第1話 濡れた表札

雨がようやく薄くなっただけの朝、佐伯悠真は外廊下の床に立ち、403号室の隣にあるはずの404号室を見上げた。
表札だけが外されていた。
壁に残った二つのネジ穴には、雨水が小さく溜まっている。白く剥げた塗料の縁が湿気を含んで膨らみ、穴の下を細い水の筋が伝っていた。そこに文字があったことを示すものは、それだけだった。
藤崎澪。
名前を思い浮かべると、顔より先に音が出てくる。鍵を差し込むときの金属音。扉を閉めるとき、最後まで手を添えてから離す音。廊下を歩く、靴底の薄い足音。三歩、間を置いて二歩。いつも一定だった。
今朝は、そのどれも聞こえなかった。
悠真は濡れた床の上で、無意識に足音の数を数えた。自分がここまで来るまでに、廊下の角を曲がったところで四歩。階段の踊り場から六歩。404号室の前に立ってから、雨樋の中を水が落ちる音が三回。
いつもなら、澪の部屋の内側から何かしらの気配が返ってくる。椅子を引く音か、紙をめくる音か、窓の留め金が触れる音。澪は暮らしているというより、建物の中に薄い線を引いていた。その線が、今朝だけ途切れている。
マンションの外に面した窓から、湾岸の空が見えた。再開発地区の高層ビル群は、雨に溶けて輪郭を失っている。遠くで工事車両の警告音が鳴ったが、風に削られて、音の始まりと終わりが曖昧だった。
サンライズ東雲は、雨の日になると建物全体が少し沈む。
四十年前のコンクリートは水を吸い、外廊下の手すりは冷たい。壁に耳をつけなくても、どこかの部屋で流した水が配管を走り、階下の台所で食器を置く音が中庭へ反響する。誰かが暮らしている証拠は、顔や声ではなく、こうした小さな振動になって現れる。
悠真は、まず匂いを確かめた。
廊下の冷えたコンクリート。雨を吸った壁。古い排水溝に溜まった泥。その中に、昨日までなかった乾いた匂いが混じっている。家具の木目を削ったときのような、薄い木屑の匂いだった。
404号室の前に、家具を運び出した痕跡は見えない。床に泥の跡も、段ボールの紙片もない。ただ、扉の下に沿って黒ずんだ線があり、室内から外へ細く伸びている。雨水が流れた跡にも見えたし、何か重いものを引きずったときに付いた擦れにも見えた。
悠真はしゃがみ込み、指を近づけた。触れる前にやめた。
他人の部屋の前に残ったものを、勝手に確かめる理由はない。そう考えることが、彼にとっては礼儀だった。見つけたものを見なかったことにするのも、同じ礼儀の一部だった。
扉の横には、表札を固定していた金具が二つ残っている。ネジの頭は新しく擦れていた。誰かが急いで外したのではない。工具を当て、力を加え、ゆっくり回した跡だった。
部屋が空いたことより、空けた手つきのほうが気になった。
悠真は立ち上がり、エレベーター前の古い防犯カメラを見た。黒い筐体の角に、雨粒のような白い埃が付いている。カメラの向きは廊下の半ばに固定されており、404号室の扉は画面の端にしか映らない。扉の前に誰かが立てば、身体の半分は死角に隠れる。
管理人室の横にある小さなモニターには、ぼやけた廊下が映っていた。画像がざらつき、突然、白く飛ぶ。三十秒ほどしてから、何事もなかったように戻る。
悠真は腕時計を見た。
映像が消えている。
三十秒。
以前からそうだった。夜間だけ、一定の間隔で画面が白くなる。管理組合の掲示板には、数年前から「防犯カメラの更新について検討中」と書かれた紙が貼られていた。紙は何度も張り替えられていたが、文面は少しずつ短くなっている。検討中。継続協議。現状維持。
決まらないことだけが、決まったように残っていた。
画面が戻った。404号室の前には誰もいない。もちろん、今の映像に何かが映っているとは思っていなかった。それでも悠真は、消えていた三十秒のあいだに何があったのかを考えた。
澪が出ていったのか。
誰かが入ったのか。
あるいは、出入りそのものがなかったことになったのか。
「佐伯さん?」
背後から声がした。
振り返ると、管理人の真壁志保が、濡れた雑巾を片手に立っていた。髪の先が湿っている。朝の巡回を終えたばかりなのか、作業用のスニーカーの底に灰色の水が付いていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
志保は悠真の顔ではなく、404号室の扉を見た。それから、扉の横の壁へ視線を移し、最後に自分の手元へ戻した。雑巾を四角くたたみ直す。端と端を合わせ、ずれた角を爪で押さえる。
「藤崎さん、引っ越したんですか」
悠真が尋ねると、志保の手が止まった。
止まったのは、一秒にも満たなかった。だが悠真には十分だった。彼女の手が止まる時間は、言葉を探している時間と、言わない言葉を選んでいる時間のどちらかだ。
「まあね」
「荷物を運ぶ音は、聞こえませんでした」
「雨だったからね。朝早くにやったのかもしれないよ」
「昨日の夜には、部屋に明かりがありました」
「昨日の夜まであったなら、朝には消えることもあるでしょう」
志保はそう言って、濡れた手すりを雑巾で拭き始めた。拭く必要のない場所まで、同じ動作を繰り返している。
悠真は、扉の下の黒い線を見た。
「退去の届けは出ているんですか」
「そういうのは、管理人が勝手に言うことじゃないの」
「では、空室かどうかも分からない?」
「部屋が閉まっている。それだけだよ。中に誰がいるかまで、いちいち確認する仕事じゃない」
声は淡々としていたが、最後のところだけ、わずかに硬かった。
悠真はそこで口を閉じた。自分が他人の生活圏に踏み込もうとしていることに気づいたからだ。管理人に詰め寄ることも、扉を叩くことも、今の自分にはできる。しかし、それをした瞬間、これまで守ってきた境界を自分で越えることになる。
その境界の向こうに何があるのか、知りたいと思った。
同時に、知ってしまえば戻れないとも思った。
志保が手すりを拭き終え、雑巾を絞った。水が廊下の溝へ落ちる。ぽた、ぽた、と二度。それから、管理人室の奥で電話が鳴った。
「出ないんですか」

「留守番電話に任せることもあるのよ」
「管理人室なのに」
「管理人だって、全部に返事をしなくちゃいけないわけじゃないでしょう」
志保は少し笑った。笑ったというより、笑う形を口元に置いただけだった。
電話は三回鳴って止まった。
音が消えると、建物の奥から、低い振動が伝わってきた。どこかの部屋で水を流したのだろう。配管が一度、腹の底で鳴り、そのあと細い水音が壁の中を下っていく。
悠真はその音を聞きながら、以前にも同じ場所で、同じような音を聞いたことがある気がした。
雨の朝。
湿った壁。
閉じた扉。
その記憶には部屋番号がなかった。顔もない。誰かが床を歩いた気配だけが、暗い水の底から浮かび上がってくる。聞き取ろうとすると、音はすぐに遠ざかる。
「佐伯さん、風邪ひくよ」
志保の声で、悠真は現実に戻った。
「藤崎さんは、何か言っていましたか」
「何かって?」
「出ていくことについて」
「人が出ていくときは、出ていくと言うものだよ」
「言わない人もいます」
「そういう人もいるね」
「藤崎さんは、どちらですか」
志保は雑巾を持ったまま、ようやく悠真を見た。目の奥に疲れがあった。眠れない夜を重ねた人の疲れというより、長く覚えていることに疲れた人の目だった。
「藤崎さんはね、話さない人だったけど、何も言わない人じゃなかったよ」
その言葉だけが、雨の残る廊下に置かれた。
志保はすぐに視線を外した。
「ただ、あの人の言うことは、聞く人が少なかった」
「何を言っていたんですか」
「さあね。音がするとか、誰かが通ったとか。そういう話」
「実際に音はしていた?」
問いかけると、志保は答えなかった。
管理人室の奥で、冷蔵庫のモーターが動き始めた。低い唸りが、床を通って靴底へ上がってくる。志保はその音を聞き分けるように顔を傾け、それから小さく息を吐いた。
「人が住んでいれば、音はするよ」
「空室でも?」
「空室でも、建物は鳴る」
「人の音と建物の音は、違います」
「佐伯さんは、よく聞いてるんだね」
「聞いているだけです」
「聞いているだけの人は、こんな朝から廊下に立っていないよ」
責める口調ではなかった。だからこそ、悠真は返事ができなかった。
志保は管理人室の扉を閉めかけ、途中で手を止めた。
「部屋の前で、あまり長く立たないほうがいい。見られていると思う人もいるから」
「誰にですか」
志保は答えず、扉を細く残して中へ戻った。
悠真はひとり、404号室の前に残った。
見られている。
その言葉が、雨より冷たく皮膚に触れた。
扉の向こうには何もないように見える。けれど、空室というものは完全な無ではない。床に残った家具の跡、壁紙の色の差、誰かが置き忘れた匂い。そこに住んでいた人間が消えたあとも、生活は部屋の内側に薄く貼りついている。
悠真は壁に耳を寄せた。
湿った壁の冷たさが、こめかみに伝わる。
何も聞こえない。
いや、聞こえないことが、ひとつの音のように続いている。
遠くでエレベーターが動いた。表示灯が四階で止まり、扉の開く音がした。けれど、廊下には誰も出てこない。古い機械の唸りだけが空間に残り、三十秒後、監視モニターがまた白く飛んだ。
悠真はポケットの中の鍵を指でなぞった。
そのとき、背後の郵便受けの列から、金属がかすかに鳴った。
誰かが、どこかの蓋を開けた音だった。
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