1話 掲示板の前で

文化祭「桜丘祭」の前日の夜は、学校というより、眠り損ねた町に近かった。

県立桜ヶ丘高校の正門をくぐると、校舎の窓という窓に明かりが残っている。教室の中では、模擬店の看板を描く筆が動き、廊下では脚立を抱えた誰かが走り、体育館のほうからは、低い音が何度も床を震わせていた。スピーカーの確認らしい。音が鳴るたび、胸の内側まで学校に呼び戻されるような気がした。

私はできるだけ壁際を歩いた。

人の流れの真ん中を通ると、誰かの肩にぶつかる。ぶつからなくても、通り過ぎる視線に自分の輪郭を拾われる気がする。だから、廊下の端を歩く。掲示物の影や、消火器の赤い箱や、窓から差す薄い光のそばを選ぶ。

それはもう、考えてすることではなかった。自転車に乗るときに手でハンドルを握るのと同じくらい、身体が勝手に決めている。

「おーい、誰か養生テープ持ってない?」

前の教室から男子の声が飛び出してきた。私は反射的に壁へ寄った。出入り口から、段ボールの看板を抱えた男子が二人現れる。片方が私に気づき、目を合わせかけた。私は床のタイルに視線を落とした。

「それ、机の下」 「机の下はもう探したって」 「じゃあ探し方が下手なんだよ」

笑い声が起きる。私はその脇を通り過ぎた。背中に声が届いていたが、振り返らなかった。

放課後は、誰かと過ごすものだと思われている。

部活へ行く人。委員会に残る人。友達と教室に居残る人。文化祭前ならなおさらだ。何かを作る手があり、誰かに名前を呼ばれる場所がある。私はそういう輪の外側を、毎日きちんと歩いて帰ってきた。

帰宅部、と言えば簡単だった。活動日も、入部届も、退部届もない。誰にも説明を求められない代わりに、誰からも呼び止められない。静かで、安全で、少しだけ薄い。

今日は、その薄さを破るつもりなどなかった。

放送委員室に置き忘れたプリントを取りに行くだけだった。昼休みに借りた文化祭の進行表を返そうとして、机の端に置いたままにしたのだ。明日の朝に取りに戻る方法もあったが、放送委員の先輩に「なくした」と思われるのが嫌だった。迷惑をかけるくらいなら、夜の学校を一人で歩くほうがましだった。

旧校舎へ続く渡り廊下に入ると、空気が少し変わった。

新校舎のざわめきが、扉一枚ぶん遠ざかる。窓の外では、校庭に立てられた桜丘祭の旗が、夜風に煽られていた。昼間なら白く見える布が、校舎の明かりを受けて赤や金に染まっている。旗の影が窓ガラスを横切るたび、誰かが外から手を振っているように見えた。

私は足を速めた。

旧校舎の廊下は、夜になると音が残る。靴底が床を擦る音が、少し遅れて後ろから返ってくる。自分の足音なのに、誰かに追われているようで落ち着かない。

突き当たりを曲がったところで、放送委員室前の掲示板が見えた。

掲示板は、昼間より厚くなっていた。文化祭の案内が何枚も貼り重ねられ、その隙間から模擬店のメニューや、落とし物のお知らせや、部活動の連絡が顔を出している。紙の端が浮き、画鋲がいくつか斜めになっていた。

私は掲示板の前に立ち、プリントのありそうな場所を思い出そうとした。

たしか、放送委員室の扉の横に、当番表があった。その下に、誰かが置いたファイルが積まれていたはずだ。私は扉へ向かいかけたが、掲示板の中央にある白い紙が目に入った。

白い、というより、何度も触られて薄く汚れた紙だった。

上のほうに、太い字でこう書かれている。

『銀の月と、嘘つきの王子』

演劇部の公演案内だ。明日の体育館ステージで上演される、桜丘祭の目玉らしい。月の形をした飾りが紙の上に描かれ、王子の役名の横には、赤いペンで何か書き足されていた。

私はその文字を読もうとして、一歩近づいた。

紙の下端に、小さなメモが貼られている。

代役候補。

その下に、名前がひとつ。

見慣れた文字だった。

自分の名前。

最初は、同じ名字の誰かだと思った。学校には同じ名字の人が何人かいる。字も似ているのかもしれない。そう思って、もう一度見た。

名字の最後の払い方。名前の一画目が少し右に傾く癖。書いた人は知らないかもしれないが、私にはわかった。

私の字だった。

息を吸うつもりで、喉の手前で止まった。

廊下の奥で、古い換気扇が回っている。体育館から届いていた音は、いつの間にか止んでいた。代わりに、掲示板の紙が空調の風でかすかに鳴る。ぱら、ぱら、と薄い紙が擦れる音だけが、妙に大きく聞こえた。

私はメモに手を伸ばした。

剥がすつもりだった。剥がして、間違いだと確かめる。誰かが勝手に私の名前を書いたのなら、剥がして捨てればいい。貼り間違いなら、元の場所へ戻せばいい。そうすれば、この夜はプリントを取りに来ただけの夜に戻る。

指先が紙の端に触れた。

画鋲は使われていなかった。透明なテープで、雑に貼られている。テープの端が少し浮いていて、剥がすのは簡単そうだった。

なのに、指が動かなかった。

誰かが、私の名前を書いた。

その事実だけが、紙の上で妙に重い。

名前は普段、出席確認やテストの答案や、提出物の欄にしか現れない。呼ばれれば返事をする。書けと言われれば書く。それ以上でも、それ以下でもない。私の名前が、誰かの必要と結びついている場面を、私はほとんど知らなかった。

掲示板のメモは、私を見つけていた。

私が誰にも見つからないように歩いてきた、その先で。

制服の襟を引く。指先が冷えていた。さっきまで廊下を歩いていたせいではない。身体のほうが先に、ここから離れる準備を始めている。

そのとき、背後の廊下から声がした。

「……あれ?」

女の子の声だった。

私は振り返らなかった。振り返れば、見つかる。見つかれば、何かを聞かれる。何をしているのか。なぜここにいるのか。そのメモを見たのか。

私はメモから手を離し、放送委員室の扉へ視線を移した。

「そこにいるの、誰?」

足音が近づいてくる。

私は返事をしようとして、一拍だけ息を吸った。

それだけの時間で、廊下の明かりが一度、薄く明滅した。蛍光灯の白が途切れ、掲示板の紙に描かれた銀の月だけが、窓の外から差した夜の光を拾って浮かび上がる。

その月の下で、私の名前は消えずに残っていた。

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