8話 消された部屋番号

翌朝、雨は止んでいた。

止んだといっても、空が明るくなったわけではない。雲は低いまま湾岸の建物を押しつぶし、外廊下の手すりには細かな水滴が残っていた。昨夜の雨が、建物のなかに置き去りにされている。

私は管理人室へ向かった。

エレベーターは使わず、階段を下りた。足音が外廊下に響くたび、その反響がどこから戻ってくるかを確かめた。四階から三階へ。踊り場で五歩。手すりの継ぎ目に水が溜まり、そこへ朝の薄い光が沈んでいる。

昨夜、壁の隙間から見つけた紙片は、手帳の内側に挟んであった。

二十三時二十一分。

四〇三。

聞こえても、開けなかった。

その文字を思い出すたび、紙のざらつきが指先に戻ってくる。誰かが書いたのか。私が書いたのか。決められないまま、私は朝を迎えていた。

管理人室の扉は開いていた。

真壁志保は窓のそばで、掲示板から剥がした紙を束ねていた。糊の跡が残った紙を一枚ずつ裏返し、乾いた部分と湿った部分を確かめている。彼女は私に気づくと、手を止めた。

「早いね」

「台帳を見せてください」

挨拶の代わりに言うと、志保は紙の束を揃えた。

「朝から帳面を見ても、腹は膨れないよ」

「昨夜、壁の中から紙を見つけました」

志保の指が、紙の端で止まった。

「そう」

「驚かないんですね」

「驚くことが続くと、驚く順番をなくすのよ」

「順番をなくす?」

「何が先で、何が後か分からなくなる。そうなると、どんなことも同じ重さに見えてくる。鍵が一本落ちた音も、誰かがいなくなったことも、雨漏りも、掲示板の紙が剥がれたこともね」

志保はそう言って、机の下から古い入居台帳を取り出した。

「これを見たいんでしょう」

台帳は、昨日より重く見えた。表紙の角は潰れ、背表紙には何度も貼り直した跡がある。紙そのものが湿気を吸い、閉じたままでも少し膨らんでいた。

私は机の前に座った。志保は向かいに座らず、いつものように立ったまま帳面を押さえた。

404号室の欄です」

「分かってるよ」

「昨日、藤崎さんの名前の前が黒く塗られていました」

「そうだったね」

「塗りつぶされた下に、何があったんですか」

志保は答えず、台帳のページを開いた。

404号室。

藤崎澪。

入居日、八年前の九月十二日。

その上には、黒い塊が残っている。何かの名前を消したというより、名前が書かれていた場所だけを、何度も削ってから別のインクで埋めた跡だった。

私は紙へ顔を近づけた。

削られた部分の周囲には、細い毛羽立ちがある。消しゴムをかけたのだろう。けれど、消しゴムだけでは紙はここまで傷まない。硬いもので何度も擦り、文字の溝を潰し、その上から黒いペンで塗ったように見えた。

「これは、誰が書き換えたんですか」

「台帳は、管理人だけのものじゃないよ」

「昨日も同じことを言いました」

「本当だからね」

「理事会の人間が触れた?」

「理事会は管理の報告を受ける側。記録を書くのは管理人」

「でも、理事会の印鑑があります」

私はページの下端を指した。

薄い朱色の印影が、黒く塗られた欄の近くに残っている。印影の半分は紙の折れ目にかかり、文字の一部が読めない。

志保は鍵束を持ち替えた。

金属が三度鳴った。

「それは、確認したという印よ」

「何を確認したんですか」

「その年度の入居状況」

「名前が消されているのに?」

「名前を消した人が、確認の印を押したのかもしれない」

「あなたは知らない?」

「知らない」

「では、なぜそう言えるんですか」

志保は視線を台帳へ落とした。

「ここで働いて長いから。人が書類を作るとき、隠したいものほど、別の手続きを重ねる。消しただけでは不自然だから、確認の印を押す。日付を直しただけでは足りないから、別の紙を上に貼る。何かを消す人は、消した跡まで整えようとするのよ」

「これは、整っていません」

「だから、急いでいたんでしょう」

その言葉だけが、紙の上へ落ちた。

私は黒い欄の横にある日付を見た。藤崎の入居日は八年前の九月十二日。前の退去日は、その三か月前に設定されている。けれど、その間に別の入居者がいた形跡はない。空室だったというには、記録の切れ目が妙に深かった。

「三か月、空いています」

「空室だったんでしょう」

「空室なら、普通は空室と書く」

「昔は、今ほど細かく書かなかったのよ」

「ほかの部屋には、空室期間まで書かれています」

「全部が同じ形式とは限らない」

404号室だけ違う」

志保は何も言わなかった。

窓の外で、トラックが一台通り過ぎた。濡れた路面をタイヤが擦り、低い音が管理人室の床を揺らす。音が遠ざかると、冷蔵庫のモーターが目立った。

私は台帳を一枚めくった。

四〇三号室の過去欄にも、同じ年度の欠損がある。退去日が書かれていない。次の入居者の名前が、前の名前のすぐ下に重なっている。四〇五号室には、騒音に関する苦情の参照番号が並んでいるが、ある月だけ番号が飛んでいた。

四〇三。

四〇四。

四〇五。

数字が、同じページのなかで互いに近づきすぎている。

「この時期、三部屋に関係する出来事があったんですか」

「部屋は隣り合っているから、音が重なることはあるよ」

「聞いているのは音ではなく、記録です」

「記録だって重なるでしょう」

「記録は勝手に重なりません」

「人が書くものだから、重なるのよ」

志保は台帳を閉じようとした。

私は表紙に手を置いた。

「まだ見ていません」

「見ても、名前は出てこない」

「だから見るんです。消された名前の周りに、残ったものがある」

志保はしばらく私を見た。私の顔ではなく、手の位置を見ている。彼女はいつもそうだった。話している相手の目より、相手がどこへ手を伸ばすかを見ている。

「佐伯さん。記録は、真実をそのまま残すものじゃないよ」

「では、何を残すんですか」

「そのとき、誰が何を真実にしたかったか」

「意味が分かりません」

「分からなくていい。分かると、もう戻れなくなるから」

「私はもう戻れません」

言ってから、声が自分のものではないように聞こえた。

志保の手が、台帳の上から離れた。

「昨夜、紙を見つけたんでしょう」

「はい」

「何と書いてあったの」

私は手帳を開き、紙片を取り出した。

志保は受け取らなかった。紙片を見つめるだけだった。鉛筆の線は湿気で少し滲み、文字の端が灰色になっている。

「二十三時二十一分。四〇三。聞こえても、開けなかった」

志保の顔色は変わらなかった。

けれど、彼女の右手が、左手首を掴んだ。何かを押さえるような仕草だった。

「その字を見て、誰の字だと思いましたか」

「分かりません」

「藤崎さん?」

「似ている。でも、違う」

「何が違うの」

「線の終わり方です。藤崎さんは、最後に力が抜ける。これは、途中まで弱くて、最後だけ強い」

「佐伯さんの字に似ている?」

私は答えなかった。

志保は紙片から目を離さず、ゆっくり息を吐いた。

「あなたは昔から、最後だけ力を入れる書き方だった」

「いつの話ですか」

「あなたがここにいた頃」

管理人室の空気が、急に狭くなった。

「私は、ここに住んでいたんですか」

「何度も言ったでしょう。一度、出ていったことがあるって」

「部屋番号は?」

志保は黙った。

私は台帳を手元へ引いた。四〇三号室の欄を開く。現在の入居者名の上には、古い名前がいくつか残っている。そのうち一つだけ、名前の一部が削られていた。

佐伯。

名字の下に、名前がない。

あるいは、名前だけが消されている。

「これ、私ですか」

志保はすぐに答えなかった。

「名前が残っていないのに、どうして私だと思うの」

「私の名字がある」

「同じ名字の人間は、いくらでもいるよ」

「この部屋番号の控えを、藤崎さんが私に送った」

「それだけでは、あなたの過去まで証明できない」

「あなたは私の足音を覚えていると言いました」

「人の顔より、足音を覚えるだけ」

「それなら、覚えているでしょう。私がどの部屋から出て、どの部屋へ入っていたか」

志保は台帳の端を指で押さえた。

「佐伯さんは、毎朝、部屋を出る前に三回鍵を回した」

「今は一回です」

「昔は三回だった」

「それを、どうして覚えているんですか」

「音が違ったからだよ。一回目は錠が外れる音。二回目は念のため。三回目は、もう閉まっていると自分に確認する音。あなたは、部屋を出ることより、戻れなくなることを気にしていた」

私は何も言えなかった。

手帳の紙面が、指先の熱で少し曲がる。

「そのとき、隣の部屋に誰がいましたか」

「隣は空いていた」

404号室が?」

「そう」

「空室から音がした」

志保は目を伏せた。

「空室でも、建物は鳴る」

「人の音と建物の音は違う」

「あなたも、そう言っていた」

「私は、何を聞いたんですか」

「それを聞くために、台帳を見ているんでしょう」

「あなたは知っている」

「知っていても、言えないことはあるよ」

「誰に止められているんですか」

「誰にも」

「では、なぜ言わない」

志保は怒ったように息を吸った。だが声を荒げる前に、いつものように一拍置いた。怒りが言葉になる前に、鍵束のほうへ手を伸ばす。

「私はね、ここで働いているだけなの。住人の暮らしを預かって、鍵を渡して、苦情を聞いて、壊れたものを直してもらう。それ以上のことは、警察や弁護士の仕事でしょう。管理人が人の生活を裁き始めたら、この建物には誰も安心して住めなくなる」

「安心して住めるように、誰かの名前を消したんですか」

「私が消したとは言っていない」

「消されたことは認める」

「紙を見れば分かるでしょう」

「分かることと、認めることは違う」

志保は私を見た。

その目の奥に、疲れではないものがあった。恐れに近い。だが、誰かに脅されている人間の目ではない。自分が一度選んだ沈黙から、抜け出せなくなった人間の目だった。

「人はね、忘れたほうが暮らしやすいことがあるのよ」

「忘れたのではなく、忘れさせられた」

「同じようなものだよ」

「違います」

「何が違うの」

「自分で忘れたなら、自分の責任です。でも、誰かに消されたなら、消した人間の責任になる」

「責任を取れる人ばかりなら、管理人なんかいらないよ」

志保の声が初めて早くなった。

「ここには、働いている人も、病気の人も、家族を失った人も、借金を抱えた人もいる。みんな、壁一枚隔てて暮らしている。誰かの事情を全部明るみに出したら、正しくなると思う? 正しさで家賃が払える? 正しさで眠れる? 正しさで、隣の部屋から聞こえる息を止められる?」

「だから、何も起きなかったことにするんですか」

「何も起きなかったことにしたほうが、誰かが眠れる夜もある」

「眠れなかった人は?」

志保の口が閉じた。

「その人は、眠れないままでも、朝になれば仕事へ行く。ゴミを出す。掲示板の紙を読む。何もなかった顔で廊下を歩く。それが、ここで暮らすということだったのよ」

その言葉を聞きながら、私は自分の部屋の玄関を思い出していた。

鍵を三回回す。

扉の向こうを見ない。

隣室から何か聞こえても、壁に耳をつけるだけで、開けない。

私はそれを礼儀と呼んでいた。だが、礼儀という言葉の裏側で、誰かが助けを待っていたのかもしれない。

志保は台帳の黒い欄を指先で押さえた。

「この紙を貼り替えたのは、私じゃない」

「誰ですか」

「知らない」

「また、知らない」

「本当に知らないんだよ。私は古い紙を剥がして、新しい紙を貼っただけ。指示された場所へ、指示された日付を貼った。それが管理人の仕事だった」

「誰の指示ですか」

志保は答えなかった。

代わりに、台帳の後ろから一枚の紙を抜き取った。貼り合わせた跡のある、薄い管理組合の回覧だった。

「これを見て」

紙には、八年前の日付がある。

夜間の共用部使用について。 住民間のトラブルについて、個別の判断で行動しないこと。 異常を確認した場合は、管理人室へ連絡すること。

整った文面だった。誰かを責める言葉はない。だからこそ、責任の所在もない。

「これは、当時の掲示板に貼られていたものです」

「今も同じ文面ですね」

「少し違う」

私は紙の端を見た。

下に、別の紙を重ねた跡がある。古い日付を隠すため、新しい紙が貼られていた。さらにその下には、鉛筆で数字が書かれている。

四〇三。四〇四。四〇五。

数字の横に、時間。

二十二時五十七分。 二十三時〇四分。 二十三時十七分。

「誰かが裏面を使った」

「そうだね」

「藤崎さんですか」

「字が違う」

「私ですか」

志保は、紙ではなく私の指を見た。

「分からない」

「これだけ同じものが重なっているのに?」

「重なっているから、分からないのよ。誰かの記録の上に別の人の記録が重なり、さらにその上から管理の言葉が貼られている。何が最初だったのか、もう見えない」

私は紙を裏返した。

裏面には、黒いボールペンで短い文が書かれていた。

「音が止まったあと、扉は開かなかった」

その下に、細い線。

さらに、部屋番号。

四〇四。

喉の奥が乾いた。

「これは、何ですか」

「読んだとおりだよ」

「誰が書いたんですか」

「分からない」

「あなたは見たはずです」

「見た。でも、書いたところは見ていない」

「いつ?」

「八年前の夜」

志保は鍵束を机へ置いた。

「四〇四号室から、大きな音がした。倒れたような音だった。日野さんは、まだここにいなかった。北条さんは理事会の役員で、すぐに来た。私は鍵を持って、廊下に出た。あなたも出てきた」

私は息を止めた。

「私が?」

「あなたは四〇三号室の前に立っていた。扉を開けずに、壁を見ていた」

「何を聞いたんですか」

「藤崎さんは、まだいなかった。四〇四号室にいたのは、別の人だった」

名前を聞く前に、耳の奥で水が落ちた。

ぽた。

二秒後、壁の奥で擦れる音。

「その人は、倒れていたんですか」

「部屋の中で、何かが倒れた音がしただけ。実際に誰かが倒れているところを見た人はいない」

「なぜ確認しなかった」

「北条さんが、まず管理会社へ連絡すると言った。鍵を開けるには、手続きが必要だと。住人の許可なく入るのは問題になる。そう言われた」

「そして、音が止まった」

「ええ」

「誰も扉を開けなかった」

志保は頷かなかった。だが、否定もしなかった。

「翌朝、404号室は空いていた。表札は外され、荷物はほとんどなかった。台帳には、退去の記録を入れた。部屋番号の横に、前の人の名前を書いた。でも、その日の午後には、北条さんが来て、記録を直すように言った」

「なぜ」

「住人の個人情報を残す必要はない。新しい入居者が決まれば、前の記録は整理していい。そういう話だった」

「それで、名前を消した」

「私は、全部は消していない」

「でも、消された」

「消された」

その言葉を、志保は初めて口にした。

管理人室の蛍光灯が明滅した。白い光が一度薄れ、また戻る。紙の黒い跡が、光の加減で傷口のように見えた。

私は、黒く塗られた欄の下へ指を置いた。

紙の奥に、線がある。

名前の最初の文字ではない。部屋番号のような形だった。

四〇三。

その下に、別の数字。

一九九。

昨夜の見取り図に残っていた圧痕と同じだった。

「一九九は、何ですか」

志保の顔から、わずかに血の気が引いた。

「その数字を、どこで見たの」

「見取り図の裏です」

「藤崎さんの紙に?」

「はい」

志保は目を閉じた。

ほんの一瞬だったが、そのまぶたの裏で、何かを思い出したように見えた。

「一九九は、部屋番号じゃない」

「では?」

「部屋番号になる前の番号」

「何の番号ですか」

志保は答えなかった。

外廊下で、誰かが歩いた。

一歩。

二歩。

三歩。

七秒の空白。

私は立ち上がり、扉のほうを見た。志保は鍵束を握ったまま、首を横に振る。

「今は出ないで」

「また誰かが404号室の前にいる」

「だから、出ないで」

「一九九は何ですか」

「佐伯さん」

「私が昔ここに住んでいたときの部屋番号ですか」

志保は目を伏せた。

その沈黙が、答えより先に届いた。

私の部屋は四〇三号室だ。現在も、過去も、そうだと思っていた。けれど、一九九という数字が、記憶の底から別の形で浮かび上がる。

郵便受けに書かれた数字。

消しゴムで擦った紙。

誰かの名前を呼ばずに、部屋番号だけを記録していた自分。

「私は、何を聞いたんですか」

声が震えた。自分の声が震えていることに気づくのが遅れた。

志保は、机の上の回覧を閉じた。

「あなたは、音を聞いた。四〇四号室の中で何かが倒れた音。続いて、壁際を何かが擦る音。それから、扉が開く音」

「誰かが出てきた?」

「あなたは見なかった」

「見なかったんじゃない。見えなかった」

「同じことだよ」

「違います」

「違わない。見えなかったことにして、そのまま部屋へ戻った。翌朝には、四〇四号室の表札が外されていた。あなたは何も聞かなかった。何も見なかった。そう言って、ここを出ていった」

「私は、そんなことを言ったんですか」

「言葉にはしなかった。会社へ行く時間があると言っただけ」

それは、私が今でも使う言い訳だった。

急いでいる。予定がある。関係ない。管理人に任せればいい。

誰かの生活へ踏み込まないための礼儀。自分の一日を守るための境界。

私は台帳の上に置かれた紙片を見た。

聞こえても、開けなかった。

それは誰かを責める言葉ではなかった。私自身が、私に向けて残した記録だった。

管理人室の外で、金属が鳴った。

鍵束ではない。一本の鍵が、鍵穴へ差し込まれた音だった。

四〇四号室。

志保が立ち上がった。

「ここにいて」

「誰が開けるんですか」

「分からない」

「今度も、開けないんですか」

志保の手が、鍵束を強く握りしめる。

「開けたら、もう消せない」

「消さないために、開けるんです」

私は扉へ向かった。

志保は私の腕を掴まなかった。ただ、背後で鍵束を握ったまま、低い声で言った。

「佐伯さん。あの夜、あなたは一度だけ、四〇四号室の扉へ近づいた」

私は足を止めた。

「でも、開けなかった」

「なぜですか」

「中から、あなたの声がしたから」

廊下の音が、すべて消えた。

四〇四号室の鍵が、ゆっくり回る。

扉の向こうから、古い木材と湿った紙の匂いが流れてきた。

私はポケットの中の鍵をなぞった。

その指先が、いつかの夜と同じ動きをしていることだけは、もう分かっていた。

← 横にスクロールして読み進められます