第8話 熱の残った床

「最初から」
柏木先輩の声が、舞台袖の赤い光をまっすぐに切った。
私は簡易階段セットの一段目の前へ戻った。床には、さっき拾い集めた紙吹雪の白い切れ端がまだいくつか残っている。照明の境目に落ちたものは、赤く染まったり、青く沈んだりして、どちらの色にもなりきれないまま揺れていた。
灯里は階段の上に立っている。
白い手袋をはめた両手を身体の横に下ろし、背筋を伸ばしている。けれど、息を吸うたびに喉元がわずかに動いていた。私がそれに気づいたのを知っているのか、灯里は顎を上げる。強く見せるときの顔だ。
私は台本を開いた。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
声を出す。
さっきよりは出た。けれど、言葉の終わりが階段の上まで届く前に、灯里の台詞が重なった。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
「……すみません」
私は反射的に謝った。
灯里の眉が跳ねる。
「今の、私が早かったの?」
「違います。私が遅かったので」
「そうやって、すぐに全部自分のせいにしないで」
「でも、実際に」
「実際とか、そういう話じゃない。あなたが返さないから、私は待つべきだった。待たずに続けたのは私の判断。あなたが全部悪いわけじゃない」
「でも、合わせてもらうのは」
「だから、合わせてもらったんじゃない。私が合わせ損ねたの」
灯里の声が硬くなる。
「そこを曖昧にしないで。あなたが遅れた。私は待てなかった。二人ともずれた。それだけでしょう。片方だけを悪者にすれば簡単だけど、簡単な説明で舞台は直らない」
私は台本の端を握った。
灯里は怒っているように見えた。だが、怒りの向こうに、別のものがあった。次に同じことが起きるのが怖い。自分がまた待てず、相手の台詞を奪ってしまうのが怖い。その怖さを、彼女は声の硬さで押し固めている。
「……もう一度、お願いします」
私が言うと、灯里はすぐには返事をしなかった。
「あなた、今のまま続けて大丈夫なの?」
「大丈夫は禁止ですよね」
「そういう意味じゃない」
「なら、たぶん大丈夫ではないです」
灯里の指が、白い手袋の上から袖口を撫でた。
私は続ける。
「声が出るかどうかも、次の台詞が間に合うかもわかりません。立ち位置も、さっきから何度も間違えています。明日の本番で、客席がいっぱいになったら、たぶん今よりひどくなります」
「だったら、降りればいい」
灯里の言葉は短かった。
「今なら、まだ間に合う。代役を別の人にするか、台詞を削るか、演出を変えるか。部長なら何か考える。あなたがここで無理をする必要はない」
柏木先輩は口を挟まなかった。
高瀬も、紙吹雪の袋を抱えたまま黙っている。遠くで誰かが音響機材を運んでいるらしく、金属の脚が床を擦る音がした。体育館の外では、どこかの教室から笑い声が漏れてくる。学校全体が明日のために動いているのに、私たちのいる舞台袖だけが、動くことを拒んでいるようだった。
私は台本を閉じた。
「降りたほうが、迷惑は少ないと思います」
「それは、あなたが決めることではない」
灯里が言った。
「迷惑をかけるかどうかを、かける側が勝手に決めないで。私はあなたに合わせると言った。部長は、使えるか確認すると言った。高瀬は、紙吹雪を拾っている。みんな、自分が何をするかは自分で決めている」
「でも、私がいるせいで」
「あなたがいるせいで、何?」
灯里が一段下りた。
木の階段が、ぎし、と鳴る。
「私が待つことになる? 柏木先輩が立ち位置を直すことになる? 高瀬が衣装の留め具を結び直すことになる? そうね。なる。舞台はそういうものだから。ひとりで全部できる人間がいるなら、そもそも舞台袖なんて必要ない」
「それでも、私は」
「あなたは、何がそんなに怖いの」
問いかけは鋭かった。
私は反射的に足元を見た。赤いテープの線、そのすぐ横に落ちた紙吹雪、階段の脚。目に入るものを数えれば、答えなくて済む気がした。
けれど灯里は、私の視線が戻るまで待った。
「見られることです」
口から出た声は、思ったより小さかった。
「失敗するところを見られること。声が震えて、台詞が飛んで、立つ場所を間違えて、それを全部見られることです。失敗するだけなら、たぶん耐えられます。でも、失敗した私を見た人が、困ったり、がっかりしたり、笑ったりするのが嫌です」
灯里は黙っている。
私は続けた。言い始めると、言葉は思ったより奥から出てきた。
「だから、最初から期待されないほうがいい。期待されなければ、失敗しても誰かの予定を壊さない。誰かの時間を奪わない。私がいなくても困らない場所にいれば、少なくとも、私のせいで誰かが立ち止まることはないから」
「それで、ずっと壁際を歩いてきたの?」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「そうです」
灯里の目が、少しだけ揺れた。
「そんなの、私と同じじゃない」
「違います」
「違わない。あなたは、期待される前に消えようとする。私は、期待されたあとで失望されないように固まる。やり方が違うだけで、怖がっているものは同じ」
「三好さんは、消えようとしていないです」
「消えてるわよ」
灯里の声がかすれた。
「舞台の上で、私はずっと正しい位置に立って、正しい声を出して、正しい顔をしてる。だから誰も、私がそこにいるとは思わない。役が立っているだけ。灯里はどこにもいない。あなたの言う『いないほうが安全』を、私は舞台の上でやってきた」
彼女は自分の白い手袋を見た。
「それで、相手役の子に言われた。『灯里は私を見ていない』って。私は見ていた。台詞も動きも、全部覚えていた。でも、相手を見るんじゃなくて、相手が間違えないかを見ていた。失敗しないように、舞台が崩れないように、私が役に立つように。そうしているうちに、相手の顔が見えなくなった」
「……今は、見えていますか」
灯里は顔を上げた。
「あなたの顔なら」
目が合った。
一拍だけ、誰も動かなかった。
舞台袖の熱が、濃紺の衣装の布を通って肩へまとわりついている。灯里が近くにいるせいで、彼女の呼吸が聞こえた。浅い。けれど、さっきよりは長い。
「だったら、もう一度やりましょう」
私が言った。
灯里の眉がわずかに動く。
「また失敗するかもしれない」
「するでしょうね」
「即答しますか」
「私も、三好さんも、柏木先輩も、たぶん高瀬も、失敗するので」
「俺まで入れないでよ」
高瀬が口を挟んだ。
「俺は袋を落とすだけで、台詞は言わないから」
「それも失敗では」
「袋は物。俺が落としただけで、袋が悪いわけじゃない」
「急に物へ責任を押しつけるの、どうなんですか」
「舞台裏では、物にも多少の責任感を持ってもらわないと困る」
高瀬が肩をすくめた。張りつめていた空気が、ほんの少しほどける。灯里の口元もわずかに緩んだ。
柏木先輩が、赤いペンで床の印を指した。
「立ち位置」
私は印へ戻った。
「右足、半歩」
「はい」
「顔は灯里」
私は右足を動かし、灯里を見る。
「近い」
「すみません」
「謝らない。戻す」
「はい」
「返事が硬い」
「難しいです」
「難しいままやれ」
柏木先輩の指示は短かった。けれど、その短さが、今の私にはありがたかった。考えることが多すぎると、私はすぐに頭の中で失敗の順番を作り始める。階段を踏み外す。台詞を忘れる。灯里が困る。高瀬が冗談を言えなくなる。柏木先輩が進行表を閉じる。観客が笑う。
だから、ひとつずつ指示されるほうがいい。
立つ。見る。聞く。返す。
それだけなら、できるかもしれない。
柏木先輩が照明卓へ戻った。
「場面、三分の一から。赤、弱め。青、きっかけを遅らせる」
「また照明の不調ですか」
高瀬がケーブルを確認しながら言った。
「不調ではない。調整不足」
「言い方ひとつで、機材が反省してるみたいに聞こえる」
「反省は人間がする。機材は直す」
「部長、今日も機械に厳しい」
「高瀬」
「はい、作業します」
高瀬はしゃがみ込み、ケーブルを束ね直した。冗談を言いながらも、目は床の接続部を追っている。彼が指でコネクタを押し込むと、赤い補助灯が一度だけ明滅した。
「今の、俺の技術で光った?」
「接触が戻っただけ」
「つまり俺が戻した」
「違う」
「現場では、違わないことも大事だよ」
灯里が私へ向き直った。
「始める」
彼女は一度だけ喉を鳴らした。
私はその音を聞いた。台詞の前に、彼女が必ずする小さな準備。今までは強さを整える音に聞こえていた。今は、怖さを抱え直す音に聞こえる。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
私は言った。
灯里は、すぐに続けなかった。
待つ。
その一拍を、今度は私のほうから持った。
言葉が来るまで待つ。灯里が次に何をするかを見て、先回りしない。私が今まで「目立たないため」にしてきた待ち方と、舞台で必要な待ち方は、少し似ていて、ずいぶん違った。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
灯里が返した。
私は階段を一段上がる。
木が軋む。足の裏へ、板の硬さが返ってくる。顔を上げる。灯里の目を見る。
「見えるなら、見ればいい」
今度は、台詞の形を探さなかった。
「見られる覚悟くらい、王子にはある」
灯里の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「覚悟がある人間は、そんなに足元を見ない」
「足元を見ないと、転びます」
「転んだら?」
「……起きます」
「ひとりで?」
「できれば」
灯里の呼吸が浅くなる。
台本にはない応酬だった。私は途中で止まるべきか迷った。けれど、灯里がこちらを見ている。止めろとは言っていない。なら、返せるところまで返してみる。
「ひとりで起きるのが、王子の役目ですか」
「王子は、誰かに手を伸ばさない」
「それは、王子が強いから?」
「違う。手を伸ばして、届かなかったときが怖いから」
灯里の声が、わずかに揺れた。
「届かなかったら、手を伸ばしたことまで見られる。助けを求めたのに、助けてもらえなかった人間に見える。だから、最初から手を出さない。ひとりで立っているふりをする」
「それでは、誰も近づけません」
「近づかなくていい」
「三好さんは、そう思っているんですか」
灯里は答えなかった。
彼女の視線が私の肩から、手元へ落ちる。白い手袋の指先が、また袖口を探していた。けれど今度は、直すものがないことに気づいたのか、途中で止まった。
「……思っていた」
灯里が言う。
「誰も近づかなければ、誰も失望させない。誰にも触れられなければ、自分が崩れたところを見られずに済む。だから、強いふりをして、ひとりで立てるふりをしてきた」
「ふりばかりですね」
「そうね」
「私もです」
「知ってる」
「いつから」
「最初から。あなたは、断るときだけ丁寧になる。けれど、本当に帰りたい人は、あんなふうに台本を閉じない」
私は台本を見た。
確かに、閉じたまま手に持っているだけだった。降りるつもりなら、床へ置けばよかった。返すつもりなら、柏木先輩へ渡せばよかった。私はそのどちらもしないまま、ページの重さを手に残していた。
「……見られていたんですね」
「見ていた」
灯里は言った。
「あなたが台詞を拾ったときも。名前を書かれたメモを見て、剥がせなかったときも。今、帰ると言いながら、ここに立っていることも」
胸の奥が、熱いのか冷たいのかわからなくなった。
灯里が、一段下へ降りてくる。距離が近くなる。衣装の布が擦れ、白い手袋の先が、私の王子衣装の袖口へ触れた。
「ほつれてる」
「またですか」
「また。動くと出てくる」
「直せますか」
「直す」
灯里は糸の端を指でつまんだ。近い。彼女の息が、頬の横へかすかに触れる。舞台袖の熱と、布の匂いと、白い手袋の乾いた感触が混ざった。
「ここを押さえるから、動かないで」
「はい」
「肩の力を抜いて」
「難しいです」
「私も」
灯里の指が、袖口の糸を内側へ押し込む。
「……三好さんも?」
「私も、肩の力を抜くのが難しい」
「強く見せているから」
「そう」
「やめられますか」
「今、やめようとしてる」
「どうやって」
灯里は一度、目を伏せた。
「相手がいると思う。自分ひとりで立っていると思うと、全部を支えなきゃいけない。でも、あなたがいるなら、あなたが倒れないように見る。あなたが私を見るなら、私はあなたを見る。それだけにする」
「舞台が崩れたら?」
「柏木先輩が直す」
「照明が落ちたら?」
「高瀬が走る」
「紙吹雪がこぼれたら?」
「拾う」
灯里は糸を押さえ終えた。
「だから、私が全部やる必要はない」
「それ、すごく楽な話ですね」
「楽ではない。怖いわよ。人に任せると、その人が失敗するかもしれない。私が失敗したときより、もっと怖い。でも、失敗する場所を自分で選べることと、失敗しないように全部を抱えることは違う」
灯里の指が離れた。
「あなたが、さっき言った。折れていても光るものがあるって」
「言いました」
「だったら、私も少しくらい折れていていいでしょう」
その言葉に、私はすぐ答えられなかった。
灯里の目が、ほんの少し揺れている。強気な顔の下で、誰かに見つけてもらうことを待っているようだった。けれど、待つだけではなく、自分から一歩近づいてきた。衣装の糸を直すという小さな動作に隠れて、彼女は自分の弱さをこちらへ差し出している。
「……はい」
ようやく言うと、灯里は視線を逸らした。
「返事が遅い」
「考えていたので」
「台詞の前も、そうやって考えすぎる?」
「だいたい」
「なら、もう少し早く考えて」
「無茶です」
「無茶を言ってる」
灯里の声に、いつもの鋭さが戻った。
けれど、その鋭さはさっきまでのものとは違っていた。私を切るためではなく、互いの距離を測るための刃物のようだった。
柏木先輩が照明卓から顔を上げた。
「そこまで。次、通し」
「通し?」
私の喉が乾いた。
「最初から最後まで?」
「途中で止める」
「止めるなら通しでは」
「止めるまで通す」
「それは、通しというより止める練習では」
「名前はどうでもいい」
柏木先輩は進行表をめくった。
「必要なのは、止まったあとに戻れるかだ。照明、赤から青。階段、上り下り。終幕の紙吹雪まで確認する。高瀬、袋の位置」
「了解。今度は落とさない」
「落ちる前提で手を出すな」
「紙吹雪に失礼だな」
「灯里、相手を待つ」
「はい」
「私、台詞を忘れたら」
「見る」
「足元は」
「見るなとは言わない。見たあと、戻せ」
柏木先輩は最後に私を見る。
「止まっても、舞台から降りるな」
短い言葉だった。
それが、今夜いちばん重く感じられた。
私は階段の前へ戻った。さっきより木の段差が高く見える。けれど、何度も踏んだ場所でもある。怖さは、段差の高さではなく、そこへ足を置いたあとに誰かの視線が集まることから来ている。
それでも、足を上げた。
一段目へ置く。
ぎし、と鳴る。
灯里が息を吸った。
「月が欠けた夜は――」
「王子の嘘も欠ける」
私が先に返してしまった。
灯里の目が大きくなる。
「まだ私の台詞」
「すみません」
「謝らない。今のは、私が早かった」
「でも、私が」
「だから、両方」
灯里は一度、息を整えた。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
今度は、私が待つ。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
「見えるなら、見ればいい」
声が出る。
照明が赤から青へ切り替わる。青い光が階段の角を拾い、私の足元を薄く縁取った。高瀬が袖の端で紙吹雪の袋を抱え直す。柏木先輩のペンが、進行表の上を走る。
私は階段を上がり、灯里の横へ並んだ。
二人分の足音が、木の板へ重なる。
「あなたは、私を見ている」
灯里が言った。
「見ています」
「なら、嘘をつかないで」
台本の台詞だったのか、灯里自身の言葉だったのか、私には判断できなかった。
私は彼女を見た。強気に上がった顎。白い手袋。けれど、指先にはまだ細かな震えが残っている。
「怖いです」
私は言った。
「何が」
「失敗すること。見られること。三好さんの台詞を奪うこと。柏木先輩の指示を聞き損ねること。高瀬の紙吹雪をまた踏むこと。母に遅いと言われること。全部」
高瀬が袖の奥で、「最後のは俺たちじゃないだろ」と小さく言った。
灯里の口元がわずかに緩む。
私は続けた。
「でも、怖いから降りると、たぶん明日になっても、私はずっと自分の声を信じられないままだと思います。声が通ると言われても、たまたまだと思う。台詞を拾えたのも、誰かが困っていたから仕方なく動いただけだと思う。選ばれたのも、他にいなかったからだと思う」
灯里が黙って聞いている。
「たぶん、そうやって理由を小さくすれば、失敗したときに傷つかない。でも、今ここで降りたら、私は何をしても、たまたまにしてしまう気がします」
声は震えていた。
それでも、言葉は舞台の奥へ伸びていった。
「だから、もう一度だけやります。失敗するかもしれないけど、失敗するところまで、自分で見ます」
柏木先輩のペンが止まった。
高瀬の手が、紙吹雪の袋の上で止まる。
灯里は私のすぐそばに立っていた。視線が合う。彼女の瞳には、赤い光と青い光が両方映っている。
「それなら」
灯里が言った。
「私も、あなたが失敗するところを見てる。笑わない。勝手に先へ行かない。必要なら待つ。私が失敗したら、あなたも待って」
「私にできますか」
「できるかどうかじゃない。やるの」
「強引ですね」
「相手役だから」
「相手役は、強引でいいんですか」
「強引でいないと、あなたが消えるから」
灯里はそう言って、私の袖口をもう一度だけ確かめた。
「でも、消えないで」
その声は、台詞よりも小さかった。
照明がまた明滅した。
赤い光が一瞬強くなり、次の瞬間、青が落ちる。床の境目が消え、舞台袖が白い蛍光灯だけの色になる。私は思わず足を止めた。
「止まるな」
柏木先輩の声が飛んだ。
「照明、確認。高瀬、ケーブル」
「はい!」
高瀬が走る。紙吹雪の袋が床に擦れ、白い切れ端がひとつ跳ねた。
灯里は、私の手首の近くへ指を添えた。直接掴むのではなく、そこにいると伝えるだけの触れ方だった。
「足、印」
私は白いテープを見た。
「右、半歩」
「はい」
「顔、私」
私は灯里を見る。
「声、出して」
喉が乾いた。
それでも、息を吸う。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
赤い光が戻る。遅れて青が灯る。照明の熱が頬へ当たり、舞台板の硬さが足裏へ返ってくる。
灯里が、私の声を受けて続けた。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
私は返す。
「見えるなら、見ればいい」
「見られる覚悟くらい、王子にはある」
台詞が重なる。
呼吸が合う。
完全ではない。灯里が少し早く、私が少し遅い。けれど、ずれた瞬間にどちらかが先へ逃げることはなかった。灯里は待ち、私は顔を上げた。私が詰まると、灯里の目がわずかに細くなる。その合図を受け、私は次の言葉を出す。
何度も繰り返すうち、簡易階段の一段目は少しずつ低くなっていった。
怖さが消えたわけではない。
ただ、その怖さを踏んだ足の置き場所を、身体が覚え始めていた。
「終幕、紙吹雪」
柏木先輩の声が飛ぶ。
高瀬が袋を持ち上げた。今度は両手でしっかり支え、口元を確認している。
「いくぞ、王子。きらめき担当」
「その呼び方は、まだ慣れません」
「慣れたころには文化祭が終わる」
灯里が最後の台詞へ入る。
「嘘をついた王子は、月の下で誓う。誰かを守るために、自分を隠さないと」
私は返す。
「隠さない。見られても、ここに立つ」
その瞬間、高瀬が紙吹雪を放った。
白い紙片が、赤と青の光の中へ舞い上がる。きれいだった。けれど、全部がまっすぐには飛ばない。折れた紙は回転し、皺のついた紙は途中で沈み、いくつかは風に押されて舞台袖へ戻ってくる。
一枚が私の肩へ落ちた。
灯里がそれを見た。
「落ちた」
「拾います」
私は手を伸ばしかけた。
柏木先輩の声が響く。
「止めるな。終わってから」
私は手を下ろした。
紙吹雪は肩に残ったまま、照明の熱で少しずつ温まっていく。白い紙片が、王子衣装の濃紺の上で小さく光っていた。
稽古が終わる。
高瀬が袋を下ろし、柏木先輩が進行表へ線を引いた。灯里は私の肩に残った紙吹雪を見つめている。
「それ、ついたまま」
「見えますか」
「見える」
「取ったほうが」
「まだ」
灯里は手を伸ばし、紙片を指先でつまんだ。けれどすぐには離さず、折れ目を確かめるように眺めた。
「折れてる」
「でも、光っていました」
「そうね」
灯里は紙片を私の掌へ置いた。
「終幕用の袋に戻して」
「私が?」
「あなたが拾ったものだから」
紙片は、さっきより温かかった。照明の熱と、私の肩に触れていた時間を含んでいる。
私は袋の口を開き、その中へ戻した。
そのときだった。
廊下の奥で、何かが床へ落ちる音がした。
小さい音だった。
けれど、舞台袖にいる全員の動きが止まった。
高瀬が袋を抱えたまま顔を上げる。灯里の顎が上がり、柏木先輩だけが、音のした方向へ身体を向けた。
「柏木先輩?」
私が呼ぶと、先輩は返事をしなかった。
赤い補助灯の下を抜け、体育館脇の細い廊下へ向かう。そこは楽屋代わりに使っている旧校舎の教室へ続いている。扉は半開きだった。隙間から、白い蛍光灯が床へ細く伸びている。
私たちは少し遅れて、そのあとを追った。
廊下を曲がると、床に台本が落ちていた。
表紙には、『銀の月と、嘘つきの王子』とある。赤い線が何本も引かれ、角が折れている。白い手袋が、そのすぐ横に転がっていた。
そして、台本の向こうに人が倒れている。
王子衣装の下だけを着た男子だった。頬は熱で赤く、額には汗が浮いている。呼吸は浅い。片手が床へ伸び、その指の先に、落ちた鉛筆が転がっていた。
「主役……」
灯里の声が、初めて舞台の外で揺れた。
柏木先輩はすぐに膝をつき、男子の肩へ手を置いた。
「聞こえるか」
返事はない。
高瀬が袋を床へ置き、走って水を取りに行こうとする。柏木先輩が低い声で止めた。
「高瀬。保健室へ連絡。先生を呼べ」
「わかった」
高瀬の声から、冗談が完全に消えていた。
灯里は倒れた男子のそばに立ち尽くしていた。白い手袋のない指が、衣装の袖口を探すように動いている。けれど、直すものはない。彼女は何度も息を吸い、うまく吐けずにいた。
私は、床に落ちた台本を拾った。
ページの途中に、赤い字で書き込みがある。
――ユウ、ここで一歩前へ。 ――逃げる顔をして、逃げない。
私はその文字を見つめた。
灯里が私の手元へ視線を落とす。
「それ……あの子の」
「はい」
「返して」
「はい」
私は台本を胸へ抱えた。
倒れた男子の熱が、床板に残っているように感じた。さっきまでここにいた人間の体温が、舞台袖の熱とは違う重さで、足元から上がってくる。
柏木先輩が顔を上げた。
「代役は、お前だ」
もう一度、同じ言葉を聞いた。
けれど、掲示板のメモを見たときとは違っていた。今度は、紙の上の名前ではなく、倒れた人の手から滑り落ちた台本と、その人が立つはずだった場所を見たあとで聞いた。
私は、すぐには返事をしなかった。
灯里が私を見る。
強気な顔を作ろうとして、作れないまま、目だけが揺れている。
「……無理なら、言って」
彼女が言った。
「今なら、まだ」
「降りません」
私の声は、廊下の蛍光灯へ跳ね返った。
「怖いです。できるとは思いません。でも、降りません」
柏木先輩は、倒れた男子の呼吸を確かめながら、短く頷いた。
「なら、戻る」
「舞台袖へ?」
「舞台へ」
私は台本を抱え直した。
床に残った熱が、靴底から離れない。
それでも私は、灯里の隣へ戻るために歩き出した。
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