第5話 言い淀みの稽古

「続き、言います」
そう言ったものの、次の台詞は喉の手前でつかえた。
台本には書いてある。目で追えば、文字はすぐに見つかる。けれど、灯里の目を見たまま声にしようとすると、文字が急に薄くなる。ページの上では隣り合っていた言葉が、口の中でばらばらにほどけていく。
私は一度、息を吸った。
「王子は……月が……」
「違う」
灯里の声が飛んできた。
「今のは台詞を探してる声。ユウは台詞を探しているんじゃなくて、隠しているの」
「隠すって、何をですか」
「真実を。自分が怖いことを。だから、そんなふうに文字を拾いながら言わないで」
「そんなことを言われても」
「言われても、やるの。舞台の上で『できません』は台詞にならない」
私は台本の端を握った。紙が指の腹へ食い込む。灯里は一段上に立ち、顎を上げて私を見下ろしている。堂々としている。声も姿勢も、立っているだけで舞台の中心を決めてしまうようだった。
その一方で、彼女の右手は袖口を何度も撫でている。
「三好さんは、どうやって隠してるんですか」
「何を」
「怖いこと」
聞き返したあと、灯里の指が止まった。
「……質問が違う」
「そうですか」
「私は怖くない」
「では、袖口を五回も直す必要はないと思います」
灯里の顔から、わずかに色が消えた。
しまった、とすぐに思った。私は人の変化には気づくくせに、気づいたことを口にしたあとどうなるかまでは考えない。黙っていれば、誰も傷つかない。そう思って生きてきたのに、舞台の上では黙ることさえ失敗になる。
「……よく見てるのね」
「見てしまうだけです」
「便利な言い方」
灯里は袖口から手を離した。離した指先が、行き場をなくしたように宙でわずかに揺れる。
「じゃあ、見てなさい。私は怖くない。怖くないから、あなたが遅れたら困る。あなたが台詞を探しているあいだ、私は次の台詞を待たなきゃいけない。待つのはいい。でも、あなたが自分で止まっているのか、台詞が止めているのか、それがわからないと拾えない」
「自分で止まっているわけではありません」
「同じよ」
「違います。止まりたくて止まっているんじゃない。声が出る前に、失敗するほうが先に見えるんです」
言葉が出たあと、舞台袖の空気が一枚、薄くなった気がした。
私は台本から顔を上げた。灯里は黙っている。高瀬は、両手で抱えていた古い王冠の小道具を机へ置いた。普段なら何か言うところなのに、今は口を挟まなかった。
柏木先輩が、舞台脇の照明卓からこちらを見た。
「続けろ」
「でも」
「今の説明を、台詞にする」
「説明を?」
「失敗する前に、失敗を考えている。それを隠すな。ユウも同じだ」
柏木先輩は台本を開いたまま、淡々と続けた。
「役者が上手く見えるのは、何も怖がっていないからではない。怖がっているものを、客席から見える場所に置いているからだ。隠すなら、隠している動きを見せろ。黙るなら、黙った時間に何があるかを持たせろ。台詞だけを正しく言えば舞台になると思うな。舞台は、言えなかったものまで客席へ運ぶ」
長い話をする柏木先輩を、私は初めて見た。
声は低いままだった。怒鳴ってはいない。けれど、短い指示だけで人を動かしてきた人が、ここまで言葉を重ねるのは、私たちに言い訳を許すためではなく、立つ場所を示すためなのだと思った。
「声が出ないなら、出ないまま立て。足が震えるなら、震える足で印を踏め。完璧にできるまで待つな。待っている時間は、舞台の外にしかない」
灯里が柏木先輩を見た。
「部長。それ、私にも言ってます?」
「全員に言っている」
「私は止まってません」
「止まっている」
灯里の顎が上がる。
「どこが」
「相手が遅れた瞬間、お前の呼吸が浅くなる。声が前へ出る。相手を待つ前に、次の台詞へ逃げている」
灯里は言い返そうとした。けれど、口を開いたまま、声を出さなかった。
その沈黙は、私が台詞を忘れたときのものとよく似ていた。
高瀬が、机の上の王冠を持ち上げる。金色の紙が照明を受け、まぶしく反射した。
「王子って、もっと余裕ある顔しない?」
唐突な声に、灯里が振り返る。
「高瀬、今それを言う必要ある?」
「ある。必要性は今から作る」
「作らなくていい」
「いやいや、王子がそんなに眉間へ皺を寄せてたら、王冠が心配するだろ。せっかく金色なのに、持ち主が葬式みたいな顔してる」
私は反応しようとした。けれど、笑うより先に喉が動いた。灯里の口元が一瞬だけ緩む。緊張していた肩も、ほんの少し落ちた。
「王冠に持ち主の顔色はわかりません」
私が言うと、高瀬は大げさに目を見開いた。
「お、王子が反論した。しかも王冠に。器が大きいのか小さいのか、まだ測定中」
「台詞ではありません」
「でも、今のほうが声は生きてる」
「……それは」
「それは、じゃなくてさ」
高瀬の声が少し低くなった。
「台詞を言おうとすると、急に自分を消すんだよ。たぶん、上手く見せようとしてるから。上手く見せるって、変な話だけど。声を小さくして、間違いを隠して、目立たないようにして。それで王子をやろうとすると、王子まで帰宅部になる」
「帰宅部の王子って、存在しますか」
「いるだろ。城から毎日まっすぐ帰る王子」
灯里が吹き出した。
短い笑いだった。けれど、その音を聞いた瞬間、肩に入っていた力が少し抜けた。笑われたのではなく、笑いの中へ置いてもらったような感じがした。
高瀬はそれ以上ふざけなかった。王冠を机へ戻し、代わりに床の紙吹雪の袋を端へ寄せる。
「笑われるのが嫌なら、笑われる前に自分で変なことを言えばいい。そうすれば、少なくとも一回目は自分で選べる」
「そんな器用なこと、できません」
「できないから、今みたいに言えばいい。できないって言う声のほうが、王子らしいときもある」
「高瀬、それは励ましてるの?」
「半分。残り半分は、王子の演技指導」
「演劇部でもないのに」
「裏方は、演技指導料を請求しないんだよ」
その軽口が、今度は胸に刺さらなかった。私は台本を閉じた。閉じても、次の台詞は消えない。紙の上にある言葉を追うのではなく、灯里の呼吸が変わる瞬間を見ようと思った。
柏木先輩が照明を落とした。
赤い光が舞台の床へ広がり、青い光が階段の上だけを細く縁取る。さっきより暗い。暗いのに、足元の白いテープだけが妙に明るく見えた。
「最初から」
灯里が立ち位置へ戻る。
私は一段下に立つ。階段の木が、足の重さを返してくる。舞台袖から出るための歩幅を意識し、右足を半歩引いた。
「近い」
「すみません」
「謝らない。半歩下がる」
私は下がった。紙吹雪の袋が踵に触れ、かさりと音を立てる。
「袋を蹴らない」
「はい」
「返事が小さい」
「はい」
「今のは大きすぎる」
「……難しいです」
灯里の目が、初めて真正面から私を捉えた。
「そうね。難しい。だから、できないことを一度に全部やろうとしないで。立つ。見る。聞く。返す。あなたは四つをいっぺんにやろうとして、全部の前で止まってる」
「三好さんは、できますか」
「できるように見せてる」
「またそれですか」
「またそれよ。私は、できないことをできるように見せるのが得意なの。だから、あなたができないまま立っていると、腹が立つ。できないまま立つほうが、私には難しいから」
灯里はそこで、目を逸らした。
「……それに、あなたが止まると、私も怖くなる」
「私が?」
「そう。相手が何も返してこないと、自分だけが舞台に置き去りにされたみたいになる。だから、あなたが台詞を忘れたら、せめて私を見て。忘れた顔でもいい。怖い顔でもいい。何もない顔だけはやめて」
「何もない顔をしているつもりは」
「つもりの話をしていない」
灯里が一歩近づいた。
「あなたは、消えようとする。目を伏せて、声を細くして、失敗したことが誰にも見えないようにする。でも舞台では、消えることも目立つの。そこにいるのに、いないふりをするから」
その言葉が、床の赤い光より深く残った。
消えようとする。
私はずっと、それを安全だと思っていた。目立たなければ、失敗しても見つからない。見つからなければ、誰かを困らせずに済む。誰かの輪へ入れなくても、輪の外には外の空気がある。そうやって、私は自分の輪郭を薄くしてきた。
けれど、舞台の上では、薄くなった輪郭も光に拾われる。
私は制服の襟へ伸びかけた手を止めた。
「……見ます」
「何を」
「三好さんを」
灯里の目が揺れた。
「それだけ?」
「台詞を忘れても、見ます。何もない顔にならないように」
「約束?」
「約束にすると、できなかったときに困るので」
「そういうところ、ずるい」
灯里は言ったが、声は怒っていなかった。
「じゃあ、努力目標」
「それなら」
「あなた、変なところだけ現実的ね」
「帰宅部なので」
「関係ある?」
「たぶん、あります」
また灯里の口元が緩んだ。今度は私も、先に少し笑った。
柏木先輩が、照明卓の横で指を一本立てた。
「始める」
赤い光が一段落ち、青が階段の上へ移る。私は床の印を見た。次に灯里の肩を見る。彼女が息を吸う。喉元が一度動く。
「月が欠けた夜は――」
そこで言葉が止まった。
喉の奥が閉じる。台詞の続きが出てこない。頭の中に、失敗する瞬間の自分が浮かんだ。灯里の顔が固まり、柏木先輩の声が飛び、高瀬が冗談を探し、誰かがため息をつく。まだ起きていないことが、起きたように身体を固くする。
灯里は急かさなかった。
けれど、今回は私がその沈黙に耐えられなかった。
「……嘘が」
声がかすれる。
灯里の目を見る。そこに苛立ちはあった。だが、逃げろという色ではなかった。待っている。私が次を出すまで、彼女もここにいる。
「嘘が、欠ける」
「続けて」
「王子の……」
「違う。今のは台詞を探してる」
「でも、台詞が」
「台詞じゃなくて、あなたが言う」
その瞬間、灯里の呼吸がわずかに乱れた。顎が上がり、視線が鋭くなる。強く見せるときの顔だった。けれど、私はもう、その顔の下で彼女が怖がっていることを知っている。
私は一度、息を吸った。
「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」
今度は、台本の文字ではなく、さっきから何度も踏んだ床の上へ声を置いた。
灯里が続ける。
「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」
声の硬さが、ほんの少しだけほどけていた。
私は次の台詞を待った。頭の中で探さない。灯里の目を見る。彼女の息が一度深くなる。私はそこへ自分の呼吸を重ねた。
「見えるなら、見ればいい」
言葉が出た。
「見られる覚悟くらい、王子にはある」
言い終わると、赤い光の中に沈黙が落ちた。
高瀬が、紙吹雪の袋を抱えたまま小さく頷いた。
柏木先輩は照明を戻し、進行表へ何かを書き込んだ。
灯里だけが、すぐには動かなかった。私の目を見たまま、唇をわずかに開いている。やがて、彼女は短く息を吐いた。
「今のは、よかった」
褒められた。
胸の奥に熱が生まれる。けれど、それは大きな火ではなかった。消えないように両手で覆う、小さな熱だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「でも」
「次もできるとは限らないから」
「急に現実的ですね」
「あなたに言われたくない」
灯里はそう言って、視線を外した。耳のあたりが、赤い補助灯のせいだけではない色を帯びているように見えた。
そのとき、体育館の照明が一度、ぶつ、と落ちた。
赤も青も消え、舞台袖が真っ暗になる。
「照明、落ちた」
誰かが奥で叫んだ。
暗闇の中で、紙吹雪の袋が倒れた。白い紙片が床へざらりと流れ、階段の脚がぎし、と軋む。
私の喉が閉じる。
照明が突然落ちる瞬間だけは、どうしても苦手だった。何も見えなくなると、次にどこへ足を置けばいいのかわからない。さっきまで立っていた場所が、急に他人の場所になる。
「動くな」
柏木先輩の声が飛んだ。
「高瀬、ブレーカー。灯里、そこから離れるな。私を見る」
暗闇の中で、私は灯里の姿を探した。輪郭すら見えない。けれど、すぐ近くで彼女が息を吸う音がした。
「ここ」
灯里の声が、低く届く。
「足元、動かさないで。私の声を聞いて」
「見えません」
「見なくていい。今は聞いて」
「でも、照明が」
「照明が消えたからって、あなたまで消えないで」
その言葉が、暗闇の中でまっすぐに届いた。
遠くで高瀬が何かを蹴飛ばし、「痛っ」と声を上げる。次いで、ブレーカーの蓋が開く音がした。柏木先輩が短く指示を出す。誰かが返事をする。暗い舞台袖は、見えないまま動き続けている。
私は襟元へ手を伸ばした。指が布をつかむ。けれど、引く前にやめた。
「灯里さん」
「何」
「そこに、いますか」
「いる」
「ずっと?」
「あなたが次を言うまで」
心臓が一度、大きく鳴った。
暗闇の中で、私は台詞を思い出した。月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける。嘘が欠ければ、真実が見える。
何も見えないのに、灯里の声だけは見えた。強く見せるために整えられた声。その奥で、私の返事を待っている声。
「……私は、消えません」
言ってから、自分でも驚いた。
台詞ではなかった。けれど、灯里はすぐに返した。
「なら、次を言って」
「はい」
「返事だけは王子らしい」
「そこは褒めてください」
「調子に乗らない」
闇の中で、灯里が笑った気配がした。
次の瞬間、青い照明がひとつだけ戻った。階段の上に立つ灯里の姿が浮かび、白い手袋の指がわずかに震えているのが見えた。彼女もまた、私を見つけたように目を細める。
赤い光が遅れて戻る。床に散った紙吹雪が、ばらばらの星のように照らされた。
柏木先輩が進行表へ目を落とす。
「復旧。最初から」
高瀬が倒れた袋を拾い上げる。口が破れ、白い紙片がまだこぼれていた。
「王子、今の暗転で逃げなかったから、経験値かなり入ったぞ」
「経験値で台詞は覚えられますか」
「たぶん、紙吹雪を食べれば」
「食べない」
「じゃあ地道にやるしかないな」
私は床に散った紙吹雪を拾った。皺のついた一枚を、掌の中で伸ばす。折れ目は消えなかった。それでも、青い光を受けると、紙は細く光った。
灯里が隣へしゃがみこむ。
「それ、終幕で使う分じゃない」
「わかっています」
「なら、こっち」
灯里は破れていない紙片を選び、私の手から受け取った。指先が触れる。ほんの一瞬だったのに、舞台袖の熱がそこへ集まったように感じた。
「あなたは、台詞を忘れると床を見る」
「見ないと、足の置き場所がわからないので」
「じゃあ、床を見たあと、私を見る」
「順番が多いです」
「舞台は順番でできてる」
「三好さんは、私が遅くても待てますか」
灯里は紙吹雪を袋へ戻しながら、少しだけ考えた。
「待つ。待てるようにする」
「言い切らないんですね」
「私だって、いつでもできるわけじゃないから」
彼女はそこで顔を上げた。
「でも、あなたが止まったとき、私まで先へ行ったら、本当にひとりになる。ひとりにしないくらいは、できる」
その言葉は、告白ではなかった。けれど、台詞の間に置かれた沈黙よりも、ずっと近くに残った。
柏木先輩が、階段の一段目を指す。
「位置へ」
私は立ち上がった。足元の紙吹雪を避け、赤い線の上へ戻る。さっきまでなら、そこに立つだけで身体が固まった。今はまだ怖い。喉も乾いている。手先も冷たい。
それでも、私は灯里の呼吸を待った。
灯里が一度、深く息を吸う。
私はその息を聞き、同じ速さで息を吸った。
「月が欠けた夜は――」
今度は、言葉が途中でほどけなかった。
舞台袖の暗がりへ、声がまっすぐ伸びていく。照明の赤が床を走り、青が階段の角を拾う。紙吹雪の袋がかさりと鳴る。高瀬が何かを運ぶ足音がする。柏木先輩のペンが進行表の上を走る。
その全部が、私の台詞を待っているのではなく、私の台詞と一緒に動いていた。
言い淀みは、消えなかった。
けれど、止まらずに続けることはできた。
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