第7話 白い薬袋と、濡れた前髪

夜明けが、浜見坂高校の窓ガラスの端から薄く溶け込んでくる。
雨はいつの間にか細くなっていた。降っているというより、校舎全体が湿った息を吐いているような音だった。視聴覚室の机には、昨夜のままの第二稿、切れ端になったガムテープ、乾いたココアの紙カップが残っている。白いテープで囲まれた舞台の中央には、何人分もの靴跡が重なり、どれが誰のものか分からなくなっていた。
私は机に突っ伏していたらしい。
頬に、第二稿の蛍光ペンの跡がついている。指で擦ると、黄色い粉が少し落ちた。喉は乾き、声を出す前から奥がひりついている。制服の裾はまだ湿っていたが、母のタオルを肩にかけたまま眠ったせいか、冷たさは残っていなかった。
携帯電話を見る。
母からのメッセージが三件並んでいた。
《まだ学校?》 《食べた?》 《返事は急がなくていいけど、濡れた制服のまま寝ないで》
最後の一文を読んで、私は小さく息を吐いた。返事を急がなくていいと言いながら、三件も送ってくる。そういうところが母らしい。
《起きてる。おにぎり食べた。タオル使った》
送ってから、少し迷った。
《今日、舞台に出る》
文字にすると、昨夜のことが急に現実味を持った。私は画面を閉じ、もう一度開いて、結局その文を送った。
返信はすぐには来なかった。
窓の外で、雨粒がひとつ、ガラスを伝って落ちていく。私はその筋を目で追った。階段を下りて、昇降口から出て、坂道を下れば駅前の図書館へ行ける。開館時間にはまだ早いけれど、図書館の前の屋根の下で時間を潰すことはできる。いつものように、本棚の前に立って、誰にも名前を呼ばれずにいられる。
そこまで考えたところで、視聴覚室の扉が開いた。
相馬結衣が入ってきた。
濡れた前髪を耳にかけ、何事もなかったような顔をしている。けれど、左手には保健室の白い薬袋が握られていた。袋の角が少し潰れ、透明なビニール越しに、錠剤の入った小さな包みが見える。
結衣は私を見るなり、眉をひそめた。
「起きてたなら、顔を洗って。照明が当たったら、その蛍光ペン跡、客席から見える」
「おはよう」
「おはようじゃない。顔」
「結衣も髪が濡れてる」
「私はいいの」
「よくないでしょ」
「今そこを直す時間はない」
結衣はそう言いながら、壁に立てかけてあった手描き看板へ歩いた。看板には、公演名の最後の一文字だけが空いている。何度も塗り直した跡があり、紙の表面は湿気で波打っていた。
結衣は赤い筆を取り、残った空白へ文字を書き足した。細い腕を伸ばし、肩を少し上げ、息を止めている。昨夜、私が台詞を言う前にしていたのと同じ呼吸だった。
筆先が止まる。
結衣は看板から一歩下がり、首を傾けた。文字がわずかに右へ寄っている。彼女は舌打ちしかけ、けれど途中でやめた。代わりに、看板の端を押さえていたガムテープを剥がし、貼り直す。
びりっ、と乾いた音がした。
「薬袋、藤崎の?」
聞くと、結衣の手が一瞬だけ止まった。
「見えてたなら聞かないで」
「でも」
「熱は下がってない。今朝、保健室の先生から連絡が来た。水分は取れてる。喋れる。本人は出るって言ってる」
「出るの?」
「出られない」
「でも、本人が出るって」
「本人が出るって言えば、三十九度の熱が消えるなら、今ごろ薬袋なんか持ってない」
結衣は看板の縁を親指で押さえた。声はいつも通りきついのに、目線だけが少し疲れている。
「蓮は、舞台に立てない。立たせない。あいつが嫌がっても、先生が止める。だから、あんたが出る」
当日配役表が、机の上から私のほうへ押しやられた。
昨夜まで空白だった代役欄に、太い黒文字で私の名前が印刷されている。見慣れたはずの二文字が、他人の名札のようだった。私の名前なのに、私より先に舞台へ行こうとしている。
結衣はその下端を、指で軽く叩いた。
「ほら。逃げるなら今のうち」
私は紙から目を上げた。
「逃げたら、どうなるの」
「困る」
「結衣が?」
「みんなが」
「それ、昨日も聞いた」
「じゃあ、今日は違う言い方をする。あんたが逃げたら、舞台は止まる。誰か別の人を立たせることはできるかもしれない。でも、その人は今から、あんたと同じだけの時間で、あんたが積み上げた間と動きを覚えなきゃいけない。照明も音響も、もうあんたが立つ前提で組み直してる。衣装の襟も、袖入りの位置も、二場の机の角度も。あんたが昨日からここにいた時間は、もう舞台の中に入ってる。逃げたら、その時間ごと捨てることになる」
「私が勝手に残っただけなのに」
「勝手じゃない。残るって決めた」
「決めたのは、結衣に追い込まれたから」
「最初はね。でも、途中からは違う」
「どこから?」
結衣は答えなかった。
看板の前から離れ、机に置いた第二稿を開く。蛍光ペンの線が重なり、ページの端には昨夜までなかった新しい書き込みが増えている。結衣の細い字で、「照明二秒遅れ」「三場、袖の椅子撤去」「客席中央、通路狭い」と書かれていた。
彼女は台本の余白に、さらに一行を書き足した。
《ユウ、沈黙を怖がらない》
「これ、いつ書いたの」
「寝てる間」
「結衣、寝たの?」
「目を閉じただけ」
「それは寝たうちに入らないよ」
「入る。私の中では」
「結衣の中だけで決めないで」
「何。あんたまで先生みたいなこと言うの」
「先生はもっと短い」
結衣が顔を上げた。ほんの少しだけ口元が緩む。
「それはそう」
笑ったのかと思ったが、結衣はすぐに配役表へ視線を戻した。
私は白い薬袋を見た。結衣の左手の中で、紙袋が小さく揺れている。
「藤崎は、何て言ってたの」
「何が」
「舞台のこと」
「出るって」
「それだけ?」
結衣は薬袋を机へ置いた。白い紙が、乾いたココアのカップの隣に並ぶ。
「蓮は、ずっと自分が出るつもりだった。熱が出ても、最初は平気な顔をしてた。昨日も、私が気づくまで冗談を言ってた。『声が出るなら問題ない』とか、『客席は暑いから熱くらいあったほうが釣り合う』とか。そういうくだらないことを言って、みんなを安心させようとした」
結衣は薬袋の口を折り直した。
「でも、保健室で立ち上がれなくなったとき、やっと黙った。先生に『出たい』って言って、それから『出られないなら、誰かに渡せ』って言った」
「誰かに渡せ?」
「役を。自分が立てないなら、舞台まで止めるなって。あいつ、そういうところだけは妙に分かってる」
「それ、蓮が私を選んだの?」
結衣は少し考えた。
「選んだのは私。蓮が言ったのは、誰かに渡せってことだけ」
「じゃあ、私は蓮の代わりになれてない」
「代わりにならなくていい」
「昨日、結衣は代役って言った」
「言った。言わないと、あんたが来なかったから」
「今は?」
結衣は私を見た。
その目には、昨夜の焦りだけではないものがあった。疲れと、諦めの悪さと、何かを信じることに慣れていない人が、それでも手放さずにいるもの。
「今は、あんたが出る」
それだけだった。
でも、その言葉は「代役」と違っていた。誰かの不在を埋めるための部品ではなく、今日の舞台へ向かう人間へ置かれた言葉のように聞こえた。
結衣は私の制服の襟元を見た。
「ちょっと、こっち」
「何」
「襟、曲がってる」
「自分で直せる」
「今のあんたに任せると、左右が違うまま本番に行く」
結衣は返事を待たず、私の前に立った。指先が襟の布をつまみ、折り目を伸ばしていく。昨夜も同じように直された。けれど今朝は、近さの意味が少し違った。
濡れた前髪から、雨の匂いがした。
結衣の親指が襟の端を押さえ、喉のすぐ下で止まる。私は息を浅くした。近距離で聞こえる結衣の呼吸は、まだ少し乱れていた。
「息止めないで」
「止めてない」
「止めてる。肩が上がってる」
「結衣の指が近いから」
言ってしまってから、視聴覚室の空気がほんの少し変わった。
結衣の指が止まる。
「……そういうこと、本番前に言う?」
「言ったら駄目なの?」
「駄目じゃないけど、困る」
「何に」
「手元が狂う」
結衣は襟元から手を離した。耳が赤い。けれど、すぐに黒いクリップボードを抱え、いつもの顔へ戻ろうとする。
「はい、整った。あとは顔」
「顔は自分でどうにかする」
「その顔で出たら、客席が心配する」
「どういう顔?」
「逃げる顔」
私は言い返そうとした。けれど、結衣の左手に置かれた薬袋が目に入った。彼女は誰かの体調を気にし、舞台の位置を直し、看板の文字を乾かし、私の襟を整えている。全部を自分の手で持とうとしている。
「結衣」
「何」
「薬、私が持つ」
「いい」
「でも、看板も台本も配役表もあるでしょ」
「持てる」
「持てるかどうかじゃなくて、分けたほうがいい」
結衣は眉を寄せた。
「私は舞台監督」
「だから、薬袋を持ったまま走らなくていい」
「走らない」
「走るよ。昨日もずっと走ってた」
「走ってない。早歩き」
「同じ」
「違う」
「結衣」
名前を呼ぶと、結衣は黙った。
私は自分でも驚いていた。普段なら、相手が黙った時点で話を引っ込める。空気を読んで、なかったことにする。けれど今は、薬袋を見たまま続けた。
「私に任せて。薬袋だけでも」
「薬を落としたらどうするの」
「落とさない」
「体調のことを聞かれたら?」
「藤崎は保健室にいるって答える」
「それ以上聞かれたら」
「結衣が答える」
「私がいないときは」
「電話する」
「電話に出られなかったら」
「先生に聞く」
「先生が舞台を見てたら」
「じゃあ、保健室へ行く」
結衣の目がわずかに揺れた。
「……あんた、急に段取りを作るね」
「追い込まれてるから」
「私の真似?」
「違う。結衣の手が空かないから」
結衣は薬袋を見下ろした。紙袋の白さが、汚れた机の上でひどく目立っている。
「私は、誰かに任せるのが苦手」
「知ってる」
「知ってるって、いつから」
「昨日から。机の位置も、自分で直す。台本も自分で押さえる。人に頼む前に、もう自分で手を出してる」
「見てたんだ」
「見てた」
その言葉を口にしたとき、胸の奥に小さな抵抗があった。見ているだけだった自分を、私はずっと何もしていない人間だと思っていた。でも、私は見ていた。結衣の指の動きも、蓮の立ち方も、誰かが笑いを飲み込む瞬間も。
見ていたから、今ここで手を出せる。
結衣は薬袋を私へ差し出した。
紙袋の重さはほとんどなかった。けれど、受け取った瞬間、誰かの体調と、今日の舞台と、結衣が抱え込んできた焦りが、まとめて掌へ移ってきたように感じた。
「落とさないで」
「落とさない」
「中、開けないで」
「開けない」
「薬の名前を聞かれても、分からないって言って」
「分からないものは分からない」
「それ、昨日の私の台詞」
「使えるものは使うんでしょ」
結衣が少しだけ目を細めた。
「……生意気」
「褒めてる?」
「褒めてない。使えるって言ってる」
私は笑った。結衣はすぐに顔を背けたが、耳がまた赤くなった。
廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。
「結衣! 看板、乾いた!」
男子の声が響く。
結衣は反射的に返事をしかけ、途中で私を見た。
「行くよ」
「うん」
「配役表、持って」
「薬袋も?」
「それはあんたが持つって言ったでしょ」
「言った」
私たちは視聴覚室を出た。
廊下の窓から差す朝の光は、まだ白く、校舎の古さを隠していなかった。壁の塗装はところどころ剥がれ、掲示板には剥がしきれない去年の画鋲跡が残っている。床には昨夜のガムテープの切れ端がいくつも落ちていた。
結衣は二歩進んだところで足を止め、振り返った。
「忘れ物」
「何?」
「第二稿」
私は机の上へ戻り、台本を取った。
そのとき、ページの端に、昨夜はなかった赤鉛筆の印を見つけた。榊原先生の字だった。
《間を恐れない》
私は指でその文字をなぞった。
部屋の外から、結衣の声が飛んでくる。
「早く!」
「今行く!」
返事が、思ったより大きく出た。
廊下の音が一瞬だけ止まり、誰かがこちらを見た。名前を呼ばれたわけでもないのに、視線が集まる。いつもなら、その瞬間に身体が固まっていた。
私は第二稿を抱え、白い薬袋を持ち直した。
視聴覚室の中央に残った靴跡が、扉の向こうへ続いている。私はそれを追って、廊下へ出た。
階段の踊り場で、結衣が待っていた。濡れた前髪をまた耳にかけている。今度は一度だけだった。
「本番、怖い?」
結衣が聞いた。
私はすぐに答えられなかった。怖い。失敗したらどうする。客席が静まり返ったら。台詞が抜けたら。蓮の不在を、私の下手さで余計に目立たせたら。
それでも、配役表の紙は掌に残っていた。私の名前がある。白い薬袋の重さもある。結衣が私に渡したものが、二つとも、逃げ道ではなく役目の形をしていた。
「怖い」
正直に言うと、結衣は少しだけ顎を引いた。
「そう」
「結衣は?」
「怖いに決まってる」
意外だった。
「怖く見えない」
「見せてないから」
「どうして」
結衣は階段の手すりへ手を置いた。古い金属が、朝の湿気で冷たく光っている。
「怖い顔をしたら、みんなが止まる。だから、先に怒る。先に動く。先に手を出す。そうしてるうちに、自分でも、怖いのか忙しいのか分からなくなる。でも、分からなくても舞台は始まる」
「それでいいの?」
「よくない。でも、今はそれで持つ」
結衣は私の胸元を見た。
「舞台も、人間も、最初から全部整ってることなんてない。整ってないまま、誰かが次の人の手を取って、どうにか形にする。あんたが昨日やったのは、そういうこと」
「私、誰かの手を取った?」
「取った。私の台詞を待った」
それは、ほんの一拍のことだった。けれど結衣は、そこに手を取られたようなものを感じたのかもしれない。
「今日も待てるかな」
「待てる。待てなかったら、私が机を叩く」
「先生みたい」
「先生よりうるさい」
「それはそう」
「何」
「結衣は、声が通るから」
結衣は眉をひそめた。
「それ、舞台監督としては普通」
「普通じゃないよ。小さいのに」
「小さいは余計」
「ごめん」
「謝るの早い。そこは言い返して」
「でも、本当のことだし」
「本当のことでも、言っていいことと悪いことがある」
「じゃあ、結衣は小さいけど頼りになる」
「褒め方が雑」
「結衣に合わせた」
結衣は一瞬、笑いそうになった。けれど、口元を押さえ、結局こらえきれずに短く息を漏らした。
その笑いは、蓮のように場を明るくするものではなかった。小さく、疲れていて、隠しきれずにこぼれた笑いだった。
私はそれを、きれいだと思った。
そう思ったことを、口にはしなかった。口にすれば、また結衣の手元が狂うかもしれない。
「行くよ」
結衣が言った。
「うん」
私たちは階段を下りた。
廊下の先では、手描き看板が乾かすために立てかけられていた。絵の具のにじみは消えていない。公演名の最後の文字は少し右へ寄り、ガムテープの跡が端から覗いている。それでも、読めた。
看板の下に、当日配役表が貼られていた。
私は足を止めた。
私の名前が、藤崎蓮の名前の下にある。代役という小さな文字が添えられている。目を逸らしたくなった。けれど、今度は逃げなかった。
結衣が隣に立つ。
「見すぎ」
「見てる」
「見てるだけじゃないでしょ」
昨日と同じ言葉だった。
けれど今日は、その意味が少し違って聞こえた。
私は白い薬袋を持つ手に力を込め、第二稿を胸へ抱いた。
「結衣」
「何」
「これ、終わったら返す」
「何を」
「薬袋」
「当たり前。蓮のだから」
「それと、台本」
「台本も」
「じゃあ、私の名前が載った配役表は?」
結衣は看板の下の紙を見た。
「それは、あんたが持ってていい」
「いいの?」
「破らないなら」
「破らない」
「濡らさないなら」
「濡らさない」
「なくさないなら」
「結衣」
「何」
「私、そんなに信用ない?」
結衣は答える前に、髪を耳へかけ直した。今度はゆっくりだった。
「信用がないんじゃない。まだ、信用しきる途中」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
完成した言葉ではなかった。結衣らしい、途中のままの言葉だった。けれど、だからこそ逃げられなかった。
私は配役表を剥がし、手帳の間へ挟んだ。紙の端が少しだけはみ出す。駅前の図書館の貸出票を挟んでいた場所に、今度は自分の名前の載った紙が入った。
その隣で、結衣が看板の端をもう一度押さえた。
「本番まで、あと二時間」
「二時間しかない」
「二時間ある」
「同じことなのに、言い方で違って聞こえる」
「舞台監督だから」
「便利だね」
「何が」
「言い方を変えるだけで、逃げ道がなくなる」
結衣は少しだけ私を見る。
「逃げ道はあるよ」
「どこに?」
「舞台の上。間違えたら、次の台詞へ行く。止まりそうなら、相手を見る。どうしても無理なら、私を見る。私が何か合図する」
「結衣がいなかったら?」
「いる」
即答だった。
その声には、昨夜までの強引さとは違う、決めてしまった人間の静けさがあった。
私は、階段の下へ伸びる自分たちの影を見た。朝の光が薄く、二つの影を床へ落としている。結衣の影は小さいのに、声と同じように先へ伸びている。私の影はその隣で、少しだけ遅れていた。
それでも、離れてはいなかった。
遠くで、始業前のチャイムが鳴った。
私は第二稿を開いた。最初の台詞を探す。もう、文字がただの他人の書き込みには見えなかった。誰かの手で継ぎ足され、直され、間違えられた紙の上へ、これから私の声も重なる。
結衣が先に歩き出す。
「来る?」
私は一度だけ息を吸った。
「うん。行く」
今度は、返事が遅れなかった。
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