第4話 管理人室の湿り気

鍵が一本、床に落ちたような音だった。
私は404号室の扉を見た。扉は閉じている。下の隙間から伸びた黒い線も、濡れた外廊下の床も、さっきまでと変わらない。変わらないことが、かえって不自然だった。
音は確かにあった。
金属が床へ触れ、ほんの少し転がった音。鍵を持っている人間が、手から落としたのではなく、落としたことを隠すために拾い上げたような短い音だった。
私は扉へ近づきかけて、やめた。
管理人室の扉が閉じる音がしたからだ。
真壁志保が中に戻った。鍵束を持ったまま、何かを確かめるようにゆっくり歩いている。金属の触れ合う音が、壁の向こうへ吸われていった。
私は404号室の前を離れ、管理人室へ向かった。
扉を三度叩く。
返事はなかった。
もう一度叩こうとしたとき、内側で椅子を引く音がした。続いて、何か紙の束を机へ置く音。志保はそこにいる。いるのに、すぐには開けない。
「真壁さん」
「開いてるよ」
声が近い。だが扉は閉まっている。
私はノブを回した。
管理人室は、外廊下よりも湿っていた。窓は小さく、曇ったガラスの向こうで雨が細く流れている。蛍光灯は二本のうち一本だけが点き、白い光が周期的に弱くなっていた。消えるたび、部屋の奥に積まれた段ボールや掃除用具が、別の場所へ移動したように見える。
濡れたモップが壁に立てかけられている。バケツの底には灰色の水が残り、雑巾からは乾ききらない布の匂いがした。そこへ、古い紙と、少し酸味のあるインクの匂いが混じっている。
志保は机の前に座り、苦情メモ帳を開いていた。
表紙は濃い緑色だった。端が擦れて白くなり、背の糸が一箇所だけ露出している。彼女はその帳面の上に手を置いたまま、私を見なかった。
「入るなら、扉を閉めて」
言われたとおりにすると、外廊下の雨音が遠くなった。
完全に消えたわけではない。ガラスと壁を隔てて、雨は細かい粒になって残っている。管理人室の中では、冷蔵庫のモーター音と、蛍光灯のかすかな唸りのほうが大きかった。
「404号室の鍵を落としましたか」
「落としてないよ」
「さっき、音がしました」
「鍵は音がするものだよ」
「床に落ちた音でした」
志保は苦情メモ帳のページをめくった。紙が湿気を吸って膨らみ、めくるたびに指へまとわりつく。
「佐伯さんは、音を聞き分けるね」
「聞き分けているだけです」
「それを、聞き分けるって言うんだよ」
「404号室を開けたんですか」
志保の指が、ページの途中で止まった。
止まったのは、今度は長かった。蛍光灯が一度、明滅する。そのあいだも、指は紙の上に置かれたままだった。
「開けてない」
「鍵を持っているのに?」
「管理人が合鍵を持っているからって、何でも勝手に開けていいわけじゃないでしょう」
「では、誰かが開けた可能性は?」
「退去した人が、自分の鍵で開けて出ていった可能性もある」
「表札を外して、家具を運び出して、鍵を落として?」
「家具を運び出したところを見たの?」
「見ていません。ただ、扉の下に引きずった跡がありました」
「跡だけで、家具と決めるのは早いよ」
志保は帳面を閉じた。閉じるとき、表紙を強く押さえた。紙の束が空気を吐き出し、湿った音を立てる。
「佐伯さん。藤崎さんがいなくなったことを、事件にしたいの?」
「いなくなったのか、退去したのかを知りたいだけです」
「それを知って、どうするの」
「手紙が来ました」
志保の目が、ようやく私へ向いた。
「藤崎さんからです」
管理人室の冷蔵庫が、低く唸った。
志保は返事をしなかった。机の端に置かれた雑巾を取り、手のなかでたたみ直す。四つ折りにして、角を合わせ、少しずれると開いてやり直す。その動作を三度繰り返した。
「中身は?」
「生活音の記録。部屋番号。見取り図。それから、壁の向こうを見ろという書き込みです」
「それだけ?」
「最後に、見つけたら声を出すな、と」
雑巾を持つ手が止まった。
「それは、誰に向けた言葉だと思う?」
「私に向けたんでしょう」
「どうして?」
「私宛ての郵便受けに入っていたからです」
「郵便受けは、佐伯さんだけのものじゃないよ」
「名前が書かれていました」
「名字だけなら、間違えることもある」
「藤崎さんは、私の部屋番号を知っていました」
「同じ階に住んでいれば、知っていてもおかしくない」
「私が昔ここに住んでいたことも?」
志保の手が、また止まった。
今度は雑巾の角を押さえたまま、指先だけが白くなった。
「昔って、いつの話」
「覚えていません」
「覚えていないことを、どうして知っているの」
「封書の紙に、鉛筆の跡がありました。見取り図の裏です。私の書き方に似ていた」
「似ているだけでしょう」
「数字の四を書くときの癖まで」
「癖なんて、誰にでもあるよ」
「では、なぜあなたは驚かないんですか」
志保は顔を上げた。蛍光灯の弱い光が、頬の細い皺を拾っている。
「驚いているよ」
「そうは見えません」
「佐伯さんは、人の顔は見ないんだったね」
言われて、私は黙った。
志保はその沈黙を待たず、机の引き出しを開けた。中から、数冊の帳面と、輪ゴムで束ねた紙を取り出す。引き出しの奥には、古い乾電池、鍵の予備、油性ペン、何年も前の掲示物が重なっていた。
「これを見て」
彼女が差し出したのは、入居台帳だった。
表紙に、年度が手書きされている。紙の角は丸く擦れ、背の部分には茶色い染みがあった。私は椅子を引き、机の前へ座った。志保は向かいに座らず、立ったまま帳面を押さえている。
「404号室」
私が言うと、志保は黙ってページを開いた。
部屋番号ごとに、入居者の名前と入居日、退去日が記されている。文字は時期によって違った。管理人が変わったのか、担当者が変わったのか、欄の取り方も少しずつ変わっている。
404号室の欄には、藤崎澪の名前があった。
入居日は八年前。
その上に、前の入居者の記録があるはずだった。
だが、藤崎の名前の一行上には、黒く塗りつぶされた跡があった。数字とも文字ともつかない黒い塊が、紙の表面を覆っている。完全に隠すために塗ったというより、一度消したものを、あとから別の手で埋めたように見えた。
私は指先を近づけた。
紙の表面には、インクの盛り上がりが残っている。乾いたあとに塗り重ねたのではない。下の文字が何度もこすられ、その上から別の筆圧で線を重ねた跡だった。
「何が書いてあったんですか」
「分からない」
「消した人に聞けばいい」
「誰が消したか分からない」
「台帳を管理していたのは?」
「私だけじゃないよ」
「理事会も見ますか」
「理事会は、管理人が出したものを見るだけ。書き換える権限なんかない」
「権限がなくても、書き換えることはできます」
志保は私を見た。
「佐伯さんは、何でも人がやったことにしたいの?」
「建物が勝手に文字を消すとは思いません」
「建物は、文字を消さない。その代わり、文字を書いた人間がいなくなると、残ったものの意味を誰も確かめなくなる」
言い終えると、志保は視線を落とした。
私は台帳のページをめくった。
404号室だけではなかった。403号室の過去の欄にも、日付の欠けがある。入居日が記されているのに、退去日がない。次の入居者の名前が、前の名前と重なるように書かれていた。
405号室には苦情記録の参照番号がいくつも付いている。だが、ある年度を境に、番号が急に少なくなる。住人が静かになったのではない。書かれたものだけが減っている。
「この年から、苦情が減っています」
「そうね」
「何かあったんですか」
「騒音が減ったんでしょう」
「日野さんは、今でも夜の音を訴えています」
「人によって聞こえ方は違うから」
「藤崎さんも記録していた」
「記録は苦情じゃない」
「では、何ですか」
志保は帳面を閉じなかった。指で黒く塗られた欄の縁をなぞっている。そこには、削られた紙の毛羽立ちが残っていた。
「管理人というのはね、住人の話を聞く仕事だよ。聞いて、必要なら業者を呼ぶ。水漏れなら水道屋。鍵なら鍵屋。騒音なら、まず当人同士で話してもらう。それで収まらなければ理事会へ回す。私はずっと、そうやってきた」
「収まらないものは?」
「時間が経てば、たいていは静かになる」
「静かになったから、解決したと思うんですか」
「思いたかったんでしょうね」
志保の声は低かった。
私は彼女の顔を見た。感情を読むのが苦手な私にも、声の奥に疲労があることだけは分かった。言葉を選ぶ疲れではない。何年も同じ場所に立ち、同じことを見ないようにしてきた人間の疲れだった。
「ゴミ置き場の鍵を、わざと別の位置に置いたと言っていましたね」
「誰が開けたか知りたかったの」
「いつの話ですか」
「404号室の前の住人が出ていく少し前」
「その人が、ゴミ置き場を使っていた?」
「使っていたかどうかを見たかった」
「何を捨てていたんですか」
「さあね」
「また、その言葉です」
「知らないものは、知らないと言うしかないでしょう」
「でも、鍵を動かした。誰かが開けたか確かめた。つまり、何かを疑っていた」
志保は黙った。
蛍光灯が一度消え、部屋のなかが暗くなる。窓の外の雨だけが、曇ったガラスに白く浮かんだ。
数秒後、蛍光灯が戻った。
その間に、管理人室の空気が変わった気がした。志保の後ろにある棚の影が深くなり、そこに誰かが立っていたように見えた。私は振り返らなかった。振り返れば、何もないことを確認してしまう。確認してしまえば、今感じたものを自分の勘違いとして片づけなければならない。
「昔から、こういうことはあるのよ」
志保が言った。
「どういうことですか」
「部屋が空く。人が入る。名前が変わる。記録が増えたり、減ったりする。住人は出ていくたびに、自分がいた場所を持っていくから、残るのは壁と床だけ。壁と床は何も言わない」
「藤崎さんは、言わせようとした」
「そうね」
「あなたは止めたんですか」
「止めてない」
「協力もしなかった」
「管理人が、住人の記録を手伝う仕事じゃない」
「では、なぜ写しがあるんですか」
志保の目が、引き出しの奥へ動いた。
私は先ほどの帳面の束を見た。そこに、藤崎澪の手帳の写しが混じっている。まだ中身は見えていないが、表紙の擦れ方と、ページの端に残った細い鉛筆線が、封書の記録と同じものに見えた。
「藤崎さんが、自分で持ってきたんですか」
「一度だけね」
「何を言っていましたか」
「音の記録だと言った」
「それだけ?」
「それ以上は言わなかった」
「あなたは見たんでしょう」
「見たよ」
「なのに、何も分からない?」
「分かっていたら、今こんなふうに帳面をしまっていない」
志保は引き出しから手帳の写しを出した。
数枚の紙をホチキスで留めただけの簡単なものだった。ページの端には、原本をめくったときの折り目が残っている。紙を受け取ると、湿気を含んだ繊維が指の腹に触れた。
最初の行には、日付と時刻があった。
二十三時十七分。 四〇五、引き戸。二秒後、配管。
封書に入っていた記録と同じだった。
私はページをめくる。
二十三時二十一分。 四〇四、床面を擦る音。四〇五、照明消灯。
「これは、藤崎さんの字ですか」
「そう」
「封書の記録も?」
志保は答えなかった。
私は紙を机の上へ置き、古い台帳と並べた。日付、時刻、部屋番号。苦情メモ帳の余白に書かれた数字と、藤崎の記録の数字。形は似ているが、同じではない。志保の文字は縦線が強く、藤崎の文字は線の終わりが細い。
「封書を書いたのは、藤崎さんですね」
「似ているだけなら、そう言える」
「あなたはそう思っている」
「思うことと、言うことは違うよ」
「何が違うんですか」
志保は紙の端を揃えた。
「言ったことは、人に渡る。人に渡った言葉は、戻ってこない。記録なら、机の引き出しにしまっておける。誰にも見せなければ、誰も傷つけない」
「誰にも見せない記録は、ないのと同じです」
「そうかもしれないね」
「藤崎さんは、そう思わなかった」
「だから、いなくなった」
その言葉が落ちたあと、管理人室のどこかで水滴が落ちた。
バケツの縁か、モップの柄か、あるいは天井の配管から漏れた水か。私は音の方向を探した。部屋の隅。窓の下。古い棚の裏。
志保は立ち上がり、鍵束を持った。
「今日はここまでにして」
「まだ見ていないページがあります」
「見れば、もっと分からなくなるよ」
「分からないままにするために、ここへ呼んだんですか」
「呼んだのは私じゃない。佐伯さんが来たんでしょう」
「あなたが扉を開けた」
「扉は、叩けば開くことがある」
「404号室も?」
志保の手が、鍵束の上で止まった。
「佐伯さん」
「はい」
「人は、知りたいと思ったことを、知るだけでは済まない。知ったあとで、何をするかを決めなきゃならない。ここにある記録は、ただの紙じゃない。名前が書かれている。部屋番号がある。誰かの夜と、誰かが黙った時間が残っている。開けば、見なかったことには戻れない」
「それでも、見たいです」
「なぜ?」
私は答えようとした。
藤崎澪が消えたから。
封書が届いたから。
404号室の前で、誰かが鍵を落としたから。
どれも本当だったが、理由の中心ではなかった。私はその中心を知らなかった。知らないからこそ、机の上に並ぶ紙の一枚一枚へ手を伸ばしている。
「自分のことが、書かれている気がするんです」
口にした瞬間、管理人室の湿気が皮膚へまとわりついた。
志保は私を見た。今度は視線を外さなかった。
「そう思うなら、なおさら見ないほうがいい」
「なぜですか」
「自分の記憶ほど、都合よく音を変えるものはないから」
私は、台帳の黒い欄へ目を落とした。
塗りつぶされた文字の下に、かすかな凹みがある。指でなぞらなくても分かる。誰かがそこへ強い筆圧で名前を書いた。消そうとしても、紙の繊維の奥まで押し込まれた線は残った。
その凹みを見ていると、耳の奥に古い音が戻ってきた。
引き戸。
二秒後、配管。
誰かが壁際へ重いものを寄せる音。
そして、声を出さずに立っている自分。
「真壁さん」
「何」
「この黒い跡の下に、何が書いてありますか」
志保は答えなかった。
答えないまま、机の端にあった小さなメモを取り上げた。折り目のついた、古い紙だった。開かずに、指の間で何度も裏返す。
その紙から、かすかに藤崎澪の石鹸の匂いがした。
「それは?」
「預かったもの」
「誰から」
「藤崎さん」
「何が書いてあるんですか」
志保は長いあいだ、紙を見ていた。
「佐伯さんに渡すように言われた」
「なら、なぜ今まで渡さなかったんですか」
「渡す相手が、佐伯さんだと確かめられなかったから」
「どういう意味ですか」
「名前が同じでも、同じ人とは限らないでしょう」
その言葉の意味を尋ねる前に、管理人室の外で足音がした。
一つ。
間を置いて、二つ。
外廊下の防水シートが沈む音。歩幅は狭く、靴底は薄い。三歩目の前に、七秒の空白があった。
私は息を止めた。
志保も聞いていた。鍵束を握る手に力が入る。
廊下の足音は、404号室の前で止まった。
次の瞬間、エレベーター前の監視モニターが白く飛んだ。三十秒の空白が、管理人室の壁に映る。
志保はメモを握りしめた。
「誰ですか」
私は立ち上がった。
志保は首を横に振った。
「今は、出ないで」
「でも、外に誰かいる」
「だからだよ」
「何を知っているんですか」
「まだ、知らないほうがいい」
「藤崎さんが消えた理由も?」
志保の顔がわずかに歪んだ。
「消えたんじゃない」
小さな声だった。
雨音に混じれば、聞き落としてしまうほどの声。
「消される前に、自分で線を引いたのよ」
モニターの白い画面が戻った。
404号室の前には、誰もいなかった。
けれど、床の上に濡れた足跡が二つ残っていた。片方は扉へ向かい、もう片方は管理人室の前で止まっている。
志保は手にしたメモを、机の上へ置いた。
「これを持って帰りなさい」
私は紙へ手を伸ばした。
「読んでいいんですか」
「読むために渡すんだよ」
「さっきは、見ないほうがいいと言った」
「見ないで済む人なら、ここまで来ない」
メモを受け取ると、紙のざらつきが指先に残った。
開く前から、裏側に押しつけられた筆圧が分かる。数字らしい凹み。部屋番号のような短い線。最後に、何度もなぞられた文字。
志保は、私の手元を見ながら言った。
「その紙を読んだら、次は自分の記憶を確かめなさい」
「どこで?」
「部屋の中で。壁のこちら側で」
「404号室には入るなということですか」
「まだ、あそこは空室じゃないから」
私は顔を上げた。
志保はそれ以上言わなかった。管理人室の奥で、蛍光灯がまた一度、暗くなった。
光が戻ったとき、机の上に置かれたメモの折り目が、濡れた路地のように黒く見えた。そこには、消された部屋番号の残りが、紙の内側から浮かび上がっていた。
← 横にスクロールして読み進められます
