8話 袖の熱と、襟元の指

舞台裏へ続く階段を上りきったところで、私は初めて舞台袖の熱を知った。

昼間の校舎とは違う熱だった。暖房でも直射日光でもない、人が動き、声を張り、緊張を溜め込んだ場所だけが持つ独特の温度。木の床は表面が乾いていて、そのくせ芯のほうにまだ湿った冬の匂いが残っている。私はその上に立ち、雨で冷えていたはずの制服の裾が、いつの間にかその熱を吸い込んで重くなっていることに気づいた。

幕の向こうから、客席のざわめきが伝わってくる。個々の話し声はもう聞き分けられない。無数の呼吸が寄り集まって、ひとつの大きな呼吸になっている。それが幕を隔てた薄い暗闇の中まで、じわじわと押し寄せてくる。私は第二稿を両手で握った。ページの端はもう何度も湿っては乾き、波打って固くなっている。指の腹でその波を確かめながら、私は最初の台詞を、声に出さずに何度も反芻した。

雨が止むまで、ここにいる。

もう何百回と口にした言葉のはずなのに、今この瞬間だけ、それが自分のものではないもののように感じられる。喉の奥がひりついていた。

「その顔やめて」

結衣の声が耳元で聞こえて、私は肩をすくめた。振り返るより先に、彼女の手が私の襟元に伸びてくる。

「見てるこっちが落ち着かない」

指先が布の皺を探り、一瞬だけ首筋のすぐ下に触れた。冷たい。結衣の指はいつもそうだ。忙しく動き続けているくせに、指先だけがひどく冷えている。その冷たさが皮膚に触れた瞬間、私は自分の息が浅くなっているのに気づいた。

「息止めないで。また肩上がってる」

「止めてない」

「止めてる」

結衣は襟の左右を見比べ、親指で布の折り目を丁寧に伸ばしていく。ぶっきらぼうな言い方をするくせに、その手つきは驚くほど正確で、丁寧だった。まるで、乱暴な言葉を使うことで、指先の優しさを誰にも気づかれないように隠しているみたいに。

「衣装、緩くない?」

「分からない」

「分からないままにしないで。緩かったら本番中にずれる」

「緩くない、と思う」

「思う、じゃなくて」

「緩くない」

言い直すと、結衣は小さく息を吐いた。呆れたような、それでもどこか安心したような息だった。

袖の奥では衣装係が、藤崎蓮のために仕立てられていたはずの学ランのボタンを一つずつ確かめている。彼のために詰められていた寸法は、私の体には少し大きい。袖口の折り返しが昨夜のうちに縫い直され、裾の内側にも新しい待ち針が光っていた。誰かが椅子を引く音が乾いた床に反響し、その振動が足の裏から伝わってくる。私はその全部の音を、ひとつひとつ拾うように聞いていた。

まだ自分の番が来ていないことに、安堵している。

けれど同時に、来てほしくないと思っている自分にも気づいてしまう。

その矛盾を抱えたまま立っていると、結衣が私の顔を覗き込んだ。

「今、逃げたいって思ってるでしょ」

「思ってない」

「思ってる。目が忙しく動いてる。誰かの手元ばかり見て、視線を合わせるのを避けてる」

「それは、いつもの癖」

「癖でも今は困る。本番中にそれをやると、客席から見えるくらい落ち着かなく見える」

「じゃあ、どうすればいいの」

「一箇所だけ決めて見る。私でもいい。動かないものならどこでもいい」

「結衣は動くでしょ」

「今は動かない」

結衣はそう言って、私の正面に立ったまま、本当に足を止めた。腰に手を当て、顎を少し上げ、いつもの早口の指示が飛んでくるかと身構えたが、彼女は何も言わなかった。ただ、私を見ていた。

その視線の強さに、私はどうしていいか分からなくなる。褒められているのでも、監視されているのでもない。ただ、彼女がそこにいて、私が舞台へ向かうまでの短い時間を、一緒に数えてくれているような、そういう視線だった。

「……ありがとう」

思わず口にすると、結衣は片方の眉を上げた。

「何が」

「分からない。でも、言いたくなった」

「変なところで律儀」

「結衣が言わせてる」

「私のせいにするんだ」

「する」

結衣は小さく笑った。今度は隠さずに、はっきりと笑った。その笑いが、昨夜、看板の下でこぼれた笑いよりも少しだけ長く続いた。

「本番前にそれ、反則」

「何が」

「笑わせるの。手元が狂う」

「それ、昨日結衣が言った台詞」

「使えるものは使うんでしょ」

私が返すと、結衣は「生意気」と呟いて、また私の襟元に手を伸ばした。もう直すところなどないはずなのに、彼女の指は布の上をもう一度なぞる。それが直す動作ではなく、確かめる動作だということに、私は気づいていた。

私が本当にここに立っているかどうかを、彼女は指先で確かめている。

袖の奥、衣装係の女子が小さく声を上げた。

「結衣、こっちのボタン、取れそう」

「今すぐ?」

「本番までは持つと思う。一応、糸だけ足しとく」

「お願い」

結衣が声を張ると、女子はすぐに針箱を引き寄せた。糸を通す指先が、ほんの少し震えている。誰もが今夜からずっと、同じ震えを抱えたまま動いていた。

そのとき、暗がりの奥から足音が近づいてきた。

榊原先生だった。

黒縁眼鏡の向こうで、先生は一度だけ私を見た。長い視線ではない。むしろ短すぎるくらいの一瞬だった。けれど、その一瞬で全部を見抜かれているのが分かる。先生は何も言わず、私の右肩をひとさし指で軽く示した。

「肩、前に出ている」

説明はそれだけだった。

私は自分の肩を見た。見えるはずもないのに、意識するとその位置がはっきり分かる。緊張すると、私は右肩を前に出し、体をわずかに斜めに構えてしまう癖がある。舞台の中央に立つとき、それでは正面から見て歪んで見えるのだと、昨夜結衣に何度も直された。

「はい」

「直すのは今じゃない。舞台の上で気づけ」

先生はそう言って、それ以上は何も告げなかった。踵を返し、袖の奥の暗がりへ戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、私は先生の言葉の意味を考えた。

今直せ、ではなく、舞台の上で気づけ、と先生は言った。

それは、失敗を許すという意味ではないと思う。むしろ、失敗する前提で立て、と言われているようだった。完璧に整えられた体で立つのではなく、崩れかけたまま立って、そのズレに自分で気づき、自分で戻す。その往復こそが、舞台に立つということなのかもしれない。

結衣が私の肩に軽く触れた。

「聞いた?」

「聞いた」

「直る?」

「分からない」

「分からないままでいい。気づけばいいって、先生言ったから」

「それ、今の私に都合よすぎない?」

「都合よくしていいの。今夜だけは」

結衣はそう言って、私の第二稿を一度だけ覗き込んだ。ページの端、蛍光ペンの線が重なった余白に、彼女は昨夜のうちに新しい文字を書き足していた。

《ユウ、沈黙を怖がらない》

その一文を、結衣の指がなぞる。

「これ、本当は蓮のために書いた言葉じゃない」

「え?」

「私が、自分に言いたかった言葉。ずっと沈黙が怖かった。誰かが黙ると、私が何か間違えたんじゃないかって思う。だから、先に喋る。先に動く。先に決める。あんたを稽古に引っ張り込んだのも、たぶん同じ理由」

結衣の声は、いつもより低く、静かだった。

「でも、昨日の夜、あんたが黙って台本を見てるとき、私、初めて分かった。あんたの沈黙は、逃げてるんじゃなくて、探してる沈黙だった。台詞を、間を、自分の声で言える場所を探してる。そういう沈黙は、埋めなくていいんだって」

「私は、ずっと結衣に急かされてる気がしてた」

「急かしてた。ごめん」

「謝らなくていい」

「謝る。急かさなかったら、あんたはもっと早く、自分の間を見つけられたかもしれない」

「それは分からないよ」

「分からないけど、そう思う」

結衣は台本を閉じ、私の胸へそっと押し戻した。

「本番中、間が怖くなったら、私を見て。私は動かない。あんたが好きなだけ黙っても、私はそこにいる」

その言葉を、私はすぐには受け取れなかった。誰かにそこまで言われたことが、これまでの人生でほとんどなかったからだ。見ているだけだった私に、動かずに待っていると誓う人がいる。それがどれほど奇妙で、どれほど温かいことか、うまく言葉にできない。

「結衣」

「何」

「舞台が終わったら、聞いていい?」

「何を」

「今の言葉の続き」

結衣は一瞬、目を丸くした。それから、耳のあたりがゆっくり赤くなっていくのが見えた。

「続きなんてない」

「あるでしょ」

「ない」

「じゃあ、無いなら無いって、舞台が終わってから言って」

「屁理屈」

「結衣に教わった」

結衣は何か言い返そうとして、けれど言葉の代わりに小さく笑った。その笑いが、袖の暗がりの中で、ほんのわずかに舞台の熱を分けてもらったように、私の胸のあたりへ広がっていく。

幕の向こうで、照明の準備を告げる合図が鳴った。

客席のざわめきが、一段と重く低くなる。舞台袖の空気が、さらに濃くなった気がした。結衣が私の背後に回り、もう一度だけ襟元を確かめる。指先はもう震えていない。

「行けるよ」

その一言だけを残し、結衣は舞台監督の位置へ戻っていった。

私は第二稿を胸に抱き、暗がりの奥、まだ光の当たっていない舞台の中央を見つめた。壊れかけのピンスポットが、天井近くでかすかに軋む音を立てている。あの光がついたとき、私はそこに立つ。完璧でもなく、蓮の代わりでもなく、ただ、今夜ここにいる私の声で。

雨で冷えていた制服は、もう舞台の熱をすっかり吸い込んでいた。

その重さが、今は少しも嫌ではなかった。

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袖の熱と、襟元の指 - 雨音の代役 - 誰でも作家life