第10話 第十話 空白の手前

乾いた摩擦音が止んだあとも、私は四〇五号室の前から動けなかった。
音は一度きりだった。けれど、一度きりの音ほど、あとから形を持つ。何かが壁の奥へ戻っていくような、薄く長い擦れ方。菜摘が言ったとおりなら、そこには重さではなく、重さを消そうとする手つきがあった。
沢渡葵は、日野菜摘から預かった紙をバインダーへ挟んだ。挟む前に、紙の表と裏を二度見た。裏には何も書かれていない。それでも彼女は紙を光へかざし、繊維の向こうに文字が透けていないか確かめた。
「戻りましょう」
「どこへ?」
「四〇四号室です」
「鍵は?」
「真壁さんに借ります」
「開けられるんですか」
「開ける必要がある状態かどうかを、まず確認します」
葵はそう言って、先に歩き出した。
四〇四号室の前には、まだ薄い水の筋が残っていた。誰かの傘から落ちたものではない。扉の下から流れ出たようにも見えたが、廊下の傾斜に沿って、壁際へ細く伸びているだけだった。
真壁志保は、管理人室から持ってきた鍵束を握っていた。私たちを見ると、束の一番端にある黒い鍵を指で押さえた。
「中へ入るの?」
「確認だけです」
葵が答えた。
「確認は、入ったあとにするものだよ」
「入らなければ、確認できません」
志保は鍵穴へ手を伸ばした。しかし、差し込む直前で止まった。
「昨日、鍵は掛けたんですか」
私が尋ねると、志保は目を上げた。
「掛けたよ」
「誰が?」
「私」
「その前に、誰かが入った形跡は?」
「形跡というほどのものはない」
「鍵の開閉記録はありますか」
葵が聞いた。
志保はすぐには返事をしなかった。鍵束を持ち替えた拍子に、金属が二度鳴る。
「古い鍵だから、開けた回数までは残らない」
「回数ではなく、最後に使った時刻です」
「そんなものは残らないよ」
「昨日、あなたが鍵を掛けた時刻は?」
「朝の八時過ぎ」
「正確には?」
志保は顔をしかめた。
「八時十二分」
「どうして分かるんですか」
「掃除の巡回が終わった時間だから」
葵は手帳を開き、八時十二分と書いた。
「そのあと、誰かがここへ来た可能性は?」
「住人が勝手に入る鍵は持っていない」
「可能性を聞いています」
志保の手が止まった。
「……理事会の役員が、管理人室の予備鍵を借りることはある」
「誰ですか」
「北条さん」
名前が出た瞬間、エレベーターの表示灯が点いた。
三階から四階へ上がってくる。古い機械音が、壁の内側を通ってこちらへ近づいてくる。葵は扉ではなく、階数表示を見た。
四。
エレベーターが止まった。
扉が開くまで、三十秒近くかかった。
そのあいだ、誰も話さなかった。私は表示灯の下にある防犯カメラを見上げた。小さな赤いランプが点滅し、次の瞬間、映像が切れた。
白い空白。
三十秒。
扉が開く。
北条隆一が立っていた。濃い灰色のコートを着て、片手に透明なファイルケースを抱えている。いつもどおり、口元には薄い笑みがあった。
「皆さん、お揃いで」
彼は四〇四号室を見てから、志保の鍵束へ視線を落とした。
「空室に入るなら、理事会へ一言いただけると助かります。後から手続きの不備を指摘されると、こちらも困りますので」
「手続きの不備を確認しに来たわけではありません」
葵が言った。
「では、何を?」
「昨日から、部屋の前で複数の住人が異常な音を聞いています。空室内の確認が必要です」
北条は軽く笑った。
「空室の音ですか。古い建物ですからね。配管や躯体の収縮で、いろいろな音がします」
「家具を引きずるような音も?」
「空室に家具はないでしょう」
「ないから確認するんです」
北条は葵を見た。笑みは消えていない。けれど、ファイルケースを抱える腕に少し力が入った。
「藤崎さんの件は、まだ失踪扱いではないと聞いています。本人の意思で退去した可能性もある。あまり騒ぎを大きくすると、住民の不安を煽るだけではありませんか」
「不安は、騒ぎが作るものとは限りません」
葵の声が低くなった。
「記録がないことや、記録が書き換えられていることでも生まれます」
北条は、ファイルケースの留め具へ目を落とした。
「記録の書き換えとは、穏やかではありませんね」
「まだ断定していません」
「なら、そういう言葉は慎重に使うべきでしょう」
「慎重に使っています」
短い応酬だったが、間に挟まる沈黙のほうが長かった。
志保が鍵を差し込んだ。
金属が内部で擦れる。
一度。
二度。
最後まで回す前に、北条が言った。
「その部屋は、先ほど私が確認しました」
私は北条を見た。
「何時に?」
「確認します」
彼はいつものように資料へ視線を落とした。
「今朝の九時前です。理事会の資料に、空室の状態を記録する必要がありましたので」
「鍵を借りたんですか」
葵が尋ねた。
「ええ。真壁さんから」
志保の顔が固まった。
「私は、鍵を渡していないよ」
「管理人室の机に置かれていたものを、お借りしただけです」
「勝手に持ち出したんですか」
「勝手に、という表現は正確ではありません。管理業務の一環です」
「返した時刻は?」
「確認します」
北条はまた資料をめくった。
私は彼の手元を見ていた。紙の束のなかに、一枚だけ裏返しになった紙がある。そこから、鉛筆の線が少しだけ覗いていた。
四〇三。
その下に、一九九。
私が見つけた圧痕と同じ並びだった。
北条は私の視線に気づいたのか、ファイルケースを体の横へ移した。
葵が一歩近づいた。
「その資料を見せてください」
「理事会内部の書類です」
「四〇四号室に関するものなら、確認します」
「まだ事件と決まったわけではありません」
「だから、確認です」
北条の笑みがわずかに薄くなった。
そのとき、四〇四号室の内側から音がした。
小さな金属音。
誰かが、床へ鍵を置いたような音だった。
志保が鍵穴から手を離した。
「今の、聞こえた?」
誰も答えなかった。
私は扉へ顔を近づけた。木材と湿った紙の匂い。その奥に、かすかな油の匂いが混じっている。
葵が無言で志保を見る。
志保は鍵を握り直した。
「開けます」
今度は、誰も止めなかった。
鍵が回る。
扉を押し開けると、空室の暗がりから、冷たい空気が流れ出した。床には家具を引きずった跡がある。壁際の巾木は一部だけ浮き、そこから黒い細線が伸びていた。
線の先には、古い封筒が挟まっている。
私はしゃがみ込み、封筒を引き抜いた。
宛名はなかった。
ただ、表に鉛筆で数字が書かれていた。
四〇三―一九九。
その下に、私の字でこう続いていた。
開ける前に、聞け。
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