3話 袖の布と、重い台本

舞台袖へ入った途端、空気が一段狭くなった。

赤い補助灯と青い作業灯が、床に置かれた道具の輪郭だけを拾っている。焦げた電球は黒ずんだ口金をこちらへ向け、脱げかけた王子衣装はハンガーに引っかかったまま、片方の袖を床へ垂らしていた。汗と埃と、紙を切ったあとの乾いた匂いが混ざっている。体育館の客席側からは、誰かが音響を確認する低い声が聞こえ、返ってきた反響が天井の高い空間を何度も撫でていた。

私は入口で立ち止まった。

後ろから柏木先輩が入ってくる。扉が閉まると、廊下のざわめきが薄い板一枚の向こうへ押し戻された。逃げ道がなくなったというより、逃げ道の形が見えなくなった。

「そこ、避けて」

柏木先輩が私の足元を指した。

見ると、床に細い黒いケーブルが這っている。私は慌てて一歩下がった。その踵が紙吹雪の袋に当たり、袋の中で紙片がざら、と鳴った。

「すみません」

「謝る前に見る」

「……はい」

「見るだけでは足りない。次に踏まない」

言われて、私は床を見回した。簡易階段セットの脚、照明のコード、畳まれた幕、紙吹雪の袋。舞台袖は物が多いというより、すべての物が誰かの動きを待っているようだった。どれかひとつを間違えれば、別の誰かの足が止まる。

柏木先輩は私の横を通り過ぎ、壁際に積まれた箱をひとつ持ち上げた。中から蛍光テープと、折れた鉛筆と、赤いペンで書き込まれた紙が何枚も出てくる。先輩は迷わず必要なものだけを抜き取り、箱の蓋を閉じた。

「高瀬」

「はいはい、呼ばれると思ってました」

返事と同時に、舞台の奥から高瀬悠真が現れた。両腕に紙吹雪の袋を抱えている。袋のひとつは口がきちんと閉じられておらず、歩くたびに白い紙片がこぼれた。

「持ち方が悪い」

「紙吹雪に持ち方の指導が入るとは、さすが演劇部。紙片にも役者魂を求める」

「落ちている」

「見ればわかる。白いから」

高瀬はそう言いながら、袋を床へ置いた。置いた勢いで、さらに数枚が足元へ散った。

「……増えた」

「減るよりいいだろ」

「何が?」

私が聞くと、高瀬は片眉を上げた。

「紙吹雪。人生、減るものばかりだからさ。増えたってことで喜ぼう」

「拾って」

柏木先輩の声が飛ぶ。

「はい、人生の残骸を回収します」

高瀬はしゃがみこみ、散った紙片を拾い始めた。冗談を言いながらも、手は早かった。紙片を一枚ずつ拾い、皺を伸ばし、袋の中へ戻していく。私はその隣にしゃがんだ。何もしないで立っているほうが、かえって居心地が悪かった。

「王子さまも回収作業?」

「王子ではないです」

「まだ言うか」

「王子になるとは決まっていないので」

「決まってない人に部長が台本を持たせるかな」

高瀬は拾った紙片を私の掌へ一枚置いた。薄い白紙が、指の熱でわずかに曲がる。

「ほら。まずは小道具から参加」

「参加した覚えは……」

「今、紙吹雪を持った。立派な参加だよ。演劇部は参加の敷居が低い。床に座れば、だいたい仲間」

「その理屈なら、体育館の床は全員演劇部です」

私が言うと、高瀬は一瞬黙り、それから吹き出した。

「今のはいい。台本に書いてないけど、いい」

笑い声が狭い袖に転がる。胸の奥に張りついていたものが、ほんの少しだけずれた。笑われることは苦手だった。けれど、高瀬に笑われると、笑いの中へ自分が落ちていくというより、固まっていた空気が先に崩れていく感じがした。

そのとき、目の前に白い手が伸びた。

三好灯里だった。

彼女は私の掌から紙吹雪を取ると、破れかけた袋の中へ戻した。白い手袋はまだ身につけていない。指先には赤いペンの跡が残っている。

「紙は、折れたら光り方が変わる」

「……光り方?」

私が聞き返すと、灯里は袋の口を結びながら答えた。

「照明が当たったとき、折れ目が濃く出る。客席から見れば、ただの紙くずでも、舞台の上では目立つ。だから、終幕に使う分は折らないで」

「すみません」

「あなたが折ったわけじゃないでしょ」

「でも、触ったので」

「触ったら全部あなたの責任になるの? それなら舞台に立つ人間は、何も触らないほうがいい。衣装も、小道具も、相手も」

言葉が思ったより鋭く、私は黙った。

灯里は自分でも言い過ぎたと思ったのか、紙吹雪の袋へ視線を落とした。袖口を整える指が、また細かく動く。

「……ごめん。今のは」

「いえ」

「謝らなくていい。あなたに言ったというより、私が勝手に焦ってるだけだから」

「焦っているようには見えません」

「見えないようにしてるの」

その返事だけ、声が少し低かった。

灯里は袋の口を結び終えると、私を見た。舞台上で向けられたら、逃げたくなるような真っ直ぐな視線だった。けれど今は、その奥に細い揺れがある。赤い補助灯が瞳の端に映り、炎のようにちらついていた。

「あなたは、代役をやる気があるの?」

「ありません」

即答できた自分に、少し驚いた。

灯里の眉が動く。高瀬は紙片を拾う手を止めず、何も言わない。柏木先輩だけが、壁際で箱を整理していた。

私は続けた。

「やりたいとは思っていません。人前に立つのが苦手ですし、台詞も全部覚えられるかわからない。明日が本番なら、私が入ったら迷惑になると思います」

灯里は腕を組んだ。

「じゃあ、どうして来たの」

「来たくて来たわけじゃ……」

「そういう意味じゃない。ここまで来て、台本を受け取って、紙吹雪まで拾って、それでもまだ帰らない理由を聞いてる」

返事の代わりに、私は掌の紙片を見た。

白い紙の端に、細い赤い線がついている。誰かが切るときに定規をずらした跡だろうか。整っていない。けれど、雑に捨てられたものでもない。誰かが切り、誰かが袋に詰め、誰かがここまで運んだ。

「……頼まれたからです」

「それだけ?」

「それ以上の理由が必要ですか」

「舞台に立つには、必要かもしれない」

灯里の言葉が、床に置かれた階段セットのように重く落ちた。

「頼まれたから立つ人は、客席を見た瞬間に逃げる。選ばれたから立つ人も、失敗した瞬間に自分を責める。自分で立つ理由がないと、最後まで持たない」

「では、三好さんにはあるんですか。自分で立つ理由」

聞いた瞬間、しまったと思った。

灯里の顔が固まった。顎がわずかに上がる。強気な表情を作るときの癖だと、私はまだ知らなかった。それでも、彼女が何かを隠すときの動きだということだけはわかった。

「ある」

「何ですか」

「舞台を壊したくないから」

「それは、立つ理由というより、逃げない理由では」

高瀬が小さく息を呑んだ。柏木先輩の指が、箱の縁で止まる。

灯里は私を見たまま、すぐには答えなかった。目が合っているのに、どこか遠くを見ているようだった。舞台袖の熱気が、布越しに肌へまとわりつく。彼女の白いシャツの襟元が、呼吸のたびにわずかに動いていた。

「……似たようなものよ」

やがて灯里は言った。

「私は、舞台に立つとき、上手くできる人間に見られたい。台詞を間違えず、立ち位置を外さず、相手が遅れたら自分が拾える人間に。そうすれば、誰も私が怖がっていることに気づかない。私が崩れなければ、他の人も崩れない。そう思って、ずっとやってきた」

「それは、強い人の考え方です」

「違う。弱い人間が、強い人間の真似をしているだけ」

灯里は笑わなかった。笑えないのだと思った。

「前の公演で、私は台詞を飛ばしかけた。相手が拾ってくれたけど、そのあとずっと、私に合わせて間を変えさせていた。終わったあと、ありがとうと言われた。私は謝った。何度も。相手に合わせてもらったから。相手の芝居を壊したから。次は絶対に、私が合わせる側になるって決めた」

「だから、私にも合わせろと言うんですか」

「……そう聞こえた?」

「少しだけ」

灯里は視線を逸らした。手袋のない指が、袖口の縫い目をなぞる。

「あなたに完璧になれと言ってるわけじゃない。ただ、遅れたら遅れたまま立って。謝って止まらないで。私が拾うから」

「でも、拾われるのは迷惑では」

「迷惑じゃない。舞台では、それを呼吸って言うの」

彼女はそこで一度、深く息を吸った。顎が上がっていた姿勢が、ほんの少しだけ下がる。

「私が一人で全部できると思っているなら、それは間違い。照明も音響も、袖の人も、相手役も、誰かがずれたら誰かが待つ。待つことは、負けることじゃない。……本当は、そう思ってる。でも、できないときがある」

「できないとき?」

「待てなくなる。自分が崩れるのが怖くて、相手が崩れる前に急かしてしまう」

その告白は、誰かに聞かせるためのものではなかった。灯里自身が、口から出てしまった言葉に驚いているようだった。

私は何か返そうとしたが、言葉が見つからない。

代わりに、手の中の紙吹雪を灯里へ差し出した。

「折れてます」

「ええ」

「でも、使えますか」

灯里は紙片を受け取った。赤い線の入った白い紙を、補助灯へかざす。紙の折れ目が光を細く返した。

「使える。きれいではないけど」

その言い方が、なぜか胸に残った。

柏木先輩が、壁際から近づいてきた。手には、分厚い台本がある。表紙は何度も開かれた跡で柔らかくなり、角が擦れて白くなっていた。端には赤い付箋が何枚も重なっている。

「着る」

先輩が王子衣装を持ち上げた。

「え」

「衣装合わせ」

「今からですか」

「今だからできる」

「でも、私、本当にやるとは」

「やるかどうかは着てから決めろ」

「順番が逆では?」

「舞台はだいたい逆だ。先に問題が起きる。あとで考える」

柏木先輩はマントを私へ差し出した。濃紺の布に、銀色の糸で細い月が刺繍されている。近くで見ると、ところどころ糸が浮いていた。きれいに見えるのは、照明が当たったときだけなのかもしれない。

私は受け取った。

布は思ったより重かった。汗を吸った裏地が手首へ触れ、冷たさのあとに、誰かの体温が薄く残っている。前の主役が着ていたものだ。その事実が、布の重さに混ざっていた。

「これ、彼の衣装ですか」

「そう」

「返せなくなったら、困るんじゃ」

「だから着る前に確認する。肩幅、袖、留め具。壊れたら直す」

柏木先輩は台本を私の胸へ押し当てた。

「持って」

「衣装も、台本も?」

「両方」

私は台本を抱え、空いた腕にマントをかけた。腕が沈む。紙の束は見た目より重く、表紙からは古いインクと埃の匂いがした。

「重いです」

「台本が?」

「両方です」

「役は軽くない」

「役まで重いんですか」

「軽い役なら、誰が持っても同じだ」

柏木先輩はそう言って、台本を開いた。赤いペンで引かれた線が、ページの上を何本も走っている。台詞の横には「三歩」「止まる」「見る」「待つ」と、短い言葉が並んでいた。

「演技をしろとは言わない」

「え?」

「今のお前に演技は要らない。立て。相手を見ろ。聞こえたら返せ。台詞を言う前に、次の人間がどこにいるか確認しろ」

それは演劇というより、廊下を歩くときの注意に近かった。

人にぶつからないように端へ寄る。足元を見る。誰かの声が聞こえたら、邪魔にならないように待つ。私はそれなら、少しだけ知っている。

柏木先輩がページをめくる。

「ユウの最初の台詞。灯里、相手役の位置」

灯里はすぐに階段セットへ向かった。二段目に足を置き、白いテープの印を確認する。スカートの裾を整え、私を振り返った。

「ここから。あなたは下」

「階段を上がるんですか」

「一段だけ。最初から上に立つと、照明が顔を拾わない」

「立ち位置まで覚えるんですね」

「覚えるんじゃない。踏むの」

灯里は階段を一度降り、私の足元へ来た。私が抱えたマントの留め具を見て、眉を寄せる。

「それ、逆」

「え?」

「留め具の向き。逆だと、歩いたときに外れる」

灯里の指が、私の胸元へ伸びた。

近い。

衣装の布が擦れ、金具が小さく鳴る。灯里の指先が留め具を外し、向きを直していく。髪から、微かに甘い匂いがした。香水というより、舞台袖の熱に混じったシャンプーのような匂いだった。

「じっとして」

「はい」

「そんなに固まらなくていい」

「固まってません」

「固まってる。肩」

彼女が留め具を留め直す。指が布越しに鎖骨の近くへ触れ、私は息を浅くした。

「息を止めないで」

「止めてません」

「止めてる」

「……三好さん、よく見てますね」

「相手役だから。相手が息を止めたらわかる」

灯里は顔を上げた。近い距離で目が合う。さっきまでの鋭さが、ほんの少しだけ薄れている。

「それに、あなたはわかりやすい」

「そうですか」

「襟を引く。指をこする。返事の前に一拍空く。あと、逃げたいときほど丁寧に話す」

「……観察しすぎでは」

「あなたが目立たないようにしているから、見えるのよ」

その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。

灯里は気づいたのか、すぐに手を離した。布の熱が残っている。そこだけ、照明に近い場所みたいに熱かった。

高瀬が紙吹雪の袋を抱えたまま、わざと咳払いをする。

「衣装合わせって、そんな近距離でやるもの?」

「高瀬」

「はい、黙ります。今のは本気で怒られるやつだと判断しました」

「判断が遅い」

「王子候補よりは速い」

「私は候補では」

「はいはい、見学者ね」

高瀬は口元を笑わせたまま、床に散った紙吹雪を一枚拾った。けれど、視線だけはこちらへ向いている。私は何か言い返そうとして、結局、台本へ目を落とした。

柏木先輩が指でページを叩く。

「読む」

「今、ここでですか」

「ここで読むために渡した」

「心の準備が」

「準備している暇はない」

「せめて、少し」

「少し待つと、待った分だけ怖くなる」

柏木先輩は私の言葉を遮らなかった。最後まで聞いてから、低い声で続けた。

「怖いまま読む。怖さが消えてから始める人間は、舞台には間に合わない」

舞台袖の熱が、急に濃くなった気がした。

私は台本を開いた。紙の間から、折り目だらけの付箋が落ちかける。拾おうとした指が、ページの端に触れた。そこには、ユウの台詞が並んでいた。

――王子は、真実を知っている。 ――けれど、知らないふりをする。 ――嘘をつくのは、真実を守るためだ。

あのとき体育館で、私が拾って読んだ台詞だった。

私はページを見つめたまま、息を吸った。

「ユウ、最初の台詞」

灯里が言う。

私は顔を上げた。彼女は階段の上に立っている。照明の青が肩にかかり、白い手袋をまだしていない手が、身体の横で静かに握られている。

「聞こえてる?」

「はい」

「なら、返して」

私は一拍だけ息を吸った。

「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」

声が出た。

思ったより広く、舞台袖の奥へ伸びた。焦げた電球の金属に当たり、階段の下へ落ち、体育館の暗がりへ薄く溶けていく。

高瀬が紙吹雪の袋を置いた。

灯里は、次の台詞を言わなかった。

待っている。

私は台本に目を落とした。次の行を探す。手が震えて、ページがかさりと鳴った。喉が乾く。言葉が出てこない。さっきの一行が、偶然だったことを証明するように、沈黙が長くなる。

「……続きは」

私が言うと、灯里は階段の上から見下ろした。

「台本を見ればいいでしょ」

「見ています」

「なら、顔を上げて」

「でも、台詞が」

「台詞は紙にある。相手は紙の外にいる」

私は顔を上げた。

灯里の目が、真正面からこちらを捉えている。鋭いのに、急かしてはいない。彼女は私が言葉を探す時間を、黙って持っていた。

その一拍が、怖かった。

けれど、待たれていることが完全に嫌ではなかった。私が何かを返すまで、灯里はそこに立っている。見捨てず、先へ行かず、ただ待っている。

私は台本の次の行を見つけた。

「……嘘が欠ければ、真実が見える」

声は少し震えた。それでも、舞台袖の奥まで届いた。

高瀬が小さく口笛を吹く。

「今の、王子っぽい」

「どこがですか」

「声が。顔はまだ、プリントをなくした生徒だけど」

「それは王子ではないです」

「王子もプリントをなくすかもしれない。王子だって人間だし」

「高瀬、黙って」

灯里が言った。けれど、口元にはわずかな笑いが残っていた。

柏木先輩は照明のスイッチを確認し、短く指示した。

「もう一度。今度は階段を上がる」

「台詞を言いながら?」

「言ってから」

「どこまで」

「一段。印を踏む。灯里を見る。待つ」

「待つのも台詞ですか」

「舞台では、待つことも動きだ」

私はマントの重さを感じながら、階段の前へ立った。木の板が足元で軋む。上がる前から、その段差の高さがわかる。たった一段なのに、向こう側とこちら側を分けている。

私は台本を閉じた。

まだ全部は覚えていない。きっと明日になっても、完全には覚えられない。けれど、紙を見ているだけでは、灯里の呼吸も、階段の軋みも、照明の熱も拾えない。

私は一段目へ足を置いた。

木が、ぎし、と鳴った。

灯里の視線が私の足元へ落ち、それから顔へ戻る。何か言いかけたように唇が動いたが、今度はすぐに言葉にしなかった。

私は、次の台詞を探す。

背後で、スマホが震えた。

鞄の中から聞こえる短い振動が、舞台袖の空気を乱した。私は反射的に振り返る。画面を確認しなくても、誰からかはわかっていた。

母からのメッセージだ。

もう帰ってる?

短い文面が、胸の内側へ現実の重さを持って落ちてくる。家の台所。冷蔵庫の低い音。誰もいない居間の照明。私が帰るまで消えない明かり。

高瀬が私の顔を見た。いつもの冗談を言いかけて、やめる。

灯里も気づいていた。彼女は一度、私のスマホへ視線を向け、それから舞台の奥へ目を戻した。

「返さないの?」

「……今は」

「帰る場所があるなら、帰ればいい」

その言葉は冷たく聞こえた。

私は台本を抱え直した。王子衣装の袖が腕に触れる。布の内側に残った誰かの熱が、まだ消えていない。

「そうしたいです」

「なら、どうして立ってるの」

「わかりません」

「わからないまま立ってるの?」

「はい」

灯里は黙った。

その沈黙は、さっきまでの値踏みする沈黙とは違っていた。彼女は私の答えを笑わなかった。正しいとも言わなかった。ただ、私が一段目に置いた足を見ている。

柏木先輩が、台本の端を指で叩いた。

「返事はあとでいい」

「母が心配するので」

「連絡はする。今すぐ帰るとは書くな」

「でも、帰るのが遅くなると」

「遅くなる理由を書け」

「理由……」

「舞台袖にいる。代役の稽古をしている。事実だ」

私はスマホを取り出した。画面には、母からのメッセージがひとつだけ残っている。

もう帰ってる?

指先が冷えて、文字がうまく打てない。高瀬が私の隣へ来て、紙吹雪の袋を抱えたまま画面を覗き込もうとする。

「お母さんに、王子になりましたって送る?」

「送らない」

「じゃあ、王子見習い」

「もっと送らない」

「帰宅部、演劇部に一時入部中とか」

「それは……少しだけ事実です」

高瀬が笑った。今度は私も、喉を引っかけずに笑えた。

その笑いを聞いて、灯里の肩がほんの少し下がる。柏木先輩は何も言わず、足元に落ちた紙吹雪を拾い、袋へ戻した。

私は母へ打ち込む。

「まだ学校。少し遅くなる」

送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。

「何してるの? 無理しないで。終わったら連絡して」

胸の奥が、わずかに緩んだ。

帰る場所がある。だから、ここにいてはいけないということではない。帰れる場所があるからこそ、今だけ別の場所に立つこともできるのかもしれない。

私はスマホを鞄へ戻した。

灯里が階段の上から言う。

「じゃあ、続き」

「はい」

「今度は、私の目を見て」

「見ています」

「まだ見てない」

私は顔を上げた。

赤と青の光の間で、灯里の目が揺れている。強く見せようとしているのに、呼吸の浅さだけは隠せていない。私が一段目に立ったことで、彼女もまた、ひとりで立つ必要がなくなったのだろうか。

そんなことを考えていると、灯里が先に息を吸った。

私はその呼吸に合わせた。

「月が欠けた夜は、王子の嘘も欠ける」

今度は、声が少しだけまっすぐ出た。

灯里が続ける。

「嘘が欠ければ、あなたの隠したものも見える」

私は台本を見なかった。彼女の目を見たまま、返す。

「見えるなら、見ればいい。見られる覚悟くらい、王子にはある」

言い終えたあと、舞台袖が静かになった。

高瀬が紙吹雪の袋を抱え直す音だけがする。柏木先輩は照明の角度を確かめている。灯里は、ほんの一拍、私を見たまま動かなかった。

「……今の」

「違いましたか」

「違わない」

灯里の声は低かった。

「でも、台本にはない」

「すみません」

「謝らなくていい。今のは、あなたの声だったから」

その言葉が、照明より熱く胸の奥へ残った。

柏木先輩が台本を閉じる。

「使える」

短い言葉だった。

けれど今度は、その一言から逃げたいとは思わなかった。

私は一段目に立ったまま、マントの袖口を握った。布は重い。台本も重い。自分の名前が貼られたメモも、母からの短いメッセージも、全部、手の中に残っている。

それでも、足はまだ床から離れなかった。

舞台袖の赤い光が、王子衣装の銀糸を細く照らしている。こぼれた紙吹雪の一枚が、私の靴先に張りついた。

高瀬がそれを見て、言った。

「ほら。もう逃げても、紙吹雪がついてくる」

私は靴先を見た。

それから、台本を開いた。

「……もう一回、お願いします」

灯里が、今度はすぐに答えた。

「最初から」

彼女の声に合わせて、私は階段を一段下りる。

そして、もう一度、踏み上がった。

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