7話 手帳の継ぎ目

その夜、私は帰宅すると、照明をつける前に壁へ耳を寄せた。

音はなかった。

403号室と404号室の境にある壁は、昼間より冷たく感じられた。外気が雨を含んでいるせいか、掌を当てると皮膚の熱が薄い膜になって吸い取られていく。耳を押しつけても、隣室からの生活音は聞こえない。聞こえないというより、音がこちらへ届く途中で、誰かに折りたたまれているようだった。

私は壁から離れ、玄関の匂いを確かめた。

濡れた靴。古い木製の靴箱。朝から飲み残していたコーヒーの酸味。外廊下から持ち帰った湿気が、部屋の空気に混じっている。そのなかに、藤崎澪の部屋で何度か嗅いだ、無機質な石鹸の匂いが残っていた。

封書は、机の上に置いてある。

沢渡葵に渡したあと、返されたものだった。彼女は封筒の表と裏を確認し、紙袋に入れたまま私へ差し出した。

「預かることはできます。ただ、今の段階では証拠品として扱う理由が足りません」

「藤崎さんが消えたことも、まだ失踪とは言えないんですか」

「届け出がない。家族からの連絡もない。部屋を出た形跡がある。書類の上では、退去の可能性が残っています」

「表札だけ外して、荷物を全部運び出して、何も言わずにいなくなることが、普通の退去ですか」

「普通かどうかを判断するのが、私の仕事ではありません」

葵はそこで一拍置いた。

「ただ、佐伯さんの言うとおり、記録には気になる点があります。封筒の投函経路。古い台帳の欠損。防犯カメラの空白。別々に見れば、どれも決め手にはならない。でも、同じ時間帯に並んでいる。私は、そういう並びを放置するのが嫌いです」

「なら、調べてください」

「調べます。ただし、あなたの記憶まで一緒に調べることはできません」

「記憶が関係していると?」

「私は、そう言っていません」

「でも、そう思っている」

「思うことと、記録に残せることは違います。そこを混ぜると、捜査も生活も壊れます」

葵の声は柔らかかった。だからこそ、私は反論できなかった。彼女は人の不安を軽く扱っているのではなく、不安だけでは動かないように自分を縛っているように見えた。

「佐伯さん。今夜、何かあったら連絡してください。音でも、扉でも、誰かの気配でもいい。ただ、ひとりで404号室を開けないこと」

「真壁さんにも同じことを言われました」

「真壁さんは、何か知っているんですか」

葵は答えなかった。

答えない代わりに、私の手帳へ目を落とした。表紙の角が擦れて丸くなった、小さな手帳。私は仕事の記録には使わない。生活音と、掲示板の文面と、気になった時刻を書くためのものだ。

「その手帳は、いつから使っていますか」

「分かりません」

「分からない?」

「前から持っていました。いつ買ったのかは覚えていません」

葵は手帳に触れなかった。

「古いものを使い続ける人は、物に記憶を預ける傾向があります」

「心理分析ですか」

「違います。経験則です」

「私に、何か記憶があると思いますか」

「記憶があるかどうかは、聞けば分かります」

「聞いても、答えられないことがあります」

「そのときは、答えられないという事実を記録します」

葵はそう言って、黒い手帳を閉じた。

「答えが出ないことと、何もなかったことは違いますから」

その言葉が、帰宅してからも耳に残っていた。

私は椅子に座り、封書の中身を机へ広げた。

生活音の記録。部屋番号の一覧。館内見取り図。藤崎の手帳の写し。管理人室で見た入居台帳のコピー。そして、紙の端に残った、短い走り書き。

壁の向こうを見ろ。

見つけたら、声を出さないで。

あなたは、もう知っている。

書いた本人が同じなのか、誰かが藤崎の筆跡を真似たのか、私はまだ決められずにいた。文字の形だけなら似ている。だが、筆圧が違う。藤崎の文字は、細い線のまま終わる。私の文字は、書き終わりに力が残る。自分では気づかなかった癖を、私はいま紙の上で見ている。

机の引き出しから、古いボールペンを出した。

紙の端に、四〇四と書く。

四の横線を引いたところで、芯が一度、紙に引っかかった。筆圧が強すぎたのだろう。私は同じ数字を三つ並べた。四〇四。四〇四。四〇四。

藤崎の記録と比べる。

数字の形は違う。だが、「四」の最後の線を押し込む角度が、ほとんど同じだった。

偶然だと思おうとした。

同じ建物で暮らし、同じ部屋番号を見ていれば、似た癖が移ることはある。掲示板の数字を読み、台帳の数字を書き写し、何度も同じ部屋の前を通る。そのうち、書き方の一部が似ることくらいはある。

しかし、紙の裏側には、もっと古い圧痕が残っていた。

見取り図の切れ端を裏返し、机の灯りを斜めから当てる。鉛筆で書かれた文字は消されている。けれど、紙の繊維は押しつぶされていた。指先でなぞると、表面の凹みが分かる。

四〇三。

その下に、別の部屋番号が重なっている。

一九九。

私はその数字を見た瞬間、息を止めた。

一九九は部屋番号ではない。少なくとも、サンライズ東雲の部屋番号ではない。けれど、私には別の意味があった。

以前、私はこのマンションの郵便受けに、何度も同じ数字を書いたことがある。

理由は思い出せない。

数字だけが、指先の動きとして残っている。

私は自分の手帳をめくった。後ろから三枚目のページに、意味のない数字の列があった。

一九九。 四〇三。 二十三時十七分。

その下には、線が一本引かれている。

私はこのページを書いた覚えがなかった。

記録に覚えがないことは、これまでにもあった。眠る前に聞いた音を書き留めたのだろう。仕事から帰り、無意識に手を動かしたのだろう。そうやって何度も片づけてきた。

だが、数字の並びが澪の紙と重なっている。

記録は、記憶より先に私を知っている。

私は手帳を閉じ、立ち上がった。

部屋のなかを歩く。テーブルから壁まで六歩。壁からベランダの窓まで四歩。窓の前で止まり、外を見る。雨はまだ降っていた。湾岸の高層ビルに灯った明かりが、水滴の向こうで細長く伸びている。工事現場のクレーンが、濡れた夜空に黒い骨を突き出していた。

人が増えているのに、住む場所は空いていく。

サンライズ東雲の掲示板には、今週も空室の案内が三枚貼られていた。売却。賃貸。短期入居相談可。住人がいなくなるたび、名前の代わりに紙が貼られ、紙が剥がされるたび、そこに誰かがいたことだけが薄くなる。

私は窓を閉め、壁の前へ戻った。

壁紙の継ぎ目は、床から一メートルほどのところでわずかに浮いている。以前から気づいていたが、剥がそうとは思わなかった。そこに住む人間の生活圏へ踏み込まない。それが私の礼儀だった。

けれど、藤崎は「壁の向こうを見ろ」と書いた。

私は爪を継ぎ目へ入れた。

紙のような壁紙が、かすかに剥がれる。湿気を含んだ糊が、肌に粘る。壁の中から、古い埃と木材の匂いが立ち上がった。

その瞬間、耳の奥で音がした。

引き戸。

二秒後、配管。

どこかで、誰かが小さく息を吸う。

私は手を止めた。

音は壁のこちら側から聞こえたようにも、向こう側から届いたようにも思えた。違いを確かめようとして耳を澄ますと、遠くでエレベーターが動いた。機械の唸りが一階ずつ上がり、四階で止まる。

扉が開く音。

足音が一つ。

二つ。

三つ。

七秒の空白。

そして、扉の前で止まる。

私は時計を見た。

二十三時十七分だった。

壁紙の剥がれた隙間から、細い紙片が見えた。

私は呼吸を整え、指先でそれを引き出した。紙は湿っていたが、破れずに出てきた。誰かが壁の内部へ押し込んだものらしい。折り目は一つだけ。開くと、鉛筆で短い時刻が書かれていた。

二十三時二十一分。

その下に、部屋番号。

四〇三。

さらに、その横に小さな字があった。

「聞こえても、開けなかった」

私は紙を持ったまま、壁から離れた。

雨の匂いが、部屋のなかへ戻ってくる。

誰かが、昔の私を知っている。

あるいは、私自身が、知っていたことを紙に残している。

その二つの可能性は、どちらも同じ重さで机の上に置かれた。

廊下で、エレベーターの扉が閉じた。

三十秒後、監視カメラが白く飛ぶ時間だった。

私は紙片を手帳へ挟んだ。

今度は、見なかったことにしないために。

外のどこかで、鍵束がひとつ鳴った。

← 横にスクロールして読み進められます

手帳の継ぎ目 - 壁越しの記憶 - 誰でも作家life