7話 袖の静けさ

本番直前の舞台袖は、稽古のあいだよりも静かだった。

体育館の客席には、明日の朝になれば何百人かの生徒や保護者が座る。そのための椅子はまだ畳まれたまま、暗い舞台の向こうに積まれている。今は誰もいない。けれど、誰もいないはずの客席へ向けて、舞台袖だけが息を潜めていた。

旧校舎の白い蛍光灯と、舞台側から漏れる赤い補助灯が、床に細長い境目を作っている。その境目に、紙吹雪の白い切れ端がいくつか落ちていた。光を受けるたび、紙片は舞台へ出ることをためらうように、かすかに明滅した。

私は王子衣装の袖を通したまま、壁際に立っていた。

濃紺の布は、見た目より重かった。肩にかかるマントの重みだけではない。汗を吸った裏地の匂い、銀色の糸で縫いつけられた月の刺繍、袖口に残る誰かの体温。その全部が、私の身体を知らない役へ引っ張っている。

喉が乾いていた。

私は何度も唾を飲み込み、そのたびに小さく喉を鳴らした。音が近くにいる人たちへ聞こえてしまう気がして、制服の襟元を引く。すると、王子衣装の襟と制服の襟が重なり、首のまわりがいっそう苦しくなった。

「そこ、引っ張りすぎると破れる」

柏木先輩が言った。

進行表を片手に、私の顔ではなく足元を見ている。視線が上がらないのに、どこへ逃げようとしているかだけは、全部見抜かれているようだった。

「すみません」

「謝る前に、手を離せ」

私は襟から指を離した。

柏木先輩は進行表へ目を落としたまま、舞台の奥を確認している。照明の角度、簡易階段セットの脚、袖から出るための動線。何かを数えるように、視線が床を移動していく。

「足元だけ見ろ」

「本番中もですか」

「最初はな」

「客席ではなく?」

「客席を見る余裕があるなら、台詞を忘れない。台詞を忘れるなら、足元を見る。足元がわかれば、次の一歩は出せる」

「でも、王子がずっと床を見ていたら、かなり謙虚な王子になりませんか」

「顔だけ上げろ。視線は相手へ。足は印へ」

「注文が多いです」

「舞台は注文でできている」

柏木先輩はそう言って、進行表の端に何かを書き込んだ。紙の上には赤い線が幾重にも重なっている。時間、照明、音響、出入りの位置。誰かの動きを縛るためではなく、誰かが迷ったときに戻れるように、先輩は細かく線を引いていた。

私はその横顔を見ながら、少しだけ息を吐いた。

柏木先輩の言葉は厳しい。けれど、厳しい言葉のひとつひとつが、舞台の上で足場になる。できると言って持ち上げるのではなく、できない場所を先に教えてくれる。そのほうが、私にはまだ信じやすかった。

「おーい、王子」

高瀬悠真が、舞台袖の奥から歩いてきた。

手には使い古した軍手をはめている。もう片方の手には、細い紐とガムテープ。王子衣装の襟元を見つけると、彼は何も言わず、私の前へ立った。

「ちょっと動かないで」

「はい」

「返事だけは素直。王子の資質がそこにある」

高瀬は笑いながら、私の襟の留め具へ手を伸ばした。布が擦れる音が、近い距離で聞こえる。軍手の端が指先に触れ、ざらりとした感触が残った。

「さっき直したのに」

「直したのは留め具。今度は襟。王子は首まわりに問題が起きがちだな」

「王子というより、衣装の問題では」

「衣装に問題があるなら、王子が何とかする。国の代表だから」

「王子にそこまでの裁量があるんですか」

「たぶん。王子やったことないから知らないけど」

高瀬は紐を結び直した。結び目を指先で二度押さえ、ほどけないことを確認する。

「はい、これで歩いても落ちない」

「ありがとうございます」

「礼はいいよ。俺が好きでやってるだけだから」

その言い方は軽かったが、手つきには迷いがなかった。高瀬は、誰かを助けるときほど、それを助けと呼ばせない。代わりに冗談を添えて、こちらが受け取る理由を作る。

「軍手、貸してくれたんですか」

「貸すというか、押しつけ。舞台袖は何かしら汚いから。紙吹雪、焦げた電球、誰かの諦めた夢。素手だと危険」

「最後のものだけ、触らないほうがいいですね」

「触ったら重いからね」

高瀬はそう言ったあと、私の顔を見た。

笑いかけたのに、私が笑わなかったのを確認すると、すぐに口元の力を抜いた。

「……今、笑えない感じ?」

「少し」

「そっか」

高瀬はそれ以上、冗談を重ねなかった。

舞台袖に、機材のファンが回る音だけが残った。赤い補助灯が低く唸り、焦げた電球の金属が冷えながら小さく鳴る。遠くの廊下では、誰かが脚立を運んでいる。床を引きずる音が、体育館の壁を通してぼんやり響いた。

高瀬は軍手の指を一本ずつ曲げた。

「さっきの顔、教室でもする?」

「どの顔ですか」

「逃げる前の顔」

私は答えなかった。

高瀬は、私の返事を急かさず、代わりに紙吹雪の袋を足元から少し遠ざけた。私の靴が当たらない場所へ、袋を引き寄せる。

「俺さ、前に一回、冗談で人を助けようとして、逆に追い詰めたことがあるんだよ」

「高瀬が?」

「その驚き方は何。俺だって失敗くらいする。むしろ、してそうだろ」

「していそうというより、しなさそうに見せているのだと思います」

高瀬は一瞬、黙った。

「……そこまで見てる?」

「見えてしまうので」

「そっか。じゃあ、見えたついでに聞いて。俺、今も余裕あるように見える?」

高瀬の声は、冗談の温度を失っていた。

「少し」

「正解。余裕はない。でも、俺まで固まると、この袋が誰にも回収されないだろ。だから笑ってる。笑うと本当にちょっとだけ呼吸が戻るから」

高瀬は紙吹雪の袋を持ち上げた。袋口には新しいガムテープが二重に貼られている。端には、彼の字で「終幕用」と書かれていた。

「笑わせるだけじゃ足りないって、前に思ったんだ。だから手も動かす。袋を閉じる。衣装を直す。落ちたものを拾う。そういうのをやっていると、少なくとも誰かが立つ場所は残せる」

「高瀬は、舞台に立たないんですか」

「立つより、立つ人を見るほうが好き。誰かが怖がりながら一歩出る瞬間って、客席から見るより袖から見たほうが面白いんだよ。足が震えているのに、足だけは前へ出る。あれ、ちょっと格好いい」

「私は、震えているところを見られるのは嫌です」

「でも、震えてないふりをして転ぶより、震えながら印を踏んだほうが、たぶん見てる側には届く」

「それは、舞台に立ったことがある人の言葉みたいです」

「ないよ。裏方の言葉」

高瀬は肩をすくめた。

「表に立たない人間にも、見えるものはあるからね」

その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。

自分は舞台の外側にいる。そう思っていた。輪の外側にいることと、何も見ていないことを、私はいつの間にか同じにしていたのかもしれない。

「高瀬」

灯里の声がした。

振り向くと、三好灯里が壁際に立っていた。白い手袋をはめた両手を前で重ね、背筋をまっすぐ伸ばしている。いつもの、近づきにくい立ち姿だった。

ただ、手袋の指先がわずかに震えていた。

「何?」

「終幕用の袋、そこに置かないで。照明ケーブルに近い」

「はいはい。灯里さん、今夜も床の治安維持にご協力ありがとうございます」

「茶化さないで」

「茶化してない。敬意を表してる」

「敬意は、袋を安全な場所へ置いてからにして」

高瀬は「了解」と言い、すぐに袋を持ち上げた。軽口を返しながらも、動きは早い。灯里が指した場所へ運び、床に貼られた白いテープの内側へきちんと収める。

柏木先輩が進行表から顔を上げた。

「灯里、呼吸」

「しています」

「浅い」

「していますから」

「量の話ではない」

灯里の顎が少し上がった。

「本番前に、そこまで細かく言わないでください」

「本番前だから言う」

「私は大丈夫です」

「その言葉は禁止」

灯里の唇が固く結ばれた。

私は、彼女の右手が袖口を整えるのを見た。布の端を指でなぞり、ほつれがないのにもう一度直す。強く見せようとするほど、手元が忙しくなる。

「三好さん」

私が呼ぶと、灯里は短くこちらを見る。

「何」

「手袋、きつくないですか」

「別に」

「指が動かしにくそうなので」

「動く」

「さっきから同じ場所を触っています」

灯里の指が止まった。

高瀬が、紙吹雪の袋を持ったままこちらを見た。柏木先輩は進行表を閉じた。

「……よく見てるのね」

灯里は言った。

「見てしまうだけです」

「便利な言い方」

「便利ではないです。見えてしまうと、どうしても気になります」

「だったら、見なければいい」

「見ないようにすると、余計に気になります」

灯里は、少しだけ視線を逸らした。

「あなた、私のことを強いと思っている?」

「はい」

「それは間違い」

「でも、強く見えます」

「見せているだけ。強く見せていれば、誰も私が失敗すると思わない。失敗しないと思われていれば、失敗したときに誰かをがっかりさせずに済む」

「そのほうが、つらくないですか」

「つらいわよ」

灯里は即答した。けれど、すぐに顎を上げ、声を整えた。

「でも、つらいからって弱音を吐けば、相手が私を支えなきゃいけなくなる。相手役に合わせてもらうのは嫌。私が相手に合わせるためにここへいるのに、私が崩れたら、全部を相手に渡すことになる」

「舞台は一人で持つものではないと思います」

私が言うと、灯里の目が細くなった。

「それを、舞台に立ったことのない人が言うの?」

「立ったことがないから、わからないです。ただ、ここにいる人たちが何かを持っているのは、見えます」

私は足元を見た。

「柏木先輩は進行表を持っている。高瀬は紙吹雪の袋を持っている。私は台本と衣装を持っている。三好さんは……」

「私は?」

「白い手袋と、たぶん、たくさんの責任を持っています」

灯里は何も言わなかった。

体育館の奥で、マイクが一度だけハウリングを起こした。きいん、と高い音が走り、すぐに誰かがスイッチを切る。残った静けさの中で、灯里の呼吸だけが聞こえた。

「それを、軽くしたいと思ったことはないんですか」

「ある」

「どうして軽くしないんですか」

「軽くしたら、落としそうだから」

「落としたら、誰かが拾います」

「拾わせたくない」

「拾う側が、拾いたいと思っているかもしれない」

灯里の視線が、私の顔にまっすぐ向いた。

その距離は数歩しかないのに、舞台の光と袖の暗がりを挟んで、遠い場所のように感じた。

「あなたは、誰かに拾われたいの?」

「……わかりません」

「またそれ」

「本当に、わからないんです。拾われたら迷惑をかける気がする。でも、誰にも見つからないままなのも、少し違う気がして」

「違うって、何が?」

私は、答えを探した。

「自分がここにいることが、なかったことになる感じがします」

灯里の表情が、わずかにほどけた。

その顔を見たとき、私は自分の言葉が彼女にも届いたのだとわかった。灯里は強い人ではない。強く見せることで、舞台に自分の居場所を残そうとしている。私が壁際を歩いて輪郭を薄くするのと、たぶん向きが違うだけで、やっていることは似ていた。

「……私も、そうだった」

灯里が言った。

「前の公演で、台詞を飛ばしかけた。相手が拾ってくれた。客席には気づかれなかったけど、私にはわかった。私の代わりに、相手が一歩前へ出たこと。終わったあと、ありがとうと言われて、私は謝った。相手に合わせてもらったから。相手の時間を使ったから。次は絶対に私が支える側になるって決めた」

「だから、私にも合わせろと?」

「違う」

返事が早かった。

「あなたに合わせろと言ってる。あなたが遅れたら待つ。声が震えたら、その震えが消えるまで待つ。私が先へ行かないようにする。そういうのも、支える側の仕事だと思うから」

「でも、三好さんは本番に弱いんでしょう」

言ったあと、空気が凍った。

灯里の目が鋭くなる。白い手袋の指が、ゆっくり握られた。

「誰に聞いたの」

「聞いてません。見ていると、わかります」

「わかるように見ているだけかもしれない」

「では、違うんですか」

灯里は口を開いた。けれど声が出なかった。

その沈黙は、台詞を忘れた私の沈黙とは少し違っていた。言えないのではなく、言ってしまったら戻れない何かを、喉の奥で押しとどめているようだった。

柏木先輩が低く言った。

「灯里」

「平気です」

「禁止した」

「平気じゃないって言ったら、どうするんですか。公演を止める? 相手役を変える? 私がこんな状態で舞台に立つのは無理だと言って、全員に帰ってもらう?」

「どれもしない」

「なら、平気でいるしかないでしょう」

「違う」

柏木先輩は、進行表を脇へ置いた。

「平気でいる必要はない。崩れた状態で、何をするかを決めろ。お前は、平気なふりをすることと、舞台に立つことを混同している」

灯里の顔がこわばった。

柏木先輩は続けた。

「舞台は、役者が無傷であることを見せる場所ではない。傷のある人間が、傷を抱えたまま次の台詞を言う場所だ。お前が息を浅くしていることは、もうわかっている。私にも、高瀬にも、たぶんこの子にもわかっている。それでも、お前を外すとは言っていない」

「……それは、私が相手役だからですか」

「違う。お前が立てるからだ」

柏木先輩の声は低かった。

「立てる人間は、平気な人間ではない。倒れたあとに、どこへ足を置けば立ち直れるかを知っている人間だ。お前は、今まで何度もそれをやってきた。だが、ひとりでやろうとしすぎる」

灯里は俯いた。

白い手袋の指先が、膝の横で震えている。私はそれを見て、何か言わなければと思った。けれど、励ます言葉は簡単すぎた。大丈夫です、と言うのは、灯里が嫌う言葉だ。頑張ってください、と言えば、私がずっと嫌ってきた押しつけと同じになる。

だから、私は台本を開いた。

折り目だらけの付箋が、最初の場面に挟まっている。誰かが何度も同じページを開いたせいで、紙の端が柔らかくなっていた。

「三好さん」

灯里が顔を上げる。

「何」

「私、台詞を全部覚えられていません」

「知ってる」

「立ち位置も、まだ間違えます」

「知ってる」

「たぶん本番で、ひとつは飛ばします」

「……それを今、私に言うの?」

「はい」

「言わないで。怖くなるから」

強気な声だった。けれど、最後の音だけがかすかに揺れた。

私は一拍置いてから言った。

「私も怖くなります。だから、飛んだら教えてください」

「どうやって」

「目を合わせるとか」

「舞台上で?」

「はい。怒った顔でもいいです」

「いつも怒ってるみたいに見えるでしょう」

「少しだけ」

「少しだけ?」

灯里が睨む。

高瀬が、堪えきれずに鼻で笑った。

「今のはいいね。灯里の顔、かなり通常運転」

「高瀬」

「はい、黙ります」

「本当に黙って」

「でも、二人とも今のほうが呼吸してる」

高瀬の声は、ふざけていなかった。

灯里は一度、目を閉じた。白い手袋をはめた手が胸元へ上がり、そこで止まる。深く吸おうとして、途中で息がつかえた。

私は、彼女が次に息を吐くまで待った。

やがて灯里が吐き出した息は、最初より長かった。

「……あなたの声、嫌いじゃない」

「急ですね」

「声の話。勘違いしないで」

「していません」

「本当に?」

「少しだけ」

灯里の耳が赤くなった。赤い補助灯のせいかもしれない。そう思うことにした。

柏木先輩が、進行表を閉じた。

「時間だ」

その一言で、舞台袖の空気が変わった。

今までの静けさは、稽古の合間に生まれたものだった。これからの静けさは、本番へ向かうためのものだ。誰かが客席側の扉を閉める音がする。体育館の照明がひとつずつ落ち、舞台の赤と青だけが残る。

高瀬が紙吹雪の袋を抱え上げた。今度は口を確かめ、ラベルを指で押さえる。

「終幕用、口よし。紙片よし。王子の襟、たぶんよし」

「たぶん?」

「人生に絶対はないから」

「衣装に必要なのは絶対です」

「じゃあ、柏木先輩に確認して」

柏木先輩は私の足元を見た。

「靴。右を半歩下げろ」

私は言われたとおりに動いた。

「そこ。次に階段。印を踏む。上がったら灯里を見る」

「台詞は」

「出る」

「出なかったら」

「待つ」

柏木先輩が灯里を見る。

「灯里」

「待ちます」

「自分も、な」

灯里はすぐには答えなかった。

けれど、やがて白い手袋の指先を握り直し、私を見た。

「待つ。あなたが次を言うまで」

その声には、もう強がりだけの硬さはなかった。

私のスマホが震えた。

画面を見ると、母から新しいメッセージが届いている。

「もう帰ってる?」

短い文の後ろに、家の台所の灯りが浮かんだ。冷蔵庫の低い音。テーブルの上に置かれた、たぶんラップのかかった夜食。母は今も、私が帰る時間を気にしている。

私は返信欄を開いた。

「まだ学校。少し遅くなる」

打ち込んでから、送信する前に指が止まる。

嘘ではない。けれど、それだけでは足りない気がした。

私は続けて文字を打った。

「演劇部の代役をしてる」

送信する。

すぐに既読がついた。

「無理しないで。終わったら連絡して」

それだけだった。

母は、私が何をしているのかを詳しく知らない。私がどんな衣装を着て、どんな舞台へ出ようとしているのかも知らない。それでも、帰ってくる時間だけは待っている。

画面を伏せる。

家に帰る場所がある。

だから、ここにいてはいけないわけではない。

そのことに気づいたとき、胸の奥で何かが静かにほどけた。私は帰る場所を失うために、舞台へ出るのではない。帰る場所へ戻る前に、今夜だけ別の場所で、自分の足を置く。

柏木先輩が、舞台の暗がりを見た。

「スタンバイ」

高瀬が紙吹雪の袋を抱え、袖の奥へ下がる。彼は私を見なかった。見ないことで、私が見られていることを忘れさせようとしているのかもしれない。

灯里が一歩、私の前へ出た。

白い手袋の指が、私の王子衣装の袖口へ触れる。ほつれを見つけたのか、彼女は無言で糸を内側へ押し込んだ。布が擦れ、指先が手首の近くをかすめる。

「ここ、出てた」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

「さっきから、礼を言うと怒りますね」

「怒ってない。今は、手を動かしていたいだけ」

灯里は糸を押し込み、袖口を整えた。

「……落ち着くから」

その声は、私にだけ聞かせるように小さかった。

「私も、襟を引くと落ち着きます」

「それは破れるからやめて」

「はい」

「返事が早い」

「今のは、怒られたくないので」

「正直ね」

灯里の指が、袖口から離れた。

目が合う。

一拍。

長いようで、短い沈黙だった。その一拍のあいだに、灯里の呼吸が私の呼吸を探し、私の呼吸が灯里のものへ近づいていく。

「台詞を忘れたら」

灯里が言った。

「はい」

「私を見る」

「はい」

「私も、あなたを見る」

「それなら、たぶん大丈夫です」

「大丈夫は禁止」

「では、たぶん立てます」

灯里の口元が、ほんの少しだけほどけた。

「それでいい」

舞台の奥で、音響担当が小さく合図を出した。赤い照明が床を這い、簡易階段セットの一段目を照らす。木の板は、稽古のときと同じように、踏まれるのを待っている。

柏木先輩が、私の足元を指した。

「一歩目」

私は靴底を見た。

足元の白い印。階段の影。紙吹雪の袋。赤い補助灯。床に残った、折れた紙片。

どれも、私がここへ来てから何度も見たものだった。

けれど今は、それぞれが別の意味を持っている。

足元を見ることは、逃げるためではない。次に立つ場所を確かめるためだ。

私は一度、指先をこすった。

冷たさは残っている。

制服の襟へ手を伸ばしかけて、今度はやめた。

「行きます」

声が、思ったより遠くまで届いた。

高瀬が袋を抱えたまま、親指を立てる。

柏木先輩は進行表を閉じる。

灯里は、私の一歩ぶんだけ先に立つ。

私は簡易階段の一段目へ足を置いた。

木が、ぎし、と鳴った。

その音は、失敗の知らせではなかった。

舞台のこちら側と向こう側を分けていた段差が、私の重さを受け止めた音だった。

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袖の静けさ - 舞台に立つ帰宅部 - 誰でも作家life