第6話 紙吹雪の下の冗談

高瀬が、紙吹雪の袋を取り落とした。
それは、ほんの少し腕の位置を変えただけのことだった。けれど袋の口は最初からきちんと閉じられていなかったらしく、床へ落ちた衝撃で、白い紙片がざらりと流れ出した。
「あ」
誰かの短い声がした。
紙片は舞台袖の赤い光を拾いながら、階段セットの下へ広がっていく。白いものが暗がりへ散ると、まるで小さな雪崩のあとみたいだった。袋の中にあるうちは終幕のきらめきなのに、床へ落ちれば、ただの切れ端になる。
高瀬はしゃがみかけた姿勢のまま固まった。
私も反射的に腰を落とした。床へ手を伸ばす。だが、その前に灯里が一枚をつまみ上げた。
「それ、まだ使う」
怒っているように聞こえた。
灯里は赤い光の下で紙片を裏返し、折れ目を確かめている。白い紙の端には、青い照明を受けた細い影が走っていた。彼女はその紙片を乱暴に袋へ戻さず、指の腹で折れ目を伸ばしてから、口の開いた袋の奥へそっと差し込んだ。
「まだ使えるの?」
私が聞くと、灯里は紙片から目を離さなかった。
「照明が当たれば、折れ目も光る。破れていなければ使える。……たぶん」
最後の二文字だけが、妙に小さかった。
高瀬が床に手をつき、散らばった紙片を拾い始める。
「大丈夫、大事故じゃない。紙くずは最後まで役に立つ」
「高瀬、袋の口を閉めてから運んで」
柏木先輩が言った。
「はい。ごもっともです。紙吹雪に口があるなら、最初に塞ぐべきでした」
「袋の口」
「そこを正確に訂正するあたり、部長は今日も冷静ですね」
高瀬は散った紙片を一枚ずつ拾いながら、肩をすくめた。軽口を言っているのに、指先は止まらない。紙片を拾い、皺を伸ばし、使えるものと汚れたものを分けていく。
私はその隣にしゃがんだ。
紙吹雪は思ったより軽かった。指先でつまむと、空調の風にあおられてすぐに逃げる。追いかけて手を伸ばすたび、床へ置かれたコードや階段の脚が視界へ入り、舞台袖がどれほど狭い場所なのかを思い知らされた。
「王子さまも回収作業?」
高瀬が言った。
「王子ではありません」
「じゃあ、王子見習い」
「それも違います」
「紙吹雪を拾ってる時点で、かなり王子に近いけど」
「王子は紙吹雪を拾うんですか」
「拾うよ。王子だって、散らかしたら片づける。民衆に嫌われたくないから」
「王子がそんな理由で政治をしていたら、国は長くないと思います」
私が答えると、高瀬の手が止まった。
それから、彼は吹き出した。
「今のはいい。台本に書いてないけど、いい」
「褒められるようなことでは」
「いや、かなり重要。さっきから台詞を言うときだけ、声が自分の中へ戻ってたから。今のは外へ出た」
「紙吹雪の話です」
「紙吹雪の話でも、声が出れば勝ち」
「勝ち負けなんですか」
「舞台袖の床は、だいたい勝ち負けでできてる。誰がコードを踏まなかったか。誰が小道具を落とさなかったか。誰が暗転中に壁へぶつからなかったか」
「最後のは高瀬が負けそうですね」
「今のところ一勝二敗」
高瀬はそう言って、わざと深刻そうに眉を寄せた。私は笑いそうになった。喉の奥にまだ台詞の残骸が引っかかっているのに、口元だけが先にほどける。
私が小さく息を漏らすと、高瀬はすぐに顔を上げた。
「はい、今の笑い、三点加算」
「何の点ですか」
「王子候補の人間味ポイント」
「候補ではありません」
「じゃあ、帰宅部の人間味ポイント」
「それは、普段からあります」
「そう? 教室で一人で弁当食べてるとき、かなり背景っぽいけど」
「背景にも人権はあります」
また高瀬が笑った。
その笑いは、私を笑いものにするものではなかった。失敗をなかったことにせず、そのまま床へ置いて、誰も踏まないように少し脇へ寄せるような笑いだった。
私の肩から、わずかに力が抜けた。
だが、灯里は笑わなかった。
彼女は拾い上げた紙片を、赤い光の下へかざしていた。折れた角に照明が当たると、白い紙は細い銀色を返す。綺麗だった。整っているからではなく、折れ目があるからこそ光が引っかかっているように見えた。
「終幕で使う分は分ける」
柏木先輩が言った。
いつの間にか、彼女は破れた袋を持ち上げていた。袋の口を一度折り、ガムテープを二重に巻く。紙の繊維が潰れる音がして、口がしっかり閉じた。
「灯里、こぼれたもののうち、折れた分は袖側。破れたものは処分」
「わかってます」
「高瀬、終幕用の袋を別にする。ラベルを書く」
「終幕用、こぼれたら終幕前に終わるところでしたね」
「書け」
「はい」
高瀬はポケットから小さなメモ帳を出した。表紙は何度も擦られて角が丸くなっている。彼はその裏に挟んでいたペンを取り出し、「終幕・触るな」と大きく書いた。
「雑です」
私が言うと、高瀬はペン先を止めた。
「読めればいいんだよ。字が綺麗だと、逆に大事なものっぽく見えて触りたくなるだろ」
「それは高瀬だけでは」
「人類だいたいそう」
柏木先輩が、ラベルを見た。
「『触るな』では足りない」
「では、『絶対に触るな』」
「扱う人間が読めばわかる。終幕用、と書け」
「そこは普通なんですね」
「普通に必要なことを書け」
「部長、普通の指示だけで舞台が回るなら、俺たちはこんな時間まで残ってないですよ」
高瀬の声が、ふと軽さを失った。
柏木先輩は何も言わなかった。高瀬も、それ以上は続けない。舞台袖の奥で、体育館のスピーカーが低く唸る。どこかの教室から、模擬店の呼び込み練習らしい声が聞こえた。
「いらっしゃいませー」
間の抜けた声が廊下へ流れ、誰かが笑う。
文化祭前夜の学校は、いたるところで失敗していた。看板の文字を間違え、テープが剥がれ、音響が遅れ、誰かが走って誰かがぶつかる。そのたびに、別の誰かが直している。完成したものだけが明日の校舎に並ぶのだろう。今ここにある散らかった紙片や、焦げた電球や、書き損じたラベルは、たぶん見えない場所へ押し込まれる。
私は床に残った紙吹雪を見つめた。
袋の中に戻れば、終幕の瞬間に空中へ舞い上がる。床に残れば、誰かの靴底に貼りついて、舞台袖を移動する。どちらも紙吹雪なのに、置かれた場所で役割が変わる。
「何見てるの?」
灯里が聞いた。
彼女は、私が拾った紙片を見ていた。赤い線の入った一枚だった。切るときに定規が少しずれたのか、端が斜めになっている。
「これ、折れてます」
「そうね」
「終幕用には入れないほうがいいですか」
「……どう思う?」
質問を返されると思っていなかった。
私は紙片を照明へかざした。折れ目が白い光を細く返し、赤い補助灯の下で銀色に変わる。
「使えると思います」
「理由は」
「折れているところのほうが、光が濃く出るので」
灯里は紙片を見た。
「でも、綺麗ではない」
「綺麗でないと、使えませんか」
「終幕は、綺麗に見せるための場面よ」
「だったら、折れていない紙だけにしたほうがいいです」
「そうね」
「でも、全部が折れていない紙だと、たぶん光が平らになります」
灯里が黙った。
私も、余計なことを言ったと思った。紙吹雪の扱いに、こんなに熱くなる必要はない。私は舞台のことを何も知らない。灯里のほうが、ずっと長くここにいる。台本の余白に何度も書き込みをし、立ち位置を覚え、衣装のボタンまで自分で直してきた。
それでも、紙片を捨てることには、少し抵抗があった。
「……あなた、紙吹雪の演出家になれば?」
高瀬が言った。
「なりません」
「じゃあ、紙吹雪担当王子」
「役職が細かすぎます」
「でも、今の話は悪くない」
高瀬の声は、先ほどより落ち着いていた。
「舞台って、折れてないものだけで作ると、たぶん嘘っぽくなるんだよ。看板も、衣装も、台詞も。全部が完璧なら、それは舞台じゃなくて展示会だ。舞台は人が動くから、どこかがずれる。ずれたところを、別の誰かが拾う。その拾った跡まで照明に出るから、客席から見たときに生きて見える」
「高瀬、急にまともなことを言うのやめて」
灯里が言った。
「失礼だな。俺はいつもまともだよ。まともな人間が王冠を葬式みたいな顔にするなと言っている」
「それはまともではない」
「王冠の気持ちを考えろ」
灯里は呆れたように息を吐いた。けれど、紙吹雪の袋を結ぶ手は、少しだけゆるんでいる。
彼女は私の手から紙片を取った。
「これは、終幕用にする」
「いいんですか」
「折れ目が見えるかどうかは、照明を当ててみないとわからない。けれど、捨てるほどではない」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「でも、私の判断を」
「紙吹雪の判断。あなたの判断を信じたわけじゃない」
「そこは信じてください」
言ったあと、空気が止まった。
灯里の目がこちらへ向く。強い視線だった。けれど、目が合ったまま一拍が過ぎると、その表情がわずかにほどけた。
「……努力する」
「灯里が?」
「あなたを信じることを」
その言葉は、軽く言ったようには聞こえなかった。
私は紙片を受け取る代わりに、灯里の指を見た。紙を扱っていたせいで、指先に細かな白い粉がついている。赤いペンの跡と混ざり、指の関節が淡く汚れていた。
「三好さんも、手が汚れています」
「紙吹雪を拾ったから」
「舞台に立つ人は、何も触らないほうがいいんじゃなかったんですか」
灯里は一瞬、目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「覚えてたの」
「言われたことは、わりと」
「都合の悪いことまで?」
「都合の悪いことほど」
「……嫌な記憶力」
灯里は自分の指先を見た。白い粉を親指でこすり落とそうとして、逆に赤い線を広げてしまう。
「私は、舞台に立つとき、手を汚さないようにしてた」
「紙吹雪を拾わないという意味ですか」
「そうじゃない。失敗のあとに、誰かが拾ってくれるのを待つこと。衣装が外れたら直してもらう。台詞を飛ばしたら相手に拾ってもらう。照明がずれたら部長に直してもらう。そういうことを、できるだけ避けてきた」
灯里は、破れた袋の口を見つめていた。
「拾われる側になると、自分が舞台にいないみたいに感じるの。誰かの手を借りた瞬間、自分の役が薄くなる気がして。だから、先に全部できるようになろうとした。相手の台詞を覚えて、相手の立ち位置まで覚えて、相手が間違えても笑って拾えるようにした」
「それで、疲れませんか」
「疲れる」
即答だった。
その素直さに、私は顔を上げた。
灯里はいつものように顎を上げていなかった。舞台上で相手役を導くときの姿勢ではなく、紙吹雪の袋を抱えたまま床にしゃがんでいる、一人の女の子の姿だった。
「でも、疲れたと言ったら、相手が困る。私に合わせればいいのか、休ませればいいのか、判断させることになる。そうやって誰かに選ばせるくらいなら、私が黙って立っていたほうがいい」
「それは、私と同じです」
言ってから、私は自分の声が思ったより近くに出たことに驚いた。
灯里がこちらを見る。
「どこが」
「迷惑をかけたくないから、何も言わないところ。できないと言う前に、いないほうがいいと思うところ」
「あなたは、いないほうがいいなんて思ってるの?」
「思っているというより、そうしたほうが安全だと」
「安全?」
「失敗しなければ、誰にも困られないので」
「それは安全じゃない」
灯里の声が少し強くなった。
「誰にも困られない代わりに、誰にも頼られない。誰にも怒られない代わりに、誰にも待ってもらえない。そんな場所に長くいると、自分が何をしたいのかも、何ができるのかもわからなくなる」
胸の奥を、細い針でなぞられたような気がした。
私は返事をしなかった。
灯里も、すぐには続けなかった。舞台袖の赤い補助灯が、彼女の横顔を薄く照らしている。白い手袋をはめていない手が、膝の上で握られた。
「……私も、そうなりかけた」
灯里が言った。
「舞台で失敗しないために、失敗しそうな自分を全部隠していたら、役の中に何も残らなくなった。声は出る。立ち位置も合ってる。台詞も間違えない。でも、客席から見れば、きっと空っぽだった。終わったあと、相手役の子に言われた。『灯里は、私を見てくれなかった』って」
「見ていたのに?」
「見ていた。見て、次に間違えないことばかり考えていた。相手を見ることと、相手の失敗を探すことは違うのに」
灯里はそこで、私の目を見た。
「あなたは、見てる。床も、照明も、袋も、人の指も。見すぎて、自分だけ見ていない」
「自分を見ても、あまり面白くないので」
「面白いかどうかで決めないで」
「では、何で」
「そこにいるかどうかで決める」
言葉が、階段の一段目へ置かれた足のように残った。
高瀬が、少し離れた場所で袋の口へラベルを貼っていた。私たちの会話を聞いているはずなのに、振り返らない。ガムテープを指で切り、端を折り返している。
「高瀬」
灯里が呼んだ。
「何?」
「聞いてた?」
「聞いてない。紙吹雪と会話してた」
「紙吹雪は何て?」
「『俺を主役にしろ』って」
「袋が?」
「袋にも夢はある」
高瀬はそう言って、ラベルを袋へ貼りつけた。
『終幕用』
文字はさっきより整っていた。だが、最後の一画だけ少し跳ねている。
「高瀬、字が震えてる」
私が言うと、高瀬はペンを持ったままこちらを見た。
「紙吹雪が重くてね」
「紙袋しか持っていないのに」
「舞台裏の重さは、だいたい袋に入ってるんだよ」
「それ、今の灯里さんみたいな話ですか」
私が言うと、高瀬は片眉を上げた。
「灯里、聞いた? 俺たち、知らないうちに演劇っぽい会話してる」
「あなたが始めたんでしょ」
「違う。俺は紙吹雪の将来について話してただけ」
「紙吹雪に将来があるなら、明日の終幕でちゃんと散って」
柏木先輩が言った。
三人とも黙った。
柏木先輩は袋をひとつ持ち上げ、破れた口を確かめる。彼女の手は、何かが起きたあとに必ず動いている。こぼれた紙を拾い、袋を分け、ラベルを貼り、次に同じことが起きないよう配置を変える。
「散ったものを、散ったままにするな」
柏木先輩は紙吹雪の袋を私たちの前へ置いた。
「失敗したら拾う。拾ったら分ける。使えるなら使う。使えないなら捨てる。舞台はそれだけだ」
「それだけ、ですか」
私が聞いた。
「それだけで、十分難しい」
柏木先輩は袋の口を閉じ直しながら続けた。
「失敗をなかったことにしようとすると、次の失敗が見えなくなる。誰が落としたかを責めるのも同じだ。責めている間、袋は開いたままになる。必要なのは、落ちたものを見て、次にどう置くか決めること」
高瀬がラベルを指で押さえた。
「部長、今の長い。明日から格言カレンダーに載せよう」
「覚えなくていい」
「覚えちゃったらどうする?」
「使え」
柏木先輩の声には、いつもの低い硬さがあった。けれど、紙吹雪の袋を置く位置は、さっきより少しだけ私たちの近くになっていた。舞台袖の端へ追いやらず、手の届く場所へ置いた。
灯里が立ち上がる。
「じゃあ、もう一回やる」
「紙吹雪を?」
「稽古を」
「今の話のあとに、すぐ戻れるんですか」
「戻るの。舞台は待ってくれないから」
「でも、気持ちが」
「気持ちは後からついてくる」
灯里は階段セットの一段目へ向かった。途中で床に残っていた紙片を見つけ、足を止める。拾い上げたその紙片は、赤い線が入ったものだった。
彼女は私へ差し出した。
「落とすなよ」
「努力します」
反射的に答えると、高瀬が吹き出した。
「今の返事、三点じゃなくて五点」
「点数を上げる理由がわかりません」
「紙吹雪を持ったまま、ちゃんと舞台へ戻る返事だったから」
「それは王子としてですか」
「いや、帰宅部として」
灯里が高瀬を睨む。
「高瀬、そうやってすぐ茶化す」
「茶化してない。区別してるだけ」
「何を」
「王子と、君自身を」
その言葉に、灯里の表情が止まった。
高瀬は、いつものように笑っていた。けれど目だけは笑っていなかった。
「役をやるって、自分を消すことじゃないだろ。王子の台詞を言うときも、声を出すのは本人だ。灯里が相手を見るときも、灯里の目で見る。だから、失敗したときに役のせいにする必要はないし、うまくいったときに役へ全部持っていかれる必要もない」
「……高瀬にしては、まとも」
「さっきからそれ、俺を何だと思ってるの?」
「紙吹雪を落とす人」
「そこは否定できない」
灯里の口元がわずかに上がった。
私は渡された紙片を、落とさないように指で挟んだ。折れ目のところに白い粉がついている。手のひらが汗ばんでいたせいか、紙は少しだけ柔らかくなった。
柏木先輩が、赤い補助灯を確認する。
「位置」
灯里が階段の上へ立つ。
私は床の赤線の前に立った。さっきまでなら、目印を踏むだけで身体が固まった。今も怖い。だが、床に散った紙片を拾った指の感触が残っている。紙の軽さと、袋の重さ。その両方が手の中にあった。
灯里が息を吸う。
私はその呼吸を聞いた。
彼女の肩がわずかに上がり、喉元が動く。強く見せるための姿勢を整える前に、灯里は私を見た。
「今度は、待つから」
「私も、止まらないようにします」
「止まってもいい」
「え?」
「止まったら、そこから続ける。止まらないことより、消えないこと」
灯里の言葉が、暗い舞台袖へまっすぐ伸びた。
柏木先輩が指を下ろす。
照明が赤から青へ切り替わった。少しだけ遅れたが、今度は誰も慌てなかった。高瀬が袋のラベルを押さえ、柏木先輩がスイッチを戻し、灯里が一拍ぶんの間を待つ。
私は、紙吹雪の一枚を手にしたまま、声を出した。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
灯里が返す。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
喉の奥が乾いた。言葉はまだ、完全には滑らかにならない。けれど私は床を見たあと、灯里を見た。彼女は逃げずにこちらを待っている。
私は紙片を握りしめる。
「見えるなら、見ればいい」
声が出た。
「折れていても、光るものはある」
台本にはない言葉だった。
高瀬が、袋を抱えたまま目を見開く。柏木先輩のペンが止まる。灯里は一瞬、何も言わなかった。
けれど、その沈黙のあとで、彼女は私の呼吸に合わせるように息を吸った。
「なら、落ちたままではいないで」
灯里の台詞も、台本にはなかった。
「拾われるのを待つだけではなく、自分で立って」
私は、彼女の目を見た。
「立てないときは?」
「そのときは、私が待つ」
「ずっと?」
灯里の指が、袖口で止まった。
「……あなたが、次を言うまで」
その声は、舞台用に整えられていなかった。
だから、よく届いた。
高瀬が小さく笑い、柏木先輩は進行表へ赤い線を一本引いた。誰も「よかった」とは言わなかった。誰も、私を褒めて持ち上げなかった。
ただ、床に落ちた紙吹雪の一枚が、赤と青の光の境目で細く輝いていた。
私はそれを、終幕用の袋へ戻した。
袋の中には、折れていない紙片も、少し皺のついた紙片もあった。どれも同じように白く、光を待っている。
舞台袖の床にしゃがみこんでいた私の膝には、紙の粉がついていた。制服の襟元には、まだ指の跡が残っている。手先の冷たさも、喉の乾きも消えていない。
それでも、私はもう、その場から消えようとはしなかった。
高瀬がラベルを指で叩く。
「これで終幕の紙吹雪、準備完了。袋の口よし、折れ目よし、王子の人間味よし」
「最後の項目は確認できない」
私が言うと、高瀬は笑った。
灯里も、今度は睨まなかった。
柏木先輩が舞台の奥を見た。
「次。最初から」
私は一段目の前へ戻る。
木の階段が、私を待っている。
その上で、灯里が息を吸った。私はその呼吸を聞き、紙吹雪の袋がこすれる音を背中に感じながら、足を上げた。
折れた紙片も、落ちた台詞も、まだ全部は片づいていない。
けれど、拾えるものは拾える。
そして、拾ったものを手にしたままでも、私は立てる。
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