6話 藤崎蓮の声、私の喉

録音音声は、思ったよりずっと軽やかだった。

誰かがスマートフォンを視聴覚室の机に置き、再生ボタンを押す。スピーカーの向こうから流れてきた藤崎蓮の声は、明るく、滑らかで、息継ぎの位置まで整っていた。言葉の終わりが丸くて、まるで最初から観客の前に立つことを知っているみたいだった。

「雨が止むまで、ここにいる」

たった一行なのに、声が部屋の奥まで迷わず進んでいく。古い窓を叩く雨音や、壁際で衣装を直す針の音を、押しのけるのではなく包み込んでしまう。

私はその声を聞いた瞬間、自分の喉がひやりと縮むのを感じた。

同じ役なのに、こんなに違うのかと思う。いや、違うから代役なのだ。そう頭では分かっている。分かることと、できることは別だった。

「蓮なら、ここでもう半歩前」

結衣がそう言って、机の上の台本を指で押した。

私は白いテープの内側に立っていた。足元の線から、靴の先がほんの少し離れている。

「じゃあ、私は半歩後ろでいい」

「そういう逃げ方しない」

「逃げてるんじゃないし」

「逃げてるよ。今のは完全に」

結衣の言葉は速かった。焦ると早口になる。片手で台本を押さえながら、もう片方の手で机の角を数センチ動かす。その横顔は怒っているようにも、何かを必死に探しているようにも見えた。

言い返したくなった。

けれど、言い返すたびに自分の声がみっともなく揺れるのが分かって、私は唇を噛んだ。榊原先生はそれを見ていたのか、ただ一度だけ机を指で叩いた。

「右」

短い。

腹立たしいほど短い。

でも、その一言で私は確かに一歩ずれていたことに気づいた。結衣が言うより先に先生が見抜く。私の遅れを、周りが先回りして拾っていく。

私は右足を動かした。

「そこじゃない。右足だけ」

「……はい」

「肩が逃げている」

先生が指で示した。

私は自分の肩を見た。見えるはずもないのに、前へ出ようとして固まった身体の形が分かった。舞台の中央へ立っているのに、上半身だけが出口を探している。

「肩を開け」

「開くって、どうやって」

「客席を見る」

「見たら、固まります」

「固まってから直せ」

先生はそれだけ言った。

数学の問題なら、途中式を教えずに答えだけ要求されているようなものだった。けれど、舞台ではその乱暴さが少し違って聞こえる。先生は私をできる人間だと思っているのではない。できないまま、どこで止まるのかを見ようとしている。

それが、かえって怖かった。

録音の中の蓮は、笑いながら台詞を置いた。舞台の中心に立つことを、当たり前のように引き受けている。その軽さが、今の私には眩しすぎる。

私は蓮の立ち姿を思い出した。

昨日の公開稽古で、蓮は台詞を言っていない時間さえ舞台の上にいた。相手役の言葉を聞くとき、ほんの少し顎を引き、次の瞬間にはもう客席の視線を受け止める準備ができていた。何かをしているから主役なのではなく、そこに立っていること自体が、すでに役になっていた。

私が同じ場所へ立つと、床の白いテープばかりが気になる。

「足元見すぎ」

結衣が言った。

怒っているふうなのに、声は妙に近かった。

「見ないと、線から出る」

「線から出てもいい。客席から消えるよりまし」

「でも、間違えたら」

「間違えたら戻す」

「結衣が?」

「私が」

「いつも結衣が直すの?」

「必要なら」

「それじゃ、私が何をしても結衣が後ろで直すことになる」

「そうならないように、今、直してる」

「直すっていうより、蓮に合わせてるだけじゃない」

私の声が、思ったより大きく出た。

部屋が静かになった。

壁際で学ランの袖を縫っていた女子の手が止まり、照明係の男子がスマートフォンから顔を上げる。雨は変わらず窓を叩いているのに、その音さえ一度遠のいたようだった。

結衣は怒鳴らなかった。

台本の端を親指で押さえ、そこに残った赤い線を見ている。何度も紙を押さえ、離し、また押さえる。彼女が迷うときの動きだった。

「蓮が何週間もかけて作った動きを、今夜ぜんぶ捨てるわけにはいかない」

結衣は言った。

「台詞の順番も、照明の合図も、相手役との距離も、蓮が立つ前提で組んである。それを一度ばらして、あんたが立てる形に直してる。だから、蓮ならこうするって言うしかない」

「それなら、蓮の代わりを探してるんじゃなくて、蓮の残骸に私を合わせてるだけじゃない」

誰かが小さく息を呑んだ。

私は自分でも、言いすぎたと思った。けれど、一度出た言葉は戻らなかった。

蓮と比べられるたびに、自分の薄い輪郭を指で擦られているようだった。舞台の中央へ立たされても、私は空っぽの場所を埋めるために呼ばれただけだ。そこに私自身がいる必要はない。

結衣はしばらく黙っていた。

普段なら、間が空く前に次の指示を出す。机を動かす。誰かへ仕事を振る。けれど今は、台本を押さえる指だけが止まっていた。

「……そうやって、先にいなくなるの」

「え?」

「いらないって、自分で決めて、相手が決める前に消える。そうすれば傷つかないから」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「結衣に何が分かるの」

「分かるよ。私もそうだから」

結衣は腕を組んだ。けれど、その姿勢はいつもの威圧ではなく、崩れそうなものを押さえているように見えた。

「頼んで、間に合わなかったら困る。任せて、失敗されたら困る。だから最初から自分でやる。自分が全部やって、誰にも期待しなければ、誰かに裏切られたとは思わなくて済む。そうしてると、誰かが手を出してくれても、任せるほうが怖くなる」

「それで、私にも蓮みたいにしろって言うの?」

「言いかけてた。だから、今は私が悪い」

結衣は私を見た。

「蓮の声を聞くと、蓮みたいにしなきゃって思うでしょ。でも、蓮はもう舞台にいない。いない人の立ち方を真似しても、足元がずれるだけ。今ここにいるのはあんたで、あんたの息しか使えない。だったら、それで合わせるしかない」

「合わせられなかったら?」

「合わせられるまでやる」

「ずっと?」

「ずっと」

「それ、結衣が全部やるってことじゃないの」

「違う。あんたが失敗しないようにするんじゃない。失敗しても止まらないようにする。私が作りたいのは、そういう舞台」

結衣は一度、浅く息を吸った。

「私は、あんたを蓮にするつもりはない。蓮の代わりを、完璧に作るつもりもない。そんなもの、一晩でできるわけがない。できないから、今いる人間で立つ。あんたの遅れも、声の細さも、足元を見る癖も、全部残ったまま、それでも客席へ届く形を探す」

「私の遅れなんて、ただの失敗でしょ」

「失敗かどうかは、使い方を決めてから言って」

その言葉に、私は返事ができなかった。

榊原先生が眼鏡を押し上げる。

「録音を止める」

照明係の男子が再生を止めた。

蓮の声が消える。

部屋には雨と、誰かの浅い呼吸だけが残った。

「蓮に寄せるな」

先生が言った。

「でも、動きは残す」

結衣が答える。

「動きは構造だ。声は本人のものだ」

先生は私を見た。

「お前の声で、相手に届けばいい」

「届くかどうか、分かりません」

「届くまでやる」

結衣と同じ言葉だった。

私は台本を見た。蓮の声は、私の喉よりずっと遠くまで伸びる。立ち姿も、間の置き方も、笑い方も違う。追いつこうとすればするほど、自分の身体が固くなる。

なら、蓮の声を追うのではなく、私が聞いたものを使えばいい。

結衣が次の台詞を待っているときの浅い呼吸。衣装係が針を止める瞬間。照明係がスイッチを押す前の指の迷い。誰かが聞こうとしているとき、部屋の音は少しだけ薄くなる。

私はその薄さを知っている。

普段、私はそこにいる。教室の端で、輪の外で、誰かの会話を少し離れた場所から聞いている。見ているだけだと思っていた。でも、聞いていたからこそ、誰かが次の言葉を待つ瞬間が分かる。

結衣が台本を閉じた。

「今の場面、録音なしでやる」

「まだ覚えてない」

「相手の台詞を聞いて返す。台本は持ってていい」

「それ、本番でできるの?」

「本番でできるかを、今確かめる」

結衣は相手役の位置へ立った。私から二歩ほど離れた場所。いつもなら、すぐに距離を直す。けれど今回は動かなかった。

「雨が止むまで、ここにいる」

結衣の声が届く。

私は台本を見た。文字は知っている。けれど、紙から顔を上げるまでに一拍遅れた。

結衣の指が、台本の端で止まった。

私はその停止を見た。

「止まない雨もある」

一行、口にした。

結衣の目がわずかに動く。次の台詞を待っている。私は先に言葉を探そうとせず、その待っている間へ身体を置いた。

「それでも、止むまでここにいる」

声は小さい。

けれど、床へ落ちた。

誰も笑わなかった。

雨音が遠い。窓の外の海も、廊下の足音も、母からのメッセージも、いったん部屋の外へ退いている。私は自分の声が、誰かの声を押しのけたのではなく、誰かの声の後ろへ続いていったことを感じた。

結衣が台本を下ろした。

「今の」

私は身構えた。

「何」

「もう一回」

「駄目だった?」

「逆。変だった」

胸が沈む。

結衣はすぐに続けた。

「でも、使える変さだった。蓮ならもっと早く返す。あんたは一拍遅れた。その遅れで、ユウが本当に考えてるみたいに見えた」

「それ、褒めてる?」

「褒めてない。使えるって言ってる」

「同じじゃない?」

「違う」

結衣の耳が赤くなった。

私はまた、彼女の台本を押さえる指を見た。今度は震えていなかった。私の返事を待つために、力を抜いている。

それが、少しだけ嬉しかった。

蓮の声は、まだ耳の奥に残っている。明るく、滑らかで、どこまでも先へ進む声。私はきっと、あんなふうには話せない。舞台の中央に立っても、蓮のように空気を明るくはできない。

けれど、私には私の遅れがある。沈黙の長さがある。相手の手元を見て、次の呼吸を待つ癖がある。

それを欠点のままにするか、役の形にするかは、まだ決まっていない。

私は台本を持ち直した。

「もう一回やろう」

結衣が顔を上げた。

「言われなくても、そのつもり」

「結衣」

「何」

「今度は、蓮ならって言わないで」

結衣は一瞬、目を丸くした。

「分かった」

「本当に?」

「分かったって言ってるでしょ。代わりに、あんたが遅れたら、遅れたって言う」

「それは言っていい」

「あと、声が小さかったら小さいって言う」

「それもいい」

「足がずれたら直す」

「それも」

「顔が怖かったら茶化す」

「それは……少しだけ、やめてほしい」

「無理。そこは私の役目だから」

笑いが起きた。

今度は私も笑った。笑った拍子に、喉の奥が少し痛んだ。声を張ったあとの震えが残っている。結衣がそれに気づき、机の上の水筒を私へ差し出した。

「飲んで」

「結衣の?」

「そう。少しだけ」

「間接的に?」

「そういうこと気にするなら、早く自分の水を買ってきなよ」

私は水筒を受け取った。蓋の縁に、結衣の体温が残っているような気がした。口をつける前に、彼女が顔を逸らす。

その仕草が、いつもの強い声よりずっと分かりやすかった。

私は少しだけ水を飲んだ。

冷たかった。乾いた喉の奥を通り、胸のあたりへ落ちていく。

榊原先生が机を叩く。

「最初から」

「はい」

結衣が答える。

私は白いテープの内側へ戻った。録音機器の画面は暗いままになっている。そこに蓮の声はない。

窓の外では、雨がまだ降っている。

それでも私は、さっきより深く息を吸えた。蓮の声の後ろではなく、結衣の呼吸の前へ。誰かが待っている、その一拍へ。

「雨が止むまで、ここにいる」

今度は、私の声だった。

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藤崎蓮の声、私の喉 - 雨音の代役 - 誰でも作家life