第2話 柏木先輩の目

「そこにいるの、誰?」
声が近づいてくる。
私はメモから手を離し、放送委員室の扉に背を向けた。逃げるなら、今だった。来た道を戻ればいい。渡り廊下を抜け、新校舎の明かりの中へ戻れば、誰かに呼び止められても「忘れ物を取りに来ただけです」と言える。実際、それは嘘ではない。
けれど、足音はもう掲示板の前まで来ていた。
「……ああ」
短い声が落ちる。
振り返ると、廊下の白い光の下に柏木先輩が立っていた。黒いパーカーの袖を肘までまくり、片手には赤いペンと、折り目のついた進行表を持っている。髪は後ろでひとつにまとめられていたが、急いでいたのか、細い毛束が頬にかかっていた。
その目が、私の指先から掲示板のメモへ移る。
「見たか」
問いかけというより、確認だった。
「……はい」
返事をする前に、いつもの一拍が入った。柏木先輩はそれを急かさなかった。急かさない代わりに、私が次にどんな言い訳を出すのか、待っているようだった。
「これは、私の名前ですけど」
「そうだな」
「でも、たぶん何かの間違いで」
「違う」
「同じ名字の人かもしれません。ほら、学校には――」
「違う」
二度目の否定は、最初より低かった。
廊下の窓が風で鳴る。掲示板の紙が一枚だけ浮き上がり、透明なテープの端がぺり、と剥がれかけた。柏木先輩はそちらを見て、赤いペンを差し込んだ。紙を押さえ、テープを貼り直し、端を爪でなぞる。その動作があまりに手慣れていたので、私は自分のことを話している途中なのに、掲示物のほうへ目を奪われた。
「貼る場所が悪い」
柏木先輩は紙から手を離さずに言った。
「人が通るところに貼れば、剥がれる。剥がれれば、誰かが踏む。踏まれた紙は読まれない。読まれないものに役割はない」
「……掲示物の話ですか」
「今はな」
赤いペンが、紙の上で小さく動く。貼り直された『銀の月と、嘘つきの王子』の月が、白い蛍光灯の下で少しだけ傾いた。
私はその月を見ながら、聞いた。
「私の名前を、書いたんですか」
「書いたのは私だ」
「どうして」
「必要だから」
答えが短すぎて、逆に困った。必要だから。教科書を持ってきてほしいとか、放送室の鍵を閉めてほしいとか、そういう種類の必要ならわかる。けれど人の名前を紙に書いて、演劇部の主役候補にする必要など、私の生活には存在しなかった。
「私は、演劇部じゃありません」
「知ってる」
「舞台に立ったこともありません」
「知ってる」
「台本も、まともに読んだことがないです」
「それも知ってる」
「なら、なぜ」
柏木先輩はようやく掲示板から手を離した。赤いペンを進行表の背に挟み、私を見る。
「今日の午後、体育館で立ち稽古をした。主役のユウが、途中で台詞を拾えなくなった」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
体育館。舞台。誰かの声が途切れたこと。私はそのとき、通りかかっただけだった。放送委員の仕事で、音響の確認を頼まれていた。舞台の端に座り、進行表をめくりながら、誰かが言葉を探しているのを聞いていた。
「相手役の台詞のあと、三秒空いた」
「……はい」
「三秒は長い。客席があれば、誰かが咳をする。咳が出れば、役者はそれを拾う。拾えば、次の台詞が遅れる。遅れれば、照明の切り替えにかかる。舞台はそうやって崩れる」
柏木先輩は進行表を開いた。紙の端には赤い線が幾重にも引かれ、ところどころに数字が書き込まれている。
「そのとき、お前が言った」
私は眉を寄せた。
「何を」
「ユウの台詞だ」
記憶の底から、体育館の白い床が浮かんだ。舞台の上には、月の形をした紙製の装置が吊られていた。照明の青が弱く、客席側の暗がりには、片づけ途中の椅子がいくつか並んでいた。
誰かが言葉に詰まり、相手役の女の子が一瞬だけ目を見開いた。
その空白が、妙に耳についた。
私は台本を見ていたわけではない。たまたま舞台袖に落ちていた紙の断片を拾い、そこに書かれていた言葉を、口にしただけだった。
――嘘をつくのは、真実を守るためだ。
声に出したあと、しまったと思った。知らない人たちの稽古に割り込んだのだから、謝らなければならない。そう考えているうちに、舞台上の女の子が次の台詞を返した。場は止まらなかった。
「私は、読んだだけです」
「読んで、返した」
「書いてあったから」
「書いてあっても、返せない人間は多い」
「でも、あれは……その場が止まるのが嫌だっただけで」
「止まるのが嫌だったから、声を出した。それで十分だ」
柏木先輩の言葉は、褒めているようには聞こえなかった。褒められると、私はいつも身構える。期待がそのまま次の要求に変わる気がするからだ。
「十分じゃないです」
口にすると、思ったより声が大きく出た。
旧校舎の廊下に、自分の声が広がった。窓ガラスに跳ね返り、少し遅れて戻ってくる。私は自分で驚いて、制服の襟を引いた。
「一回、台詞を言えただけです。演技なんてできないし、立ち位置もわからないし、明日には本番なんでしょう。そんな人を主役にしたら、演劇部の人たちが困ります」
「困っている」
「……はい」
「だから頼んでいる」
その言い方に、胸が詰まった。
頼む、という言葉は、断れる形をしているはずだった。けれど柏木先輩の声には、断ることを責める響きがなかった。責めないまま、断ったあとに起きることだけをこちらへ渡してくる。
「今日、主役をやる予定だった部員が倒れた。熱が三十九度ある。保健室で休ませている。代わりはまだ決まっていない」
「それなら、演劇部の人で……」
「候補は全員、別の役を持っている。台詞を削れば済む問題ではない。ユウが抜ければ、灯里の場面も、照明のきっかけも、終幕の紙吹雪も変わる」
「私には無理です」
柏木先輩は返事をしなかった。
音響室の奥から、何かが擦れる音がした。続いて、低い男の声が飛ぶ。
「柏木、青のケーブル、どこだっけ」
「右の箱。ラベルを見ろ」
「見たけど、赤しかない」
「赤の下」
「下って何」
「持ち上げろ」
短いやり取りのあと、箱の蓋が落ちる音がした。遠くで誰かが笑う。体育館では、またスピーカーの低音が鳴った。校舎全体が、誰かの返事を待たずに動いている。
柏木先輩は私から視線を外さなかった。
「断るなら、今ここで断れ」
「……今?」
「舞台袖へ行けば、衣装を合わせる。台本を渡す。立ち位置を決める。そこから先は、断るためにも時間が要る」
「断るためにも?」
「お前は、頼まれたあとで断るのが苦手だ」
図星だった。
私は視線を床へ落とした。古い床板の継ぎ目に、黒い汚れが細く走っている。そこだけを見ていれば、柏木先輩の目から逃げられる気がした。
「……そんなこと、わかるんですか」
「わかる」
「会ったばかりなのに」
「会ったばかりではない。今日、舞台で見た」
「一度だけです」
「一度で足りることもある」
その言葉を聞いて、喉の奥が乾いた。
私は、自分のことをよく知っているつもりだった。目立たない。声は小さい。人前では手が冷たくなる。誰かの期待に応えるより、期待されないように振る舞うほうが楽だ。そういう自分を、ずっと変わらない性質だと思っていた。
なのに柏木先輩は、私が知らない一瞬だけを見て、それを「声の形」と呼ぶ。
「私の声なんて、普通です」
「普通なら、体育館の後ろまで届かない」
「たまたま響いただけです」
「たまたまでも、響いたのはお前の声だ」
「……それを、明日の舞台で使えるとは限らない」
「限らない」
あっさり認められて、私は顔を上げた。
柏木先輩は、励ますために嘘をつく人ではないらしい。
「使えるかどうかは、これから見る。できると言うつもりはない。できないとも決めない。舞台に立って、足が止まるか、声が飛ぶか、灯里と呼吸が合うかを確認する。確認して、使えないなら別の方法を考える」
「別の方法……」
「お前を無理に主役にする気はない」
その言葉に、ほんの少しだけ息が戻った。
けれど同時に、胸の奥に別の熱が生まれた。無理に主役にする気はない。つまり、私は今から試される。できなければ、使えないものとして舞台から外される。
それは怖かった。けれど、誰にも見られないまま帰るより、怖さの輪郭がはっきりしていた。
「……失敗したら」
「やり直す」
「明日、本番なのに?」
「やり直せるうちは、失敗ではない」
柏木先輩が進行表を閉じた。紙の間から、折れた鉛筆が一本落ちる。拾おうとした私より先に、先輩がしゃがんでそれを取った。折れた芯の部分を確かめ、短く息を吐く。
「使えないなら、削る」
「鉛筆を?」
「鉛筆も、人も」
冗談なのか判断できずにいると、音響室の扉が開いた。
「部長、王子候補の見学終わった?」
高瀬悠真が顔を出した。片手にガムテープの束、もう片方に細いケーブルを持っている。いつも教室で見るより、少しだけ髪が乱れていた。
「候補じゃなくて、本人だよ」と柏木先輩が言った。
「本人って、まさか」
高瀬の視線が私へ向く。目が合った瞬間、彼は一度だけ私の手元を見た。襟を引いている指先、それから掲示板のメモ。確認を終えると、口元を上げる。
「へえ。じゃあ、王子さまの初登場シーンから?」
「まだ決まっていない」
「決まってない人を舞台袖に連れていく部長、判断が大胆なんだか雑なんだか」
「高瀬」
「はいはい、運びます。王子も、部長も、必要なら掲示板ごと」
高瀬はガムテープの束を脇に抱え直した。重そうなのに、片手だけで持ち上げようとして、途中で少しよろめく。
「……今のは、見なかったことにして」
「見ました」
私が答えると、高瀬は一瞬目を丸くした。それから、肩をすくめて笑った。
「お、もう返せるじゃん。台詞」
その笑い方は、馬鹿にするものではなかった。私の声がここに届いたことを、軽く拾って、床に落とさないための笑いだった。
柏木先輩が音響室の奥を指した。
「舞台袖へ行く。高瀬、衣装」
「了解。灯里には?」
「先に立たせておけ」
「それ、灯里が一番嫌がるやつ」
「知っている」
三人で廊下を歩き出す。
新校舎へ戻る方向とは逆だった。旧校舎のさらに奥、体育館へつながる渡り廊下へ向かう。窓の外では、桜丘祭の旗が夜風に打たれている。赤、金、青。昼間なら飾りにしか見えない色が、暗い校庭の上では、どこか別の場所への案内標識のようだった。
高瀬が私の隣を歩く。歩幅を合わせているのか、普段より少し遅い。
「ちなみにさ」
「はい」
「王子って、馬に乗る?」
「……台本には書いてないです」
「よかった。俺、馬役まで手が回らないから」
「高瀬」
柏木先輩の声が飛ぶ。
「はい、すみません。今のは呼吸を作るための必要な冗談です」
「長い」
「すみません」
私は思わず笑いそうになった。けれど笑う前に、喉がひっかかった。高瀬はそれを見たのか、何も言わなかった。代わりに、持っていたガムテープを私へ差し出す。
「持つ?」
「大丈夫です」
「王子候補に重いものを持たせると、演劇部が怒るんだよ」
「候補じゃない」
柏木先輩が前から言った。
「まだ、見学者だ」
「じゃあ見学者に持たせます」
ガムテープを押しつけられ、私は受け取った。思ったより重い。指先にざらついた紙の感触が残る。
渡り廊下に入ると、体育館から音楽が漏れてきた。低音が床を震わせ、窓ガラスに細かな振動が伝わる。誰かがマイクで「あー、あー」と声を出し、その声が少し遅れて返ってきた。
「声、通るんだってね」
高瀬が前を見たまま言った。
「普通です」
「普通の声は、体育館の端から端まで逃げない」
「逃げてません」
「声の話」
そう言って、高瀬は笑った。
柏木先輩が、渡り廊下の先にある両開きの扉を押す。赤い補助灯が、細い隙間から床へこぼれていた。中から、布の擦れる音と、誰かが短く息を吸う音が聞こえる。
柏木先輩は扉の前で立ち止まり、私を見る。
「ここから先は、見学ではない」
私はガムテープの束を抱え直した。指先が冷たい。襟元へ手をやりかけて、途中で止める。
「……何になりますか」
「立つ人間」
その答えは、役名より重かった。
扉の向こうで、木の階段がぎし、と鳴った。
柏木先輩が扉を開ける。赤と青の光が混ざり、焦げた電球の匂いが流れてくる。舞台袖の床には、脱げかけた王子衣装と、紙吹雪の袋が散らばっていた。
その奥で、三好灯里がこちらを振り返る。
目が合った瞬間、彼女は何か言いかけた。けれど、すぐには言葉にしなかった。強い顔のまま、ほんの一拍だけ黙る。
その沈黙の中へ、私は足を踏み入れた。
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