4話 袖口に残る熱

扉の向こうへ一歩踏み込んだだけで、さっきまでの廊下の空気が遠くなる。

旧校舎の舞台袖は、体育館という広い箱の内側にもうひとつ小さな箱を作ったような場所だった。焦げた電球の甘い焦げ臭さが鼻の奥に残り、その下に、汗を吸い込んだ王子衣装の裏地の匂いが沈んでいる。紙吹雪の袋からこぼれた紙片が、白い蛍光灯の光の中で細かな粉のように舞っていた。全部が混ざり合って、ひとつの空気になっている。稽古を一度中断して、また戻ってきたはずなのに、匂いはさっきよりも濃くなっていた。人が動けば動くほど、この場所は自分の匂いを濃くしていくらしい。

「お、休憩終わり?」

高瀬悠真が、脱げかけたマントの留め具に指をかけながら言った。器用な手つきで金具の向きを直し、留め、もう一度確かめる。私はその手の動きを黒い糸のようにじっと見ていた。誰かの手が自分の身体に触れることに、まだ慣れていない。

「王子さま、まだ逃げられるなら今だぞ」

高瀬は片眉を上げ、いつもの軽さでそう言った。だが、こちらの顔色を一度確かめたあとの声は、ほんの少しだけ低かった。からかっているようでいて、本当に逃げ道を作っているのかもしれない。私は返事の前に一拍だけ息を吸った。

「……逃げません」

言ってしまったあとで、自分の声の頼りなさに気づく。逃げたい気持ちは、まだ胸の底にちゃんとある。冷たい指先も、乾いた喉も、消えてはいない。けれど、逃げませんと口にした瞬間、その言葉のほうが先に足を止めてくれた気がした。言葉を出すことで、自分がここに残れる理由をひとつ作った。そんな感覚だった。

「へえ」

高瀬は意外そうに言ったが、それ以上は突っ込まなかった。代わりに紙吹雪の袋を抱え直し、床の端へ寄せる。踏まれない場所を選ぶ手つきが、迷いなく速かった。

三好灯里は、すでに簡易階段セットの一段目に足をかけて、そこから私を見下ろしていた。背筋はまっすぐで、白い手袋のない手が身体の横で静かに握られている。だが袖口をいじる指先だけが、忙しく動いていた。整えているのか、確かめているのか。何度も同じ場所を撫でる指が、彼女の言葉よりも先に、何かを語っているように見えた。

「まず、そこ」

灯里は顎をわずかに上げ、床の一点を示した。私は台本を抱えたまま、示された場所へ向かう。紙の上に引かれた細い赤線が、そこに立つべき位置を教えていた。線は真っ直ぐで、迷いのない太さだった。誰かが定規を当てて引いた線ではなく、何度も同じ場所に足を置いて、目で覚えた線に見えた。

私はその線の上に足を置く。木の階段がぎし、と鳴った。乾いた音だった。踏んだ場所の重さが、そのまま足の裏から伝わってくる。灯里の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。私の足元を見て、それからすぐに視線を上げる。

「遅い」

短い言葉だった。責めるための声というより、何かを堪えている声に近かった。だが、私にはその区別がまだつかなかった。台詞を待たれることと、動作を待たれること。どちらも「遅い」という同じ言葉で切られてしまうと、自分のどこが遅いのかを探す前に、身体のほうが先に固まってしまう。

「……すみません」

「謝らなくていい。時間を数えてるだけ」

灯里はそう言って、視線を舞台の奥へ流した。何かを飲み込むときの癖なのか、喉のあたりがわずかに動く。私はその動きを見て、彼女がいま何かを我慢しているのだとわかった。何を我慢しているのかは、まだわからない。

柏木先輩が、赤い補助灯の角度を確かめながらこちらへ来た。手には照明のスイッチボックスと、赤いペンの入った進行表がある。先輩は私の顔を一度だけ見て、それから短く言った。

「声は出る。動け」

それだけだった。説明がないぶん、言葉の重さがそのまま残る。声は出る、というのは、さっきの稽古で確かめたことだ。だが動け、という言葉には、まだ応えられていない。声を出すことと、身体を運ぶこと。ふたつは別の技術で、私にはそれがまだひとつの動作としてつながらなかった。

私は台本を開いた。折り目だらけの付箋の位置を目で探る。ページの端に、赤い線で引かれたユウの台詞が並んでいた。喉の奥に、乾いた感覚が残っている。唾を飲み込むと、それがやけに大きな音に聞こえた。

「王子は、嘘をつく。だが、その嘘は誰のためでもない」

声を出した瞬間、自分の耳に自分の声が跳ね返ってくる感覚があった。いつもの教室で答える声よりも、少しだけ広く伸びている。焦げた電球の金属の縁に当たり、階段の下へ落ち、体育館の暗がりの奥へ薄く溶けていく。高瀬が紙吹雪の袋を抱えたまま、何かを見つけたように目を細めた。

灯里は、次の台詞を言わなかった。

待っている。

その一拍が、思ったより長い。舞台袖の空気が、その長さの分だけ止まっているように感じられた。待たれることに慣れていない私には、この静かな間が、急かされることよりも重かった。急かされれば、失敗した理由をすぐに探せる。だが待たれると、その一拍の中に何かを差し出さなければならない気がしてくる。差し出せるものが、自分にあるのかどうかもわからないのに。

私は襟元を引いた。布が首筋を擦る。誰かに見られている感覚が、皮膚の表面をなぞるように残る。痛いような、けれど完全には嫌ではないような、名前のつけにくい感覚だった。灯里の視線は鋭いのに、追い込んでくるだけの視線ではなかった。値踏みというよりも、何かを見届けようとする目に近かった。

「……続き、まだですか」

私が聞くと、灯里はわずかに眉を寄せた。

「まだ、待ってる」

「私が言うのを、ですか」

「そう」

短い返事だった。けれど、その短さの奥に、何かを飲み込んだ跡が見えた。私はもう一度、台本のページに視線を落とす。次の行を探す指が、少しだけ震えていた。母のメッセージが届いたときの、あの短い文面の重さと似ている気がした。待たれること、応えを求められること。どちらも、自分が誰かの必要の中に置かれている証拠だった。

高瀬が紙吹雪の袋を静かに床へ置く音がした。柏木先輩は照明のスイッチに手をかけたまま、動かない。誰も急かさない。誰も助けない。ただ、私が次の言葉を見つけるまでの時間を、その場所全体で持っていた。

私はまだ、断る言葉を口にしていなかった。

それに気づいた瞬間、自分でも驚いた。逃げたい気持ちは消えていない。台詞はまだ半分も覚えられていない。灯里の「遅い」という声は、思ったよりも胸に刺さっている。それでも、私は台本を閉じることも、階段を降りることもしなかった。

舞台袖の熱が、王子衣装の袖口にじんわりと残っている。前の主役が着ていた布の重さが、まだそこにある。私はその熱を借りたまま、もう一度、灯里の目を見た。

「続き、言います」

声はまだ少し震えていた。それでも、止まらずに前へ出た。

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