5話 音の記録

志保から渡された紙を、私は管理人室の机の上に置いたまま、しばらく開かなかった。

紙の折り目は三本あった。中央で一度折り、さらに左右から内側へ折り込んでいる。開けば元へ戻せない折り方だった。藤崎澪は、紙を保管するためではなく、誰かに読ませるために折っていたのだと思う。

管理人室の外では、雨がまだ降っていた。

窓ガラスを細い水の筋が伝い、筋と筋の間に、向かいの建物の輪郭が歪んでいる。再開発地区の新しいビルは、濡れたガラス越しには無機質な影にしか見えない。サンライズ東雲の古い窓枠が、風を受けるたびにかすかに鳴った。

私は紙の角へ指を添えた。

ざらついた繊維が指腹に引っかかる。封書の紙と同じだった。けれど、こちらには石鹸の匂いがほとんど残っていない。何度も触られ、何度も開かれ、空気にさらされた紙の匂いだった。

「開けないの?」

志保が言った。

彼女は机の向かいに座らず、流し台の前で濡れた雑巾をすすいでいた。水道の蛇口から細い水が落ち、雑巾を絞るたびに、布のなかの水が金属の流しへ叩きつけられる。

「読むために渡したんでしょう」

「読むのは、佐伯さんだよ」

「あなたは中身を知っている」

「知っていると言えるほどじゃない。見たことがあるだけ」

「見たものと、知っているものは違いますか」

「違うね。見たものは目の前に残る。知っていることは、あとから別のものとつながる。つながらないうちは、ただの紙だよ」

私は折り目を開いた。

紙には、細い鉛筆の文字が並んでいた。日付、時刻、部屋番号。余白には、短い言葉が添えられている。

二十三時十七分。 四〇五、引き戸。二秒後、配管。

二十三時二十一分。 四〇四、床面を擦る音。四〇五、照明消灯。

二十三時五十五分。 四〇六、排水。三十秒後、エレベーター停止。

文字はどれも同じ幅だった。行間も一定で、数字の「四」だけが強く押し込まれている。鉛筆の芯が紙の繊維を潰し、裏面に細い凹みを残していた。

私は自分の手帳を出した。

紙の厚みも、罫線の幅も違う。私の手帳は仕事用ではなく、生活音を書き留めるための小さなものだった。いつから持っているのかは覚えていない。表紙の角が擦れて丸くなり、ページの一部にはコーヒーの染みがある。

私はそこに、昨夜の記録を書いていた。

二十三時十七分。 四〇五、引き戸。二秒後、配管。

書いた覚えはなかった。だが、文字は私のものだった。

「どうして同じ時刻を?」

志保の声がした。

私は答えず、澪の写しと自分の手帳を並べた。

二十三時二十一分。 四〇四、床面を擦る音。四〇五、照明消灯。

その下に、私は同じ一行を書いている。

二十三時二十一分。 壁側、擦過音。直後、上階照明消灯。

記録をつけた日時は、昨夜だった。澪の写しにある日付は、八年前のものだった。

時刻だけが一致していた。

偶然だと考えるには、数字の並びが近すぎた。二十三時十七分。二十三時二十一分。四分間の差。そのあと二十三時五十五分。さらに三十秒後のエレベーター停止。

私は自分の手帳をめくった。

昨夜の記録は、そこだけではなかった。

午前零時十二分。 足音、三歩。間隔七秒。

その下に、無意識に書いた文字がある。

廊下には出ず。扉の前で停止。

澪の写しには、同じ時刻にこう記されていた。

午前零時十二分。 足音、三歩。間隔七秒。 廊下には出ず。

同じだった。

私は手帳から目を離せなかった。自分の記憶を写したはずの文字が、すでに誰かの記録のなかに存在している。いや、逆なのかもしれない。澪の記録が、私の手を動かしたのか。紙に押し込まれた数字が、私の知らない記憶を呼び起こしたのか。

「佐伯さん」

志保の声が少し遠く聞こえた。

「昨夜、何を聞いたの」

「足音です」

「誰の?」

「分かりません」

「分からないのに、三歩と書いたのね」

「足音は三歩でした」

「そこじゃないよ」

志保は雑巾を流しの端へ置いた。

「分からないものを、どうして記録したの」

私は手帳の文字を見た。

「聞こえたからです」

「聞こえたものを全部書くの?」

「全部ではありません」

「選んでいる?」

「違和感のあるものだけ」

「違和感って、何」

問いは穏やかだった。けれど、逃げ道を塞ぐように置かれていた。

私はページの端を指で押さえた。紙が湿気を吸って柔らかくなっている。

「建物の音は、繰り返します。配管の鳴る順番や、エレベーターの停止音は、だいたい決まっている。いつもと違う音だけが残る」

「それを、誰かが聞いたことの証拠だと思う?」

「証拠とは言っていません」

「じゃあ何?」

「……消えないようにするためです」

言ったあとで、澪が同じようなことをしていたのだと気づいた。

苦情ではない。誰かを責めるためでもない。ただ、音がしたことを消さないために残す。記録の紙面にだけ、存在を置いておく。

志保はしばらく黙っていた。

「藤崎さんは、音を数えていたのよ」

「知っています」

「知っているんじゃなくて、今、分かったんでしょう」

私は顔を上げた。

志保は私の手帳と澪の写しを見ていた。

「あの人は、音が嫌だったわけじゃない。音のあとに何が起きたかを見ていた。扉が開いて、灯りが消えて、鍵が動いて、ゴミ置き場が使われる。その順番を、何度も書いていた」

「何のために?」

「さあね。聞いたことを聞いたままにしないためじゃないかね」

「それでは、意味がない」

「意味は、あとからつくものだよ。毎日の音に意味をつけて暮らしている人は、あまりいないでしょう。水を流して、扉を閉めて、鍵を回す。それで一日が終わる。けれど、誰かがその順番を一つずつ並べ直すと、暮らしのふりをした別の動きが見えてくることがある」

「別の動き?」

「人が、部屋を出入りする動き。物を運ぶ動き。誰かがいることを、いないことにする動き」

志保の声は低く、乾いていた。

私は澪の写しをさらにめくった。

日付は八年前の秋から始まっていた。最初の数ページには、四〇四号室と四〇五号室の音しかない。だが、三日目から管理人室、ゴミ置き場、エレベーターが加わる。

二十三時五十五分。 四〇六、排水。三十秒後、エレベーター停止。 管理人室、照明点灯。 四〇五、扉開閉なし。

その下に、鉛筆で小さく書かれていた。

音の順番が、生活の順番ではない。

私はその一文を何度も読んだ。

「生活の順番ではない、というのは?」

「藤崎さんに聞いて」

「いない人には聞けません」

「だから、記録を読むんでしょう」

私は紙を机へ戻し、代わりに館内見取り図を開いた。

封書に入っていた切れ端と、管理人室に保管されていた古い図面を重ねる。四〇三号室から四〇六号室までの壁、配管、廊下、階段。図面上では、四〇四号室と四〇五号室の間に厚い壁があり、その内側を排水管が通っている。

しかし、澪の記録に書かれた音の方向は、単純な隣室間のものではなかった。

四〇五号室で引き戸が開く。二秒後に配管が鳴る。四〇四号室で床面を擦る音。四〇五号室の照明が消える。三十秒後、エレベーターが停止する。

音の順番だけを見ると、四〇五号室から何かが移動し、四〇四号室の壁際を通り、エレベーターへ向かったように見える。

だが、四〇四号室から廊下へ出るには、扉を開ける音が必要になる。

その音がない。

「音が聞こえない場所がある」

私は言った。

志保は返事をしなかった。

「四〇四号室の扉を通らずに、何かが移動している」

「何かって?」

「物か、人か」

「人なら、もっと音がするでしょう」

「澪は、人の音だと思っていた」

「そう書いてある?」

「書いてはいません。でも、家具ではないと書いている」

「家具ではないものが、家具より静かに動くとは限らないよ」

「何を言っているんですか」

「この建物には、音が回る場所がある。壁の内側を通った水が、別の階の天井で鳴る。配管の振動が、反対側の部屋で床を叩く。音だけを追えば、実際の場所から外れることがある」

「だから、澪の記録は間違っている?」

「そうは言ってない」

志保は苦情メモ帳を取り、別のページを開いた。

「聞こえた場所と、鳴った場所が違うことがある。あの人は、それを知っていた。だから部屋番号だけじゃなく、音の種類と間隔を書いていた」

「間隔で、場所が分かる?」

「全部じゃない。でも、同じ音が同じ順番で繰り返されれば、どこを通っているかは見える」

志保は鉛筆を一本取り、見取り図の上へ置いた。書き込まず、四〇五号室から管理人室、ゴミ置き場、エレベーターへ、鉛筆の先をゆっくり動かしていく。

「ここからここへ、廊下を歩けば、普通は一分もかからない。けれど記録では、四〇五の引き戸からエレベーター停止まで三十八分ある」

「その間に、何かが移動した?」

「あるいは、移動したように聞こえただけ」

「三十秒の空白があります」

「カメラの?」

「はい」

「映像が切れているだけで、人が動いたとは限らない」

「でも、毎回その空白に重なる」

「毎回?」

私は封書の記録をめくった。

同じ時刻の記録が、四日分続いている。二十三時五十五分。四〇六号室の排水。三十秒後、エレベーター停止。別の日も、似た時刻にカメラの空白がある。

澪はそのたびに、同じ部屋番号を書き留めていた。

「三十秒ごとに切れるのは、夜間だけです」

「それは知ってる」

「でも、カメラが切れる瞬間ではなく、切れた直後に音がある」

「それは?」

「映像が戻ったあと、エレベーターの扉が閉まる音が記録されている。つまり、空白のなかで誰かが乗り降りした可能性がある」

「可能性だけでしょう」

「記録をつなげれば、可能性ではなくなるかもしれない」

志保は私を見た。

「佐伯さん。記録をつなげると、最後には人の名前が出てくるよ」

「名前が出れば、何か分かる」

「名前が出たら、その人が何をしたかまで問うことになる」

「それがいけないんですか」

「問われるほうにも、暮らしがある」

「問われない人の暮らしは、どうなるんですか」

言葉が強くなった。

管理人室の蛍光灯が一度、明滅した。雨音が窓の外で厚みを増し、ガラスの向こうの街がさらに遠くなる。

志保はしばらく私を見ていたが、やがて目を落とした。

「昔、ここで人が倒れたことがある」

唐突な言葉だった。

私は何も言わず、続きを待った。

「倒れたというより、倒れているのを見つけた。正確には、部屋の中で何かが倒れる音を聞いた人がいて、その人が管理人室へ来た。私は鍵を持って行った。理事会の人も来た。上の階の住人も廊下へ出た。でも、誰もすぐには開けなかった」

「なぜ?」

「本人が出てくるかもしれないと思ったから。寝ているだけかもしれない。酔っているだけかもしれない。騒音を立てる人だったから、いつものことかもしれない。そういう言葉が、ひとつずつ出てきた」

「それで?」

「しばらくして、部屋の中から音がしなくなった」

「静かになった」

「そう。静かになったから、誰も扉を開けなかった」

志保の指が、鍵束の輪を撫でた。

「翌朝、部屋の住人はいなくなっていた。荷物もほとんどなかった。台帳には退去日を書いた。苦情の記録は整理した。誰かが、そうしたほうがいいと言った。部屋が空いたなら、問題は終わったことにできるから」

「その部屋は?」

私は尋ねた。

志保は答えなかった。

答えの代わりに、机の上の入居台帳へ視線を落とした。

四〇四号室。

黒く塗りつぶされた欄。

私は、その文字の下に埋まっている名前を想像した。想像はできたが、思い出せなかった。部屋番号だけが、喉の奥に引っかかっている。

「その夜、私はここに住んでいましたか」

志保はすぐには答えなかった。

「あなたは、何年も前に一度、ここを出ている」

「いつですか」

「覚えていないの?」

「分からないから聞いています」

「出ていった人のことを、全部覚えているわけじゃないよ」

「でも、私のことは覚えている」

「顔より、足音を覚えているだけ」

「私の足音を?」

「三歩歩いて、少し止まる。扉の前で鍵を探す。開ける前に一度、廊下を見る。今も同じだよ」

私は手帳を閉じた。

「そのとき、私の隣はどの部屋でしたか」

志保は、手にしていた鉛筆を机へ置いた。

「佐伯さん」

「どの部屋ですか」

「覚えていないことを、無理に思い出そうとしなくてもいい」

「覚えていないんじゃない。消されている」

口にした途端、管理人室の空気が狭くなった。

志保は私の顔を見た。今度は目をそらさなかった。

「そう思う理由は?」

「澪の記録と、私の手帳が同じ時刻を示している。私がここに住んでいた時期の記憶だけ、部屋番号が抜けている。封書には、壁の向こうを見ろと書かれていた。私の字に似た圧痕もある。これだけ重なって、偶然だと言うほうが難しい」

「記録が重なっただけかもしれない」

「そう言うなら、あなたの手帳を見せてください」

志保の眉がわずかに動いた。

「私の?」

「あなたは何でも記録している」

「何でもじゃない」

「ゴミ置き場の鍵の位置まで書いた」

「それは管理のため」

「では、私がここに住んでいたときの記録もあるはずです」

志保は答えなかった。

沈黙のなかで、冷蔵庫のモーターが止まった。音が消えると、外の雨が急に近くなった。窓の向こうから、遠くの工事音が一度だけ響き、すぐに途切れる。

志保は机の下の引き出しを開けた。

中から、薄い青色の封筒を取り出した。封は切られている。角が何度も折れ、紙の表面に指の跡のような黒ずみがあった。

「これは、私の記録じゃない」

「誰のですか」

「管理組合の古い回覧」

「見せてください」

「読むなら、順番を守って」

「順番?」

「まず音を聞く。次に紙を見る。最後に、人の名前を見る」

「そんな順番に意味がありますか」

「あるよ。名前を先に見ると、その人のしたことだと思ってしまう。音から始めれば、まだ誰のものでもない」

志保は封筒から数枚の紙を取り出した。

回覧には、騒音に関する注意書きがあった。

「夜間の共用部使用を控えてください」 「不審な物音を確認した場合は、管理人室へ連絡してください」 「住民間のトラブルについて、個別の判断で行動しないでください」

文面は整っている。だが、日付の部分だけが何度も貼り替えられていた。最初の日付の下に別の紙を重ね、その上から新しい日付を印字している。紙の端に、古い糊の輪郭が残っていた。

「これは、八年前のものです」

私は言った。

「そう」

「どうして今も残っているんですか」

「捨てる理由がなかったから」

「掲示板にはありません」

「掲示板の紙は貼り替える。古いものは保管する」

「誰が保管するんですか」

「管理人」

「あなたが?」

「私が」

志保は紙をめくった。

裏面に、手書きの数字があった。

四〇三。 四〇四。 四〇五。 管理人室。 ゴミ置き場。

数字の横に、時間が書かれている。

二十二時五十七分。 二十三時〇四分。 二十三時十七分。

私は息を止めた。

「これも澪の記録ですか」

「違う」

「誰の字ですか」

志保は紙を見たまま答えた。

「分からない」

「また」

「本当に分からない。回覧を返してきた人が書いたのか、誰かが裏を使ったのか、覚えていない」

「でも、澪の記録と同じ部屋番号が並んでいる」

「部屋番号は、建物のなかにいくらでもあるよ」

「順番が同じです」

志保は黙った。

私は自分の手帳を開いた。澪の写し、古い回覧、昨夜の自分の記録。三つの紙を重ねる。

四〇五号室の引き戸。

配管。

四〇四号室の壁際。

照明の消灯。

管理人室の明かり。

ゴミ置き場。

エレベーター。

点はまだ線にならなかった。だが、線になる直前の形は見えていた。

誰かが部屋から出て、別の部屋へ向かうのではない。

誰かが、複数の部屋を使っていた。

四〇五号室の音が、合図になる。配管の振動が、次の動きを隠す。四〇四号室の壁際で何かをずらす。管理人室の明かりが消え、ゴミ置き場が開く。カメラが三十秒白く飛ぶ。その間に、エレベーターか階段が使われる。

音は、移動の記録ではなかった。

移動のための連絡だった。

「藤崎さんは、音を合図として記録していた」

私は言った。

志保は否定しなかった。

「誰かが、音を使って連絡していた。部屋の中にいる人間同士で、声を出さずに」

「そう考えたんでしょうね」

「あなたも、そう思っている」

「思うことと、言うことは違うよ」

「また、それですか」

「言葉にしたら、誰かの生活へ入ることになる」

「もう入っています。藤崎さんが消えた時点で」

志保の手が、青い封筒の上で止まった。

「消えた人の生活は、どこへ行くと思う?」

私は答えられなかった。

「部屋に残ると思うでしょう。家具の跡や、壁紙の色や、使いかけの石鹸に。でも、ほんとうは残らない。人がいなくなった瞬間から、生活は別の人の都合で説明され始める。退去した。引っ越した。自分から出ていった。そういう言葉が上から重ねられて、あったことが薄くなる」

「だから記録する」

「そう。記録は、戻すためじゃない。消される速度を遅くするためのものだよ」

志保の言葉は、いつもより長かった。彼女は自分でも止められなくなっているようだった。

「藤崎さんは、誰かを追い詰めたかったんじゃない。追い詰められていた人がいたことを、残したかった。部屋番号を消されて、名前を消されて、音だけが残った人。あの人は、その音を自分の手帳に入れた。だから、ほかの人にはただの騒音に聞こえたものが、あの人には人間の連絡に聞こえたんだよ」

「その人は、誰ですか」

「まだ、名前を見ていないでしょう」

私は青い封筒の最後の紙をめくった。

そこには、古い退去記録の一覧があった。四〇四号室の欄だけ、日付が黒く塗られている。だが、下端に鉛筆で書かれた小さな数字が残っていた。

四〇三。

その数字の横に、別の数字が重なっている。

一九九。

私は指で紙を押さえた。

数字の形が、自分の手帳に書かれた「四〇三」とよく似ていた。線の終わりを強く残す癖。紙の奥まで押しつける筆圧。

突然、耳の奥で何かが鳴った。

扉が開く音。

誰かが短く息を吸う音。

壁の向こうで、重いものが一度だけ擦れる音。

その夜、私は廊下に立っていた。

部屋番号は見えない。

けれど、目の前の扉には、今と同じように白い表札があった。誰かの名前が書かれている。私はその名前を読んだはずなのに、文字だけが雨に溶けていく。

「佐伯さん?」

志保の声がした。

私は椅子から立ち上がりかけて、机へ手をついた。手のひらに、紙のざらつきが食い込んでいる。

「今、音がしました」

「何の?」

「扉が開いた」

「ここで?」

「違います。昔の……」

言葉が続かなかった。

記憶のなかの廊下は暗かった。誰かが扉の前に立っていた。私の部屋の前ではない。隣の部屋。壁を挟んだ向こう側。

私はそこにいた。

聞いていた。

それでも、扉を開けなかった。

「帰りなさい」

志保が言った。

「でも、まだ」

「今日はもう十分だよ」

「十分じゃない」

「記録は逃げない」

「人は逃げます」

志保は目を伏せた。

その仕草に、私は初めて、彼女が澪の行き先を知らないのではなく、知ろうとしていないのだと感じた。

「藤崎さんは、どこへ行ったんですか」

「分からない」

「本当に?」

「本当に分からない」

「最後に会ったのは?」

「昨日の夜」

「何時ですか」

志保は答える前に、鍵束を持ち替えた。

金属がひとつ、ふたつ、重なって鳴る。

「二十三時十七分」

その時刻を聞いた瞬間、手帳の紙面が目の前で揺れた。

四〇五、引き戸。二秒後、配管。

澪が記録した時刻。

私が昨夜、無意識に書いた時刻。

そして、志保が澪を最後に見た時刻。

三つの記録が、同じ場所で重なった。

管理人室の外で、エレベーターが動いた。

表示灯が五階から四階へ下りてくる。古い機械の音が、壁と床を通って近づいてきた。三十秒後、監視モニターが白く飛ぶ。

私は画面を見た。

「誰か乗っています」

「見えないよ」

「今、白くなる前に、影がありました」

「カメラの死角でしょう」

「死角に入る前に、音がした」

私は立ち上がった。

エレベーターが四階で止まる。

扉が開く音。

それから、何も聞こえなかった。

志保が低い声で言った。

「出ないで」

私は管理人室の扉へ目を向けた。

外の廊下には、誰かがいる。

足音はない。

だが、エレベーターの扉が開いたあと、配管の奥で一度だけ水が落ちた。

ぽた。

二秒後、壁の向こうで、何かが擦れた。

私は手帳を握った。

その音の順番を、澪は知っていた。私も、今は知っている。

そして三十秒の空白が終わる前に、四〇四号室のほうから、鍵を差し込む音がした。

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