第6話 筆跡の似た手紙

沢渡葵という刑事は、電話の向こうでもほとんど声を上げなかった。
「明日の午前中に伺います。封筒は、触ったままでいいので、そのままにしておいてください」
それだけを言って、電話は切れた。私はしばらく受話器を持ったまま、彼女の声の温度のなさを思い返していた。感情がないわけではない。ただ、感情を通す前に、まず言葉を整えている。そういう喋り方だった。
翌朝、雨は上がっていたが、外廊下の手すりにはまだ水滴が残っていた。管理人室の前で待っていると、エントランスの自動ドアが開き、紺色のコートを着た女がひとり入ってきた。背は高くない。歩幅は狭いが、迷いのない足音だった。三歩で四メートルほどを詰め、扉の前で一度だけ止まる。私は思わず、その足音の間隔を数えていた。
「佐伯さんですね」
「はい」
「沢渡です。生活安全課の」
名刺を渡す仕草にも、無駄がなかった。財布ではなく、コートの内ポケットから直接一枚だけ取り出す。名刺入れは持っていないのか、持っていても使わないのか。私にはどちらか判断できなかった。
管理人室の扉を叩くと、真壁志保がすぐに開けた。今日は雑巾を持っていない。代わりに、両手を前で組んでいた。組んだ指の関節が、白くなっている。
「お邪魔します」
葵は挨拶とも呼べないほど短い言葉で中へ入り、机の上に紙袋を置いた。私が持ってきた封筒は、すでにその中にある。
「まず、封筒を見せていただけますか」
私が紙袋から封筒を取り出すと、葵はそれを両手で持ち、表を見た。裏を見た。指で角をなぞる。私が朝、何度も繰り返した動作と、ほとんど同じだった。ただ、彼女の指は私よりも乾いていて、紙に触れる時間が短い。必要な情報だけを、必要な時間だけ拾っていく手つきだった。
「差出人の記載はなし。宛名も部屋番号もなし。名字だけ、油性ペン。筆圧はやや強く、書き始めより書き終わりのほうが力が抜けている」
葵は封筒を見ながら、独り言のようにそう言った。私に向けて話しているのか、自分の記憶に留めているのか分からない。
「投函されたのは、いつだと思いますか」
「昨日の朝、私が郵便受けを開けたときには入っていました」
「その前は?」
「確認していません」
「郵便受けの蓋を開けた音は、いつ聞きましたか」
「404号室の前に立っていたときです。その直後、私が郵便受けの列へ行くと、封筒がありました」
葵はそこで初めて、志保のほうを見た。
「真壁さん。この日、郵便物の配達時刻は分かりますか」
「配達は、いつも午前中に一度だけだよ」
「では、佐伯さんが受け取った封筒は、配達物には含まれていなかった」
「かもしれないね」
「かもしれない、ではなく」
葵の声が、少しだけ低くなった。声量は変わらないのに、輪郭がはっきりする。
「郵便配達の記録は残りますか」
「残るには残るけど、うちのマンションは、それを台帳につけていない。配達員が来たかどうかまで、いちいち見ていられないよ」
「見ていられない、と、見ないようにしている、は、真壁さんの中でどう違いますか」
志保は答えなかった。答えないまま、両手の指を強く組み直す。私はその横で、志保の手が止まる時間を数えていた。三秒。四秒。彼女が黙るときの長さには、いつも意味がある。
葵は封筒を紙袋へ戻し、代わりに志保の机の上にある苦情メモ帳へ視線を移した。
「これを、少し見せていただけますか」
「これは、管理組合の内部の資料だから」
「失踪届として正式に扱うには材料が足りません。ただ、部屋番号を中心に記録を洗い直す価値はあると思っています。それは、真壁さんが今、私に見せたくないと思っている理由と、無関係ではないはずです」
志保は帳面の表紙に手を置いたまま、しばらく動かなかった。私は志保の指の下にある表紙の色を見ていた。濃い緑色の布張りが、湿気で少し波打っている。
「見せる見せないの話じゃないよ」
「では、どんな話ですか」
「読んでも、あなたには分からないと思う」
「読んでみないと、分からないかどうかも分かりません」
葵の言い方には、詰問の響きがなかった。むしろ、志保の言葉をそのまま受け止め、静かに裏返して返しているだけだった。志保はしばらく葵の顔を見て、それから帳面を差し出した。
葵はページをめくり始めた。指先は迷わず、必要な行だけを追っている。四〇四号室、四〇五号室、管理人室。数字が並ぶ欄を見ながら、彼女の目が一度、細く動いた。それから、私が持ってきた封筒をもう一度取り出し、帳面の走り書きと並べた。
「真壁さん」
「なに」
「この帳面の余白に書かれた数字と、佐伯さんの封筒に書かれた宛名の数字が、似ています。特に、四の字。書き始めを強く、最後を跳ね上げる」
志保の手が、また止まった。
今度は止まった時間が長かった。数えるのをやめようと思ったのに、身体が勝手に数えていた。七秒。八秒。
「似ているだけでしょう」
やがて、志保はそう言った。
「似ているだけかもしれません。ただ、似ていることに気づいたとき、真壁さんはすぐに否定しませんでした。その一拍を、私は覚えておきます」
葵はそれ以上、詰めなかった。帳面を閉じ、机の上に戻す。すべての動作が、感情の代わりに手続きで成り立っているようだった。
「今日は失踪届としては受理できません。届けを出す家族もいない、退去の可能性も残っている。ただ、部屋番号を中心に、防犯カメラの記録と苦情メモを照合する許可を、管理組合に求めます」
「理事会の許可が必要だね」
「では、今から理事会の方に会えますか」
志保の目が、初めて明確に動揺した。
「今日、北条さんが来ているはずだよ。会議室で、修繕の資料を作っているって言っていた」
「案内していただけますか」
志保は答えず、鍵束を持ち替えた。金属が重なって、短く鳴る。私はその音を、また記録するように聞いていた。
会議室は、管理人室よりずっと乾いていた。エアコンの風が資料の端をわずかに揺らし、窓からは、雨上がりの白い光が差し込んでいる。北条隆一は、長机の中央に座り、紙の束を几帳面に整えていた。
「これは、沢渡さん」
北条は立ち上がりもせず、椅子に座ったまま軽く頭を下げた。
「刑事さんが来られるとは、思っていませんでしたが」
「404号室の入居記録について、確認させてください」
「ええ、どうぞ。とはいえ、私が知っていることは限られていますよ」
北条は資料の一部をこちらへ向けた。修繕積立金の推移を示す表だった。数字は整い、折れ線は滑らかに右肩下がりを描いている。
「藤崎さんとは、どういうご関係でしたか」
「関係というほどのものは、なかったですね。理事会の総会で顔を合わせる程度でした。挨拶を交わす程度と言ったほうが、正確かもしれません」
「口論をしていたという証言があります」
「証言というのは、誰のものか分かりませんが」
北条は微笑んだ。目元だけが動き、口元は変わらない。
「あの方は、修繕計画に対して意見を持っていました。私は理事会の立場として、それを聞きました。意見の相違を、口論と呼ぶかどうかは、聞く人の感じ方でしょうね」
「意見の相違とは、何についてですか」
「404号室のことです。あの部屋は、以前から修繕の履行状況について記録が薄いところがありまして。藤崎さんは、それを気にされていました」
「記録が薄い、というのは」
北条はそこで初めて、資料の束をめくった。同じ年度の議事録が、他の年度よりも厚い。私はその厚みに目を留めた。会議の回数は、他の年と大きくは変わらないはずだ。掲示板の貼り紙にも、総会は年に一度、理事会は月に一度と書かれている。なのに、その一年だけ、綴じられた紙の枚数が明らかに多い。
「議事録が、この年だけ多いですね」
私は口を挟んだ。北条の視線が、初めて私に向いた。
「佐伯さん、でしたか。理事会は、必要に応じて臨時で開くこともあります。その年は、修繕の見積もりを何度も見直す必要があったので」
「臨時の理事会は、掲示板に告知されますか」
「基本的には、そうしています」
「掲示板の記録には、その年の臨時理事会は残っていません」
北条の手が、資料の端で止まった。ペン先が、机を軽く二度叩く。
「告知が漏れることも、ないとは言えません。何しろ古い建物なので、記録の管理も完璧とは言えなくて」
「完璧とは言えない、というのは、確認しますか」
葵が静かに言った。
「確認します」
北条はそう答え、資料の束をもう一度整えた。紙の角を揃え、厚みのある年度の記録を、他のファイルよりも一段深くしまい込む。その手つきは、乱れなく丁寧だった。丁寧すぎて、そこにあるはずの動揺が見えなかった。
会議室を出るとき、葵は一度だけ振り返り、閉じられた扉を見た。窓越しに差し込む白い光の中で、北条の輪郭が曇りガラスに滲んでいる。
「佐伯さん」
外廊下に出たところで、葵が言った。
「あの人は、嘘はついていません」
「では」
「嘘はついていない。ただ、必要なことだけを言っていない。それは、嘘よりも記録に残りにくい」
彼女の声は低く、静かだった。私はその言葉の中に、彼女自身が過去に見落とした何かの気配を感じた。だが、それを尋ねる前に、葵はすでに手帳を開き、何かを書き留めていた。数字が並ぶ。時刻と、部屋番号。
私は、自分の手帳のことを思った。数える癖と、書く癖の違いを、初めて意識した。数えることは、自分のために音を留めることだ。書くことは、いつか誰かに渡すために、音を残すことだ。
藤崎澪は、書いていた。
私はまだ、数えているだけだった。
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