第3話 鍵束と怒鳴り声

扉の向こうから、控えめに二度、ノックがあった。
私はすぐには動かなかった。
ノックの音は、音としてはあまりに軽かった。拳ではなく、指の節か、硬い爪の先で触れたような音だった。扉の向こうに立っている人間が、こちらに開けてほしいのか、それとも自分がいることだけを知らせたいのか、判別できない。
私は壁際に立ったまま、足音を待った。
外廊下の床は、歩けば必ず鳴る。コンクリートの上に敷かれた古い防水シートが、靴底の重さに合わせてわずかに沈む。けれど、扉の向こうからは何も聞こえなかった。
三秒。
七秒。
封書に書かれていた足音の間隔と同じだった。
私はポケットの中の鍵を握った。玄関の鍵ではない。机の引き出しに入れていた、小さなマイナスドライバーを取り出す。武器になるとは思っていない。ただ、何も持たずに扉を開けるよりは、手に硬いものがあるほうが落ち着いた。
チェーンをかけたまま、扉を少しだけ開く。
外廊下には誰もいなかった。
照明は一つおきに暗く、雨の残った手すりが青白く光っている。向かいの中庭には水が溜まり、排水口へ流れ込む細い筋が、遠くから見ると誰かが引いた線のように見えた。
私は扉を閉め、チェーンを外した。
廊下へ出る。
右にも左にも、人影はない。エレベーターの表示灯は四階で止まっていた。扉は閉じている。誰かが乗っていれば、階下へ移動する音がするはずだった。
音がない。
それでも、誰かがいた痕跡だけが残っていた。
403号室の前の床に、雨で濡れた靴底の跡が一つあった。大きくはない。爪先がこちらを向き、踵の跡が薄く消えている。立ったまま、扉に近づきすぎないようにしていた人の跡だった。
私はしゃがみ込み、触れずに眺めた。
濡れ方が新しい。外廊下の床はまだ乾いていないが、この跡だけは周囲の水たまりと混じっていなかった。誰かが立ち、二度ノックし、私が出てくるのを待たずに去った。
その人物は、音を立てなかった。
エレベーターではない。階段だ。
私は階段の踊り場へ向かった。外廊下を歩く間、足音を数えた。四歩。角を曲がって五歩。手すりの切れ目から、下階の照明が見える。
そこにも、誰もいなかった。
階段の途中に、紙片が落ちていた。濡れて張りついた、管理組合の掲示物の端だった。文字はほとんど溶けていたが、「夜間の共用部使用について」という一行だけが残っている。
私はそれを拾わなかった。
拾えば、記録になる。記録になれば、知らないふりができなくなる。
部屋へ戻ると、封書の紙を一枚ずつ重ね、元の順番に戻した。見取り図の切れ端だけは、手帳の間に挟んだ。誰かに見せるべきだと思ったが、誰に見せればいいのか分からなかった。警察へ持っていけば、説明を求められる。真壁志保に聞けば、言葉の途中で手が止まる。日野菜摘に尋ねれば、怒鳴り声でこちらの問いが消される。
北条隆一という理事会役員の名前も、まだ直接は知らなかった。けれど、掲示板の貼り紙に何度も署名があり、文章の末尾にはいつも同じ言葉が並んでいた。
「住民の安全と資産価値のために」
安全と資産価値。
その二つが同じ文の中に並ぶたび、私は妙な居心地の悪さを覚えた。人間の暮らしは、数字に置き換えられると、途端に音を失う。
翌朝、雨は細く残っていた。
私は眠れないまま、404号室の前へ向かった。表札の外された壁には、まだ水が溜まっている。扉は閉じていたが、鍵がかかっているかどうかは分からない。
真壁志保は、管理人室の扉を半分だけ開けていた。
「退去だよ、たぶんね」
私が何も聞く前に、彼女は言った。
鍵束を持ち替える。大きな金属の輪が掌のなかで擦れ、いくつかの鍵が遅れて鳴った。志保はその音を聞くように、一度だけ手を止めた。
「たぶん、というのは?」
「退去届が出ているかどうかは、管理組合の書類を見ないとね。私は部屋を見ただけ。荷物がなくなっていて、表札が外れている。だから、退去だろうと思っただけ」
「荷物は、いつ運び出されたんですか」
「夜中じゃないかね」
「音がしませんでした」
「この建物は、音が回るから。聞こえた音が、鳴った場所の音とは限らないよ」
「家具を引きずった跡がありました」
志保の目が床へ落ちた。
「跡があったからって、誰かが運んだとは限らないでしょう」
「では、何ですか」
「知らないよ」
言いながら、志保は雑巾をたたみ直した。四つ折りにした角を、親指で何度も押し込む。
私は封書のことを話しかけた。
しかし、声にする前に、管理人室の奥から金属の擦れる音がした。志保が鍵を置いたのだろう。私はその音に気を取られ、言葉を飲み込んだ。
彼女は私を見た。
「何か言いたいなら、言えばいいよ」
「藤崎さんから、手紙が来ました」
志保の手が止まった。
今度ははっきりと止まった。雑巾の端をつまんだまま、指だけが動かなくなる。
「手紙?」
「差出人はありません。生活音の記録と、見取り図の切れ端が入っていました」
「藤崎さんが書いたものだって、分かるの」
「筆跡が似ています。あなたなら分かると思いました」
「何年も前の文字と比べるものなんか、持ってないよ」
「管理人室に、苦情メモがあります」
志保はすぐに答えなかった。
外廊下の先で、どこかの窓が閉まった。ぱたん、と薄い音がする。続いて配管が低く鳴り、建物の奥を水が落ちていった。
「藤崎さんは、よく苦情を言っていたんですか」
私は尋ねた。
「言ってない」
「でも、生活音の記録がある」
「記録するのと、苦情を言うのは違うでしょう」
「何が違いますか」
志保は、ようやく顔を上げた。
「苦情は、自分の困っていることを相手に直させるためのものだよ。藤崎さんのは、そうじゃない。あの人は、音がしたことを消さないために書いていた。誰かに直してほしいんじゃなくて、なかったことにされたくなかったんだと思う」
その言葉は、志保の口から出たものにしては長かった。
私は返事をせず、404号室の扉を見た。
「何が、なかったことにされたんですか」
志保の視線が、扉の脇の壁へ移る。
「さあね」
「知らない人の言い方ではありません」
「知らないよ。管理人は、住人の全部を知る仕事じゃないからね。鍵を預かって、ゴミを片づけて、苦情を受けて、掲示板の紙を替える。それ以上は、その人の生活だよ。そこへ入ったら、管理じゃなくなる」
「見ないことが、管理ですか」
「建物を壊さないためには、見ないほうがいいこともある」
「人が消えても?」
志保は口を結んだ。
私は言い過ぎたと思った。だが、謝る言葉は出てこなかった。謝るということは、相手の痛みに気づいていると認めることになる。私は人の痛みに気づくのが遅い。気づいたときには、もうその場を通り過ぎている。
そのとき、上階からドアの開く音がした。
続いて、足音が二つ。
日野菜摘が、階段を下りずに外廊下へ出てきた。薄い部屋着の上にカーディガンを羽織り、髪を片側だけ耳へかけている。こちらを見るなり、声を荒らげた。
「何してるんですか、そこで!」
私は振り向いた。
「404号室の前にいるだけです」
「それが迷惑なんです。朝から廊下に立って、何を聞いてるんですか。人の部屋の前で、耳を澄ませたり、壁を見たり、そういうのは無断侵入と同じでしょう」
「共用廊下です」
「共用なら何をしてもいいんですか? 音を立てていいんですか? 昨日の夜だって、あなたでしょう。扉の前で何度も立ち止まって、鍵を触って、歩いて戻ってきた。こっちは眠れないんですよ」
菜摘の言葉は早かった。声が大きいというより、息継ぎをしない。間を置けば、その隙間から別の音が入り込んでくるのを恐れているようだった。
「昨日の夜、私の部屋の前に誰か来ました」
「知りません」
「二度ノックされました」
「私じゃない」
「あなたは何か聞いていませんか」
「聞いていたら、何だっていうんですか。聞いたことを全部、あなたに報告しろと? 私はあなたの記録係じゃない。藤崎さんの代わりでもない。毎晩、どこで何が鳴ったかなんて、覚えていられません」
言い終えたあと、菜摘の喉が詰まった。
その一瞬だけ、声が消えた。
彼女は私ではなく、404号室の床を見た。そこには何もない。雨で濡れた黒い線と、扉の下の暗がりだけがある。それでも、菜摘は何かを見ているようだった。
「藤崎さんと、よく口論していましたね」
私が言うと、菜摘の顔から血の気が引いた。
「口論じゃない。苦情です。あの人が夜中に何かを動かすから、やめてくれと言っただけ」
「家具を?」
「家具じゃない」
言葉が出てから、菜摘は自分で口を閉じた。
志保が静かにこちらを見た。
菜摘は、逃げるように玄関のほうへ半歩下がった。だが扉は閉じたままだった。背中を預けることもできず、廊下の中央で立ち尽くしている。
「じゃあ、何の音ですか」
私は尋ねた。
「知りません」
「今、家具じゃないと言いました」
「聞き間違いです」
「何を」
「あなたの聞き方が、嫌なんです。音を聞いて、勝手に意味をつける。藤崎さんもそうだった。何でも誰かのせいにして、何でも記録して、最後には自分だけが真実を知っているみたいな顔をしていた」
「藤崎さんは、あなたを疑っていた?」
「疑っていたのは、私じゃない。部屋です」
「部屋?」
菜摘は答えなかった。
廊下の天井から、水滴が一つ落ちた。手すりに当たって、細い金属音を立てる。
菜摘はその音に反応し、肩を強くこわばらせた。
「404号室は、空いていたんです」
やがて、彼女は言った。
「藤崎さんが来る前から、ずっと。少なくとも、私がここへ来たときには空室だった。なのに、夜になると音がした。下からでも、隣からでもない。壁の中を通ってくるみたいな音。引き戸を開ける音、何かを引きずる音、それから、誰かが息を殺している音」
「人の音ですか」
「分かりません。分からないから、怖いんです」
初めて、怒鳴り声の奥にあるものが、そのまま出てきた。
菜摘は両手を握り、爪を掌へ食い込ませていた。
「管理人に言ったら、建物の音だと言われた。北条さんには、気にしすぎだと言われた。藤崎さんに言ったら、記録を見せられた。私が聞いた時間と、あの人が聞いた時間が、少しずつ違っていた。だから、余計に怖くなった。私が聞き逃した音がある。私が聞いたことを、誰かが別の時間に書き換えている。そんなふうに思えて……」
そこまで言うと、菜摘は急に口を閉じた。
長く話しすぎたことに気づいたのだろう。顔を上げたときには、また怒りの形へ戻ろうとしていた。
「でも、あなたに関係ないでしょう。藤崎さんがいなくなったことも、404号室のことも、あなたが調べる話じゃない。知りたいなら勝手にすればいい。でも、私の前で音を数えないで。あなたが数えるたび、あの夜に戻される」
私は何も言えなかった。
菜摘の最後の言葉だけが、廊下に残った。
あの夜。
私はその言葉を、手帳に書き留めたいと思った。時刻と一緒に。誰が、どの部屋の前で、どんな声で言ったのか。けれど、ポケットの中のボールペンに手を伸ばすことができなかった。
記録にすれば、他人の恐怖を自分のものにできる気がした。
それは、記録ではなく盗むことに近かった。
菜摘は扉を閉める前に、404号室をもう一度見た。
「昨日、あの部屋の前で音がしました」
「何の音ですか」
「鍵束です」
彼女の視線が、志保の手元へ落ちた。
「鍵を何本も持ち替える音。ひとつだけじゃない。誰かが、開ける鍵を探していた」
志保の手が、鍵束を握った。
金属が重なり、短く鳴る。
その音に、私は振り向いた。
「真壁さん、404号室の鍵を持っていますか」
志保はすぐに答えなかった。
代わりに、鍵束から小さな鍵を一つ外した。銀色の鍵だった。ほかの鍵より古く、頭の部分に黒いテープが巻かれている。管理用の合鍵らしい。
「空室の確認をするだけなら、開けられます」
「では、なぜ開けないんですか」
「退去の確認が済んでいないから」
「中に誰かいるかもしれない」
「いるなら、もう出てきているでしょう」
「そうとは限りません」
志保の目が、今度は私を見た。
「佐伯さん。入るなら、あなた一人で入らないことだよ」
「誰と入ればいいんですか」
「警察でも、理事会でも、誰でもいい。ひとりで見たものは、あとで自分の記憶にされる。記憶は、帳面ほど正確じゃないからね」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
記憶は正確ではない。
私はこれまで、覚えていないことを、起きなかったことと同じ場所へ置いてきた。
志保は鍵をしまい、管理人室の扉へ手をかけた。
「藤崎さんは、出ていく前に何か言っていましたか」
私が尋ねると、彼女は扉を閉める手を止めた。
「言ったよ」
「何と?」
志保は、廊下の向こうにある404号室を見た。
「次に聞こえた人へ渡してくれ、と」
それだけ言って、彼女は管理人室へ戻った。
日野菜摘の扉も、ほとんど同時に閉まった。
廊下には私ひとりが残された。
404号室の扉の下には、まだ黒い線が伸びている。雨に濡れた跡なのか、何かを引きずった跡なのか、私は確かめることができない。
ただ、扉の向こうから、かすかな金属音がした。
鍵が一本、床に落ちたような音だった。
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