第9話 壊れかけの光

幕の外で、拍手の予行めいた音が起きた。
誰かが客席へ向けて手を叩き、別の誰かが「もう少し大きく」と促している。ぱち、ぱち、と不揃いな音が旧体育館の天井へ跳ね返り、舞台袖の暗がりまで薄く届いた。
私は第二稿を胸に抱えたまま、幕の隙間から舞台を見ていた。
客席には、まだ誰もいない。文化祭の案内係が椅子の列を確かめ、舞台前の通路には養生テープが何本も貼られている。昨夜まで視聴覚室の床にあった白い線が、今はもっと広い場所へ引き延ばされていた。舞台板は乾いていて、雨で冷えた制服の裾が触れるたび、温度の違いが足元から上がってくる。
照明係の男子が、古いピンスポットの前に立った。
「一度、入れるよ」
結衣がクリップボードを見たまま手を上げる。
「入れて。客席、まだ空だけど、光の位置だけ確認する。二場で右奥に寄るから、私の肩を基準にして。床を照らしたらやり直し」
「分かってるって」
「分かってるなら、最初からそうして」
「本番前に怒るなよ」
「怒ってない。声を出してるだけ」
結衣はそう言いながら、古い腕時計を見た。黒い文字盤の針が、開始時刻へ近づいている。彼女の親指はクリップボードの端を何度も押さえていた。
照明係がスイッチを入れる。
古い器械は、うなるような音を一つ立てた。続いて、内部で何かが擦れる音がする。光が一度、天井を探すように揺れ、それから舞台へ落ちた。
少し斜めだった。
私の肩口を半分だけ外し、残りの光を床へこぼしている。白い光の縁が、私の足元から数十センチずれていた。
「ちょっと待って。右に三度」
結衣が言いかけた。
榊原先生が、舞台袖の暗がりから彼女を見た。
先生は首を横に振った。
「そのまま」
「でも、外れてます」
「外れている」
「直さないんですか」
「直せるなら直す。固定が甘い」
先生はピンスポットの根元を見た。金具に貼られた応急処置のテープが、端から浮いている。何度も貼り直された跡があり、器械そのものが、いつ落ちてもおかしくない姿で光を支えていた。
「直す時間は?」
結衣が腕時計を見た。
「三分」
「三分あれば、立ち位置を変えられます」
「変えたら、二場の机とぶつかる」
「机を動かす」
「動かしたら袖入りが遅れる」
「じゃあ、私が――」
「そのまま」
先生の声は低かった。
「光がずれているなら、立つ場所を決め直せ」
結衣の口元が動いた。舌打ちしかけたのだと思う。けれど、彼女はそれを飲み込み、舞台上の白い光と、私の肩と、床のテープを順番に見た。
「……分かった。光に合わせる」
「私が?」
結衣が私を見る。
「そう。肩を全部光に入れようとしない。半分外れてても、客席から見える。外れたところを気にして、身体をこわばらせるほうがまずい」
「でも、そこに立てって言われてきたのに」
「立ち位置は目印。舞台そのものじゃない」
結衣は私の足元へ近づき、白いテープの端を剥がした。びりっ、と乾いた音がした。昨夜から何度も聞いてきた音だった。
「ここ、十五センチ前。光の縁に右肩を置く。顔は客席。足は線。分かる?」
私はうなずいた。
「分からないなら言って」
「分かる」
「本当に?」
「分からないけど、やってみる」
結衣は一瞬、私を見た。
それから、口元だけを少し歪めた。
「そういう返事、最初からして」
光の中へ一歩出た。
舞台の熱が、制服の布を通して肌へ伝わってくる。袖の暗がりにいるときは気づかなかったが、照明の近くは空気そのものが熱を持っていた。頬がじわりと温まり、喉の奥が乾く。
「声、確認」
榊原先生が言った。
私は台本を開いた。
観客はいない。けれど、誰かに見られている感覚は、客席が空でも消えなかった。照明係の男子、衣装係の女子、結衣、先生。舞台の外にいる人たちの視線が、光よりも強く私へ当たっている。
私は最初の台詞を口にした。
「雨が止むまで、ここにいる」
声は、思ったより出た。
光が肩の半分だけを照らしている。もう半分は暗がりに残っている。その境目が、妙に落ち着いた。全部を見せなくていい。全部を明るくしなくていい。見える部分だけで、次の言葉へ進めばいい。
結衣が相手役の位置についた。
「止まない雨もある」
私は次の台詞を返そうとした。
けれど、舌が一度、言葉の先に引っかかった。
「それでも、止むまで……と、どまる」
噛んだ。
頬が熱くなった。
空の客席へ向けた確認なのに、失敗の音だけが大きく響いたように感じた。喉の奥が縮み、次の言葉が出てこない。台本の文字が一行ずつ逃げていく。
舞台袖の机の角を、結衣が軽く叩いた。
「止まるな。そこで息」
いつもの声だった。
でも、その短い指示の中に、私の次の一歩を置く場所があった。
私は息を吸った。
深く吸おうとすると、かえって喉が震えた。だから、結衣の呼吸に合わせた。彼女が吸う。私も吸う。彼女の目が、次の台詞を待つ。
私は言葉を置いた。
「それでも、止むまでここにいる」
今度は噛まなかった。
舞台袖のどこかで、誰かが小さく笑った。
胸の奥が痛んだ。失敗を笑われたのだと思った。けれど、その笑いには鋭さがなかった。衣装係の女子が口元を押さえ、照明係の男子が肩を揺らしている。からかう笑いではない。噛んだ私を舞台から追い出さず、そこに置いたまま、次へ進ませるための笑いだった。
私は少しだけ悔しかった。
悔しいのに、嬉しかった。
失敗した直後の沈黙が、いつもなら私を薄く削っていく。何も言えなくなり、自分で自分を舞台の外へ押し戻してしまう。けれど今は、笑いがその沈黙をほどいている。誰かが私の失敗を拾い、笑いに変え、次の台詞へ渡してくれた。
結衣が肩をすくめた。
「今の、悪くない」
「噛んだのに?」
「噛んだから」
「それ、昨日も言った」
「使えるものは使うんでしょ」
「私の失敗まで?」
「失敗だから使える。完璧なものは、直すところがないから面白くない」
結衣はそう言って、すぐにクリップボードへ目を落とした。褒めたつもりはないのだろう。けれど、耳が少し赤い。
私は光の縁に立ったまま、舞台の中央を見た。
藤崎蓮なら、もっと綺麗に立つ。
声は明るく、台詞は滑らかで、噛んだとしても笑って次へ行くだろう。光が肩から外れても、ずれた照明さえ自分のものにしてしまう。客席の視線を受け止めることを、最初から知っている人だ。
私は蓮ではない。
その事実は、まだ痛かった。
けれど、蓮と違うところを数えていたはずの比較が、いつの間にか別の問いへ変わっていた。
私は、どう立つのか。
どこまで光へ入るのか。どこで息を置くのか。相手が次の言葉を待っているとき、急がずにその一拍を受け取れるのか。
蓮のように立つことはできない。
なら、私の遅れた一拍で、誰かの声を受け止めるしかない。
榊原先生が、舞台全体を見ながら言った。
「もう一度」
結衣が頷く。
「本番と同じで。録音なし。合図から」
照明係がスイッチへ手を伸ばした。光がまた一度揺れる。私は肩の半分を明るみに置き、半分を暗がりに残した。
結衣が机の角を軽く叩く。
「最初の間、長すぎたら私を見る」
「短すぎたら?」
「私が叩く」
「結局、叩くんだ」
「合図だから。怒ってるんじゃない」
「分かってる」
私は光の外へ目を向けた。
結衣の姿は、舞台袖の暗がりに半分沈んでいる。小柄な身体も、黒いクリップボードも、光の中にいる私より見えにくい。それなのに、彼女の声はどこにいても届く。見えない場所から、場を支えている。
私は、あの声に合わせる。
光が少しずれていても、台詞が一度噛んでも、肩が前へ出ても、戻る場所はある。結衣がいる。先生が見ている。衣装係がボタンを縫い、照明係が壊れかけた器械を押さえ、誰かが私の失敗を笑いに変えてくれる。
私はひとりで立つわけではない。
けれど、立つのは私だ。
「始める」
結衣の声が響いた。
私は息を吸った。
光はまっすぐではなかった。肩口を半分だけ外し、床へ長い斜めの帯を落としている。完璧ではない。直せないものを抱えたまま、舞台の上へ残っている。
そのずれ方が、今の私には不思議と自然だった。
「雨が止むまで、ここにいる」
声が舞台の奥へ進んだ。
私は客席を見た。誰もいない椅子が並んでいる。明日になれば、そこへ生徒や教師や、見知らぬ誰かが座る。その視線を想像すると、まだ怖い。けれど、怖いままでも声は出せる。
私は台詞の終わりに、ひとつ間を置いた。
結衣の呼吸が、暗がりでわずかに揺れた。
次の言葉を待っている。
私はその待つ時間へ、逃げずに立った。
それから、次の台詞を置いた。
「止まない雨もある」
結衣が返す。
「それでも、止むまでここにいる」
その声は、昨日より低く、少しだけ震えていた。けれど、床へ届いた。ずれた光の中で、私の影は舞台板へ斜めに伸びている。
榊原先生が、机を一度だけ叩いた。
今度は止める合図ではなかった。
進め、という合図だった。
私は第二稿を閉じた。
本番では、もう台本を見ない。すべてを覚えたわけではない。それでも、相手の息を聞けば次の言葉が浮かぶ。間を怖がらなければ、言葉が来るまで立っていられる。
幕の外で、開演を知らせる音が鳴った。
ざわめきが薄れ、客席が静まる。
結衣が私の襟元へ手を伸ばした。最後の確認だった。指先が布の皺を直し、今度は首筋へ触れる前に止まる。
「曲がってない」
「分かるの?」
「分かる。昨日から何回直したと思ってるの」
「十回くらい?」
「もっと」
「そんなに?」
「その顔で出ようとするたびに直した」
「顔は襟と関係ないよ」
「ある。逃げる顔をすると、襟も逃げる」
「襟は逃げない」
「気持ちが逃げると、布も逃げる」
結衣はそう言って、私の肩を軽く押した。
今度は、前へではなく、光の縁へ。
「そこ。半分でいい」
私は頷いた。
「結衣」
「何」
「終わったら、さっきの続き」
結衣は一瞬、目を逸らした。
「ないって言ったでしょ」
「じゃあ、ないって聞く」
「しつこい」
「帰宅部だから、しつこくする練習してない」
「何それ」
「今、思いついた」
結衣は呆れたように息を吐いた。その吐息が近く、声を張ったあとの喉の震えまで聞こえた。
「……終わったら、考える」
「考えるの?」
「考える。答えるとは言ってない」
「それでもいい」
私がそう言うと、結衣の目が少しだけ丸くなった。
「本当に?」
「本当に。返事を急がせるの、結衣の嫌いなやつでしょ」
「よく覚えてるね」
「見てたから」
結衣は、今度こそ笑った。
幕が上がる。
壊れかけのピンスポットが、唸りながら光を落とす。ずれた光が私の肩口を半分だけ照らし、残りを舞台の外へこぼした。
私はその光の中へ、もう一歩出た。
雨が止むまで、ここにいる。
その台詞を、私は自分の声で言った。
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