第10話 客席にいた人

文化祭当日の朝は、前夜とはまるで違う匂いがした。
模擬店の油の匂い、焼きそばのソース、体育館の外に張られたテントの布地が朝日に温められる匂い。廊下は生徒と来場者が入り混じり、昨夜の張り詰めた静けさはどこにもない。私は普段なら、こういう賑わいの端をすり抜けるように歩く。けれど今朝は、旧校舎を素通りして、まっすぐ体育館の裏へ向かっていた。
舞台袖に着くと、もう高瀬が紙吹雪の袋を数え直していた。
「早いな」
「早いですか」
「昨日までのお前なら、開演三十分前ぎりぎりに来てただろ」
「今日は、来たかったので」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。来たかった、と口にしたのは初めてだった。高瀬は片眉を上げただけで、それ以上は何も言わなかった。
灯里は鏡の前で衣装の襟を整えていた。白い手袋をはめる手つきは、昨夜よりも落ち着いている。
「震えてない」
私が言うと、灯里は手袋の指先を見た。
「震えてる。見えにくくなっただけ」
「見せなくていいって、言ったのは三好さんです」
「見せなくていいのと、見えなくなるのは違う」
灯里は鏡越しに私を見た。
「あなたは?」
「震えてます。でも、昨日より場所がわかります」
「場所って」
「震えを、どこに置いておけばいいか」
灯里はふ、と息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、その両方かもしれなかった。
柏木先輩が進行表を持って現れ、私たちの前で一度だけ足を止めた。
「本番、二回目だ」
「一回目と、何か変わりますか」
「変わる。客席が違う」
「昨夜と、そんなに」
「今日は、保護者が来る」
その一言で、胸の奥が小さく波立った。
開演のアナウンスが体育館に響き、私は暗い袖から、幕の隙間越しに客席を見た。パイプ椅子が並び、来場者の顔がぽつぽつと見える。見慣れない大人たちの中に、見覚えのある横顔があった。
母だった。
紺色のカーディガンを着て、いつも家で見るのと同じ姿勢で、少し前かがみに座っている。スマホを握っているのが、この距離でもわかった。連絡が来るかどうかを気にしているのだろう。私はまだ、来ることを伝えていなかった。
「どうした」
柏木先輩が短く聞いた。
「母が、来てます」
「知ってたか」
「いえ」
「なら、初めて見るんだな。お前が舞台に立つところを」
その言い方には、責めるでも急かすでもない、ただ事実を確かめるだけの静けさがあった。
灯里が隣に来て、幕の隙間から同じ方向を見た。
「あれが、お母さん」
「はい」
「似てる」
「どこがですか」
「背筋の伸ばし方」
そう言われると、そんな気もした。緊張したときに背筋を伸ばす癖は、確かに母にもある。
「怖い?」
灯里が聞いた。
昨夜と同じ問いだった。
「怖いです」
「今度は、何が」
「今まで、家と学校を、別のものにしてきました。母には、いつも帰ってくる私だけを見せてきました。舞台の上の私を、見られたことがないので」
「見られたくない?」
「わかりません」
「たぶんじゃなくて」
「今度は、見られたいです。たぶん、じゃなくて」
灯里は少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。
暗転の合図が入る。
私はスマホを取り出さなかった。返信を打つ暇はない。ただ、鞄の底で眠っている画面の向こうに、母がもう座っていることだけを覚えていた。
幕が上がる。
赤い光が階段の輪郭を浮かび上がらせる。私は昨夜より軽い足取りで、一段目に足を置いた。木が軋む。その音は、もう恐れの合図ではなかった。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
声を出す。
客席の奥、母のいる場所までは届いているだろうか。届いていなくてもいい。届けようとしている、その動きだけは、きっと伝わる。
灯里が続き、私が返し、高瀬の紙吹雪が舞い、柏木先輩の指示が袖の暗がりから小さく響く。台詞は完全ではない。けれど、崩れる前にどちらかが手を伸ばす、その呼吸だけは昨夜より確かだった。
拍手が起きたとき、私は肩の紙吹雪をそのままに、客席へ目をやった。母が、いつもより少しだけ大きな拍手をしていた。
袖に戻ると、スマホには一件のメッセージが届いていた。
「今日は、遅くならないでね。一緒に帰ろう」
私は少し笑って、返事を打った。
「うん。今日は、一緒に帰る」
夜になる前の校庭は、まだ明るい西日に照らされていた。灯里が並んで歩きながら、こちらを見た。
「また明日も、たぶん?」
「たぶん、じゃなくて。また明日」
その言葉は、思ったよりまっすぐ喉から出てきた。
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