第9話 声が届いた場所

体育館裏の渡り廊下を戻る途中、私は自分の足音を数えていた。
一、二、三——数えても何も変わらないのに、そうしていないと、さっきの楽屋の光景が頭から離れなかった。熱で赤くなった頬。ずれた白い手袋。床に落ちた台本と、その先で止まった指。あの人が立つはずだった場所に、私はもう戻ることになっている。
灯里は隣を歩いていた。いつもより歩幅が小さい。強気な足取りではなく、何かを確かめるような、そういう歩き方だった。
「大丈夫?」
彼女が聞いた。
「わかりません」
「即答ね」
「わからないことを、わからないと言っているだけです」
「それは、大丈夫の反対じゃない」
「たぶん、その中間です」
灯里は小さく息を吐いた。笑ったのか、ため息をついたのか、判別できない吐き方だった。
舞台袖の扉を開けると、赤い補助灯がまだ点いていた。高瀬が保健室から戻ってきていて、柏木先輩に何かを報告している。
「熱、四十度近くまで上がってた。保健の先生が救急に連絡してる。ご家族にも」
「わかった」
柏木先輩の声は、いつもと変わらなかった。低く、短く、余計な色を持たない声。だが、進行表を持つ手の指先が、わずかに白くなっていることに私は気づいた。
「本番は」
私が聞くと、柏木先輩はこちらを見た。
「動く。文化祭は止まらない。演劇部の出番も、消えない」
「主役がいなくても」
「主役はいる」
柏木先輩の視線が、まっすぐ私に落ちた。
「お前だ」
その言葉は、掲示板の前で聞いたときよりも、舞台袖で衣装を渡されたときよりも、重かった。理由はわかっている。今は、倒れた人の熱がまだ床に残っているような気がしているからだ。代役という言葉の裏に、誰かが立てなくなったという事実が、今夜初めてはっきりとした輪郭を持って迫ってきていた。
「本番まで、あと少しだ」
柏木先輩は進行表を開き、時計を確認した。
「衣装、確認。台詞、通し。照明、最終チェック。高瀬」
「はい」
「紙吹雪、袋の数を数え直せ。落ちた分、拾い直せ」
「了解」
高瀬はすぐに動いた。だが、いつもの軽口がなかった。紙吹雪の袋を数える背中が、今夜はどこか静かだった。
灯里が私の袖口を見た。
「衣装、直す」
「まだ直すところがありますか」
「ある。あなたが今、震えてる」
見ると、確かに手の先が小さく揺れていた。震えを止めようと拳を握ると、灯里がその手を取った。白い手袋の指が、私の指に軽く触れる。
「握らないで。開いて」
「開くと、震えが見えます」
「見えていい。震えを隠す力は、もう使わなくていい」
灯里はそう言って、私の手を開かせた。指先は冷たかった。彼女の手袋越しの体温が、その冷たさをわずかに包む。
「三好さんは、震えていませんか」
「震えてる」
「見えません」
「見せていないだけ」
「それも、もう使わなくていいって言いましたよね」
灯里の目が、一瞬揺れた。
「……そうね」
彼女は自分の手袋を見た。それから、思い切ったように、指先を私に見せた。白い布の内側で、指がわずかに震えている。
「見せた」
「はい」
「これで、ふたりとも震えてる」
「そうですね」
「それだけで、少し楽になった気がする」
灯里は袖口の糸を確かめ、ほつれのないことを確認すると、手を離した。
「時間だ」
柏木先輩の声が、舞台袖の空気を引き締めた。
私は王子衣装の重さを、もう一度肩で受け止めた。マントの銀糸が、赤い補助灯を細く弾く。焦げた電球の匂い、紙吹雪の粉っぽさ、汗を吸った布の匂い。今夜何度も嗅いだ匂いが、今は身体の一部のようになじんでいた。
高瀬が軍手をはめた手で、私の前に立った。
「王子、最終確認」
「はい」
「襟、よし。留め具、よし。袖、よし」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
高瀬はそう言ったあと、少しだけ迷うような顔をした。それから、いつもの軽さを半分だけ残して、続けた。
「さっきの人のこと、気にするなとは言わない。気にすればいい。ただ、気にしたまま立てばいい。忘れたふりして立つより、そのほうが、たぶんまし」
「王子っぽくない台詞ですね」
「王子の台詞じゃない。俺の台詞」
高瀬は紙吹雪の袋を持ち上げ、袖の奥へ下がった。
柏木先輩が進行表に目を落としたまま言った。
「足元だけ見ろ」
「本番でも、ですか」
「最初はな。顔は上げる。視線は相手へ。足は印へ」
「さっきも言われました」
「言うことは変わらない。変わるのは、お前の身体の使い方だけだ」
灯里が私の前に立った。白い手袋をはめた両手を、身体の横で静かに握っている。だが今夜は、その握りが強がりのためではなく、震えを抱えたまま立つための、小さな支えのように見えた。
「行く前に、聞いていい?」
灯里が言った。
「はい」
「あなたは、選ばれた理由をまだ信じていない。そうよね」
「はい」
「私はもう、そこにこだわらなくていいと思ってる」
「どうしてですか」
「理由を探している間、あなたは足元しか見ていなかった。理由を探すのをやめた瞬間、あなたは私の目を見た。それだけで、私には十分」
その言葉は、台詞ではなかった。灯里自身の言葉だった。私はそれを、床に落ちた紙吹雪のように、拾い上げるべきものだと思った。
「わかりました」
「わかったなら、行きましょう」
体育館の奥から、司会のアナウンスが響いた。桜丘祭の夜公演、演劇部の出番を告げる声だった。客席のざわめきが、扉の隙間から薄く漂ってくる。
私はスマホを取り出した。母からのメッセージが、画面にまだ残っている。
「もう帰ってる?」
私は返事を打った。
「まだ学校。今から舞台に出ます」
送信すると、既読はすぐにはつかなかった。母は今、台所で夕食の片づけをしているか、テレビの前でうたた寝をしているだろう。私の帰りを気にしながら、いつもの生活の温度を保っている。
その温度がどこかにあるから、私は今、別の場所に立てる。
画面を伏せ、鞄の底に沈めた。
「準備できたか」
柏木先輩が聞いた。
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「それでいい」
短い言葉だった。だが、その短さの中に、私が今夜聞いた誰の言葉よりも、まっすぐな許しがあった。
暗転の合図が入る。
体育館の照明が落ち、舞台の奥に赤い光が一筋だけ灯る。簡易階段セットの輪郭が、その光の中に浮かび上がった。
私は台本を閉じ、高瀬から渡された軍手を強く握った。折り目だらけの付箋の感触が、指先にまだ残っている。踏み外さないための、たしかに自分の字。
「行きます」
声が、舞台袖の奥まで伸びた。
灯里が先に一歩進み、階段の上へ立つ。白い手袋の指先が、わずかに震えているのが見える。私はその震えを、今夜はもう、隠すべきものだとは思わなかった。
幕が上がる。
最初の一歩で、木の段差が軋んだ。その音は、失敗の予兆ではなかった。舞台のこちら側と向こう側を分けていた境界が、私の重さを受け止めた音だった。
客席は暗い。だが、暗さの向こうに、確かに人がいる気配がある。その気配を怖がるのではなく、そこへ向けて声を届けることが、私が今、選んでいることだった。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
声が出た。
いつもより広く、体育館の高い天井まで伸びていく。焦げた電球の匂いも、紙吹雪の粉っぽさも、灯里の呼吸も、柏木先輩の短い指示も、高瀬の紙吹雪の袋がこすれる音も、全部が同時に、私の声のまわりで動いていた。
灯里が続く。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
台詞は完全ではない。喉はまだ乾いている。足元の印は、稽古で何度も踏んだ場所なのに、今夜だけは少し遠く感じる。それでも、私は止まらなかった。止まったとしても、そこから続ければいい。柏木先輩の言葉が、身体の奥で支えになっていた。
「見えるなら、見ればいい」
私は続けた。
「折れていても、光るものはある」
台本にはない一行だった。稽古のときに、私と灯里のあいだで生まれた言葉。それを、この夜、初めて客席の前で口にした。
灯里の呼吸が、わずかに揃った。
照明が一度、赤から青へ切り替わるところで、わずかに遅れた。袖で柏木先輩が小さく手を振るのが見える。高瀬が紙吹雪の袋を抱え、こちらを見ずに合図だけを送る。灯里はその遅れを待たず、私の一拍を受けて台詞を継いだ。
私も彼女に合わせる。
言葉ではなく、呼吸でつながる。
その感覚を、私は今夜、初めて身体で理解した。舞台は、誰か一人が完璧であることでは成立しない。灯里が待ち、私が返し、柏木先輩が照明を直し、高瀤が紙吹雪を拾う。崩れそうな場所へ、それぞれが手を伸ばし続けることで、舞台という形が保たれている。
終盤、高瀬が紙吹雪を放った。
白い紙片が舞う。折れた紙は回転し、皺のついた紙は途中で沈み、いくつかは風に押されて舞台袖へ戻ってくる。整ってはいない。だが、それはただの紙くずではなかった。誰かが折り、誰かが袋に詰め、誰かが今夜この場所まで運んできた時間の重さだった。
一枚が私の肩に落ちた。
私はそれを、拾わずにそのまま残した。柏木先輩の声が、まだ耳の奥に残っている。止めるな、終わってから。
「嘘をついた王子は、月の下で誓う。誰かを守るために、自分を隠さないと」
灯里の台詞に、私は返す。
「隠さない。見られても、ここに立つ」
言い終えた瞬間、体育館の空気が一度、静かに止まった。
そして、拍手が起きた。
最初は遠くから。次の瞬間には、波のように押し寄せてくる。私は肩の紙吹雪を感じながら、灯里を見た。彼女はいつもの強気な顔を作ろうとして、うまく作れず、代わりに少しだけ笑ってしまった。
その笑いを見て、私の肩から力が抜けた。
袖に戻ると、柏木先輩が進行表を閉じていた。何も言わなかった。だが、そのまま何も言わずに立っている姿が、今夜いちばんの「よくやった」に見えた。
高瀬が破れた紙吹雪の袋を持ち上げ、笑った。
「今日の主役、悪くなかった」
「王子見習いから、卒業できましたか」
「まだ半分。残り半分は、明日からの帰宅部生活で」
「それは、元に戻るということですか」
「戻るというより、続く。輪の外にいたころのお前と、今のお前は、たぶん少しだけ違う」
高瀬はそれ以上、説明しなかった。説明しないことが、彼のやり方だと、私はもう知っていた。
体育館の外へ出ると、校庭の夜風が頬を冷やした。文化祭前夜の熱気がまだ校舎に残っていて、模擬店の看板や、旗や、遠くの音楽室から漏れる練習の音が、いつもと変わらず続いている。世界は、私の一夜の変化を待ってはくれない。それでいいのだと、今は思えた。
私はスマホを開いた。母からの返信が来ている。
「無理しないで。終わったら連絡して」
私は文字を打った。
「今日だけは遅くなる」
送信すると、既読はすぐにはつかなかった。それでも、画面の向こうにある台所の灯りを思うと、足元が少しだけ軽くなった。
帰る場所は、最初からあった。
私が変わったのは、その場所へ帰るまでの時間の中に、もうひとつの場所を持てたことだった。舞台袖の熱、灯里の震える指先、高瀬の軽口の奥にある本気、柏木先輩の短い言葉に込められた重さ。その全部の中に、今夜、確かに私はいた。
夜風の中で息をついたとき、灯里が隣に立った。
「明日も、公演あるけど」
「はい」
「代役、続ける?」
「たぶん」
「たぶんって、便利な言葉ね」
「三好さんに言われたことです」
「私が?」
「大丈夫は禁止、って言われたので、たぶんにしています」
灯里は小さく笑った。今度は隠さない笑い方だった。
「じ�や、たぶん、また明日」
「はい。たぶん、また明日」
夜風が二人のあいだを通り抜けていく。紙吹雪の残り香が、まだ制服のどこかに残っている気がした。
私はもう一度、小さく息を吸い、そして初めて、心の中でこう思った。
やれた。
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