第2話 封書の手触り

誰かが、どこかの蓋を開けた音だった。
金属の板が、内側から押し上げられる。軋みは一度だけで、すぐに閉じた。郵便受けの列には誰もいない。エントランスへ続くガラス扉の向こうにも、人影は見えなかった。
悠真は、音のした場所へ歩いた。
サンライズ東雲の郵便受けは、エントランスの壁に埋め込まれている。古い集合住宅にありがちな、名前の札と小さな投入口が並んだだけのものだ。雨の日には外気が隙間から入り、金属の内側に湿った匂いがこもる。朝刊の届く時刻はとうに過ぎている。配達員なら、投入口を開けてから閉じるまでに、もっと大きな音がする。
今の音は、誰かが一通だけを押し込んだときの音だった。
悠真は一段ずつ、名前を追った。
四〇一。四〇二。四〇三。
自分の名札の下に、封書があった。
白い封筒ではなかった。雨に濡れた古紙のような灰色で、端がわずかに丸まっている。差出人の欄には何も書かれていない。宛名もない。ただ、封筒の表面に、油性ペンで小さく「佐伯」とだけ記されていた。
部屋番号すらない。
それなのに、403号室の郵便受けに入っている。
悠真はすぐには手を伸ばさなかった。濡れた外廊下に立っていたときと同じように、まず周囲の匂いを確かめた。エントランスの古いタイル。傘立てに残った水。清掃用洗剤の甘い刺激。その下に、封筒から立ち上がる紙と糊の匂いがある。
古い。
けれど、濡れたまま放置された匂いではない。
封筒は、誰かの手の中で湿気を吸い、乾き、また湿ったような匂いをしていた。
悠真は指先で角を撫でた。紙の表面はざらついている。量販店で売られている封筒のような均一な手触りではなく、繊維の太さが場所によって違った。角には二度、折り直した跡がある。封をしたあと、何かを確かめるために一度開き、再び閉じたような折り目だった。
「……なんで、ここに」
声に出すと、エントランスの天井へ向かって言葉が薄く跳ね返った。
返事はなかった。
管理人室の小窓には明かりがついていた。真壁志保がいるはずだ。彼女に訊けば、この封書を誰が入れたのか分かるかもしれない。だが、悠真は小窓へ向かわなかった。
封筒を持ったまま、誰かの前へ行くことが怖かった。
怖いという感覚は、もっと単純な形で身体に出るものだと思っていた。手が震えるとか、心拍が速くなるとか。しかし悠真の場合、不安になるほど、指先の感覚が細かくなる。紙の厚み、糊の乾き具合、折り目の角度。目の前のものを測り始める。測っているあいだだけ、自分が何も感じていないようにいられる。
彼は封筒をコートの内ポケットへしまった。
そのとき、管理人室の小窓のカーテンが少し動いた。
志保がこちらを見たのかもしれない。
悠真は振り返らなかった。濡れたエントランスを横切り、エレベーターの前へ歩く。表示灯は四階で止まったままだった。誰かが上で呼んだのだろう。扉が開くまでのあいだ、壁の中で水が落ちる音がした。
一滴。
間を置いて、もう一滴。
その間隔が、封筒の中に書かれているかもしれないと思った。
エレベーターが下りてきた。扉が開く。内部には、濡れた傘の匂いが残っていた。悠真は乗り込み、閉じるボタンを押した。鏡のように曇った扉に、自分の顔がぼんやり映る。疲れているようには見えなかった。驚いてもいなかった。ただ、顔の中央に目だけが浮かんでいるようだった。
四階へ上がるあいだ、エレベーターは一度、三階と四階の間で小さく揺れた。
その揺れの直後、耳の奥で別の音がした。
引き戸を閉める音。
細い金属が床を擦る音。
それから、誰かが息を止めたような短い沈黙。
記憶なのか、建物の音なのか、悠真には判別できなかった。
扉が開くと、外廊下の湿った冷気が流れ込んできた。彼は403号室へ戻り、鍵を差し込んだ。鍵の歯が錠の内部に触れる。いつもなら一度で回る。今日は途中で引っかかった。
二度目に回すと、扉が開いた。
部屋の中は、出かけたときのままだった。小さなテーブル。仕事用の鞄。流しに置いたマグカップ。欠けた縁に、昨日のコーヒーの茶色い跡が残っている。
悠真は玄関で立ち止まり、匂いを確かめた。
自分の部屋の匂いだった。冷えたコーヒー、乾いた布、窓を閉めたままの空気。そこへ、外から持ち込んだ封筒の湿気が重なった。
彼は靴を脱ぎ、封筒をテーブルへ置いた。
すぐには開けなかった。
紙の上には、まだ誰かの指の跡が残っている気がした。もちろん、目で見えるものではない。封をした人間が、折り目を押さえた指の力。角を揃えたときのためらい。糊を塗り、乾くまで待った時間。そういうものが、紙の表面に微かに残っている。
封筒を裏返す。
裏面にも差出人はない。ただ、封の中央に、爪で押したような浅い線があった。糊が乾く前に、誰かがそこを一度なぞっている。確認するように。あるいは、閉じたことを自分に言い聞かせるように。
悠真は古いボールペンを取り出した。封を切るための刃物を探す代わりに、ペン先を折り目へ当てる。刃物を使うほどのものではないと思った。いや、封の中身を傷つけたくなかった。
ペン先を差し込むと、紙がゆっくり裂けた。
音は小さかったが、部屋の静けさのなかでは、布を破る音のように大きく聞こえた。
中には、薄い罫線の入った紙が三枚と、二つ折りにされた紙片が一枚入っていた。
一枚目の上部には、日付が書かれている。
その下に、時刻。
二十三時十七分。 四〇五、引き戸。二秒後、配管。 二十三時二十一分。 四〇四、床面を擦る音。四〇五、照明消灯。 二十三時五十五分。 四〇六、排水。三十秒後、エレベーター停止。
文字は細く、ほとんど同じ大きさで並んでいた。書き手は感情を抑えているというより、感情を文字の幅に押し込めていた。数字の「四」だけが、他の文字より少し強く書かれている。
悠真は次の紙へ進んだ。
午前零時十二分。 足音、三歩。間隔七秒。 廊下には出ず。 午前零時十三分。 家具ではない。移動方向、壁側。
短い文章だった。
苦情の記録ではない。誰かに読ませるための報告書とも違う。誰が何をしたかではなく、何がいつ鳴ったかだけが残されている。
悠真は紙を持ち上げ、鼻先へ寄せた。
インクの匂い。湿気。古い封筒糊。
そして、かすかな石鹸の匂いがした。
藤崎澪の部屋の前で、何度か感じた匂いだった。強い香りではない。雨の夜、澪が扉を開けたときにだけ、廊下へ漏れた無機質な石鹸の匂い。生活感の薄い匂いだった。使っている人間の気配を消すために選ばれたような、何も思い出させない匂い。
悠真は三枚目の紙をめくった。
そこには部屋番号だけが、縦に並んでいた。
四〇四 四〇五 四〇六 管理人室 ゴミ置き場 エレベーター
部屋番号の横には、細い線が引かれている。線はところどころで途切れ、別の番号へ折れ曲がっていた。四〇四から四〇五。四〇五から管理人室。管理人室からゴミ置き場。そして、ゴミ置き場からエレベーターへ。
建物の中に張り巡らされた経路のように見えた。
悠真は、自分の手帳を開いた。無意識に、同じ部屋番号を書き写していた。いつ書いたのか分からない。四〇四。数字の四を、澪の筆跡と同じように強く押しつけている。
「似ている」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
筆跡が似ているのではない。数字を書くときの力の入れ方が似ている。線を引くとき、終わりだけを少し強く残す癖が似ている。
以前から、自分は音を数えていた。足音の間隔、扉の閉まる速さ、配管の鳴る回数。だが、それを紙に残したことはなかった。残せば、見なかったことにできなくなるからだ。
二つ折りの紙片を開いた。
館内見取り図の一部だった。四階の廊下と、403号室から406号室までが描かれている。コピーではなく、古い図面を切り取ったものらしい。紙の端は鋭く、誰かが定規を当てて切った跡がある。
403号室と404号室のあいだには、分厚い壁が描かれていた。壁の内部には、縦に走る配管の線がある。ところが、見取り図の余白に鉛筆で書き込まれた線は、壁を避けず、そのまま403号室の内側へ伸びていた。
壁の向こう。
その文字が、紙の端にあった。
壁の向こうを見ろ。
走り書きのように見えたが、最後の「ろ」だけは丁寧だった。急いで書いたものではない。読ませる相手を想定して、最後に書き直したような形だった。
悠真は椅子から立ち上がった。
403号室と404号室の境目にある壁へ向かう。家具は置いていない。白い壁紙の下に、古いコンクリートがある。壁は湿気を含んで冷たく、指を当てると、皮膚の熱だけが吸い取られていく。
耳を寄せた。
何も聞こえない。
エレベーターの機械音も、外の工事音も、雨樋を流れる水も、壁の厚みの向こうで遠くなっている。
その代わり、記憶のなかから音が戻ってきた。
誰かが、壁の向こうで何かを引きずっている。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
床を擦る音ではない。重いものを、壁際へ寄せる音だった。
悠真は目を閉じた。
部屋番号が浮かばない。日付も浮かばない。ただ、玄関の外が暗く、誰かが廊下を走らずに歩いていたことだけが分かる。扉の前で立ち止まり、呼び鈴を押さず、何も言わずに去っていった。
あのとき、自分は何をしたのか。
壁から離れ、テーブルへ戻る。封筒の底に、薄い紙がもう一枚残っていた。見落としていたのだ。
それは手紙ではなく、短い走り書きだった。
「見つけたら、声を出さないで」
その下に、線が一本。
さらに、少し離れた場所に文字がある。
「あなたは、もう知っている」
悠真は紙を持つ手を下ろした。
部屋の中は静かだった。ひとりでいることに慣れた部屋の静けさ。誰にも話しかけられず、誰にも説明しなくていい安堵。その静けさを、悠真はこれまで自分を守る壁だと思っていた。
けれど今は、壁のこちら側にいるのが自分だけなのか、分からなかった。
廊下で、エレベーターが止まった。
扉が開く音。
誰かの足音が一つ。
二つ。
三つ。
そこで、音が消えた。
悠真は息を止めた。ポケットの中の鍵を探し、指で何度もなぞる。足音の間隔を数える。三歩のあと、七秒。
紙に書かれていた記録と、同じ間隔だった。
部屋の外で、誰かが立っている。
悠真は封書を握りしめた。湿った紙のざらつきが、指の腹に食い込む。
そして、扉の向こうから、控えめに二度、ノックがあった。
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