わるんですか」
「まず、記録が一つ増えます」
「一つ増えるだけ?」
「一つ増えると、別の記録と照合できます。照合できれば、誰かの記憶だけに頼らずに済む。私は、そうやってしか人を助けられません」
菜摘は葵を見つめた。
「助けると言いましたか」
葵は一度、手帳へ目を落とした。
「言っていません。確認すると言っただけです」
「同じじゃないんですか」
「違います。助けられると約束して、助けられなかったとき、残るのは失望です。確認すると言って確認できれば、少なくとも嘘にはならない」
菜摘は長く息を吐いた。
「冷たい人ですね」
「そうかもしれません」
「でも、今の言い方は嫌いじゃない」
菜摘は扉を閉める前に、部屋の奥へ手を伸ばした。細い紙片を一枚、玄関の床から拾い上げる。
「これも持っていってください」
葵が受け取る。
紙には、時刻と短い一文があった。
二十三時二十一分。 ずらす音のあと、四〇三号室の鍵、三回。
葵の目が、紙から私へ移った。
私は何も言わなかった。
言えないのではなく、言えば、音が記録になると思った。
菜摘は扉を閉めた。最後まで手を添えてから離す。その閉まり方は、藤崎澪のものとよく似ていた。
廊下に残った私は、扉の前で立ち尽くした。
葵が紙をバインダーへ挟む音がする。
遠くで、エレベーターが動き出す。
三十秒後、カメラが白く飛ぶ。
その空白の直前、四〇五号室の内側から、乾いた摩擦音が一度だけ聞こえた。
何かを、壁の向こうへずらす音だった。
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