第10話 光の外側で、息を合わせる

私はその光の中へ、もう一歩出た。
舞台板が、靴の裏でかすかに鳴った。
客席の暗がりは、思っていたより深かった。人の顔はほとんど見えない。ただ、前列の端にいる誰かの白いシャツと、後方で揺れた髪の影だけが、薄い明かりの中に浮かんでいる。
私を見ている。
その事実だけが、照明より熱く身体へまとわりついた。
「雨が止むまで、ここにいる」
声を出す。
今度は、喉が震えなかった。
台詞は舞台の奥へ進み、暗い壁にぶつかってから戻ってくる。その戻ってきた声が、自分のものなのか、誰か別の人のものなのか、一瞬分からなくなった。
「止まない雨もある」
結衣の声が返る。
彼女は舞台の上にいる。けれど、私の視界の端にいるだけで、ほとんど見えない。私は事前に決めた位置へ目を向けた。結衣が動かないと言った場所。そこに視線を置けば、次の言葉が出てくる。
「それでも、止むまでここにいる」
間を置く。
昨夜なら、この沈黙が怖くて、すぐに次の台詞を急いでいた。客席から何かが飛んでくるわけでもないのに、黙った瞬間、自分の存在まで消えてしまう気がしていた。
でも、今は違った。
沈黙の向こうで、結衣が待っている。
舞台袖の暗がりで、誰かが息を吸う音がする。客席のどこかで、椅子がわずかに軋む。
待っている人がいるなら、私は急がなくていい。
次の場面へ移るため、私は一歩下がった。
そのとき、右の袖から小道具の机を押し出す音がした。予定より早い。机の脚が舞台板の継ぎ目に引っかかり、がたん、と大きく傾く。
客席の空気が揺れた。
私は反射的に手を伸ばした。
机の端を掴む。木のざらつきが掌に食い込み、身体が光の外へ引かれた。台詞はまだ続くはずだった。けれど、台本に書かれている言葉が、頭の中からすべて消えた。
舞台袖で、結衣が一度だけ指を鳴らした。
小さな音だった。
私は顔を上げた。
「大丈夫」
結衣が、役の台詞として言った。
本来なら、別の場面で使う言葉だった。けれど、その声が届いた瞬間、私は何をすればいいのか分かった。
「……大丈夫じゃない」
私は返した。
客席の前で、予定にない台詞を口にした。
結衣の目が、一瞬だけ見開かれる。
けれど、すぐに口元が動いた。
「じゃあ、どうするの」
私は傾いた机を押し戻した。脚が床を擦り、今度は小さく収まる。
「戻す」
「戻せる?」
「戻すまで、ここにいる」
言葉にしてから、それが役の台詞なのか、自分の言葉なのか分からなくなった。
結衣は一拍置いた。
その一拍を、舞台全体が受け取った。
「なら、私もいる」
結衣が言った。
客席から、誰かの息が漏れる。笑いではない。驚きに近い、短い音だった。
私は机から手を離し、光の縁へ戻った。右肩が少し外れている。たぶん、先生なら気づいている。けれど、今は自分で気づけた。
肩を戻す。
足の位置を確かめる。
それから、次の台詞を言う。
舞台は止まらなかった。
むしろ、予定通りに進んでいたときより、客席の空気が近くなった気がした。決められた言葉だけを並べるのではなく、起きたことを受け止め、その場で次の言葉を探している。誰かの失敗を誰かが拾い、拾ったものを別の誰かへ渡す。その繰り返しが、舞台を前へ運んでいく。
照明がまた揺れた。
壊れかけのピンスポットが、今度は私の顔を外し、結衣の足元を照らした。舞台の中央が急に暗くなる。
一瞬、客席のざわめきが膨らんだ。
「照明、戻せる?」
結衣の声が飛ぶ。
「無理、金具が――」
「なら、声で持たせて!」
彼女の指示が舞台袖を走る。
私は暗くなった舞台の中央で立ち尽くしかけた。顔が見えない。光がない。今まで頼りにしていたものが、ひとつずつ外れていく。
けれど、客席からは私の姿が見えていないかもしれない。その代わり、声なら届く。
私は息を吸った。
「見えないなら、聞いて」
台詞にはない言葉だった。
結衣が、少し遅れて続ける。
「聞こえている」
「本当に?」
「聞こえているから、ここにいる」
暗闇の中で、私たちの声だけが重なった。
舞台袖から、照明係の男子が器械を押さえる音がする。金具が軋み、光がゆっくり戻ってくる。完全ではない。さっきよりさらにずれて、私たちの間に細長い帯を落としている。
その光の帯を挟んで、結衣と向き合った。
「雨は、いつか止むと思う?」
結衣が台詞を言う。
私は答える前に、客席を見た。
見えない顔の向こうに、たくさんの人がいる。私が噛むか、止まるか、逃げるかを、待っている。昨夜までなら、その視線を避けることばかり考えていた。
でも、もう一度だけなら、受け止められる気がした。
「止まなくても」
私は言った。
「ここにいる人が、いなくならなければいい」
結衣の表情が、光の端でわずかに変わった。
この台詞は、第二稿にはない。
けれど、彼女は止めなかった。
「……それなら、雨の音も悪くない」
結衣が返す。
舞台の外で、雨が降っていた。旧体育館の屋根を叩く音が、幕の向こうからかすかに聞こえる。客席のざわめきも、照明器具の唸りも、誰かの靴が床を擦る音も、全部がひとつの音になっていく。
私はその音の中で、最後の場面へ進んだ。
台詞を忘れないようにするのではなく、相手の声を聞く。相手の声が届いたら、自分の声を返す。返した声が届けば、次の場所へ歩く。
それだけを繰り返した。
幕が下りる直前、私は光の中で立ち止まった。
右肩は少し前へ出ていた。けれど、自分で気づいて戻した。
客席は静かだった。
最後の台詞を言い終えたあと、その静けさが一瞬だけ長く続いた。失敗したのかと思い、指先が冷たくなる。
次の瞬間、拍手が起きた。
最初はまばらだった。やがて後ろの席からも音が重なり、古い体育館の天井へ大きく跳ね返った。
幕が閉じる。
私は舞台袖へ戻った。結衣が駆け寄ってくる。何か言おうとして、けれど先に私の肩を両手で掴んだ。
「今の、勝手に台詞変えたでしょ」
「変えた」
「心臓止まるかと思った」
「ごめん」
「謝るな。謝るくらいなら、最初からもっと上手くやって」
「無理」
「即答するな」
結衣は怒った顔をしていた。けれど、目の端が赤い。
舞台袖の奥で、榊原先生が一度だけ頷いた。
それ以上は何も言わない。
私は閉じた幕を振り返った。光はもう、私の肩を照らしていない。舞台には誰もいない。なのに、さっきまで立っていた場所の熱だけが、まだ足の裏に残っていた。
結衣が、私の襟元へ手を伸ばす。
今度は直すところなど、どこにもなかった。
それでも彼女は、布の端を指先でそっと押さえた。
「……続き、考えた」
「何を?」
「さっきの話」
結衣は私を見た。
「舞台が終わったら、あんたに頼ってもいいかもしれない」
それは、褒め言葉より小さく、告白より不器用な声だった。
私はすぐに返事をしなかった。
沈黙は、もう怖くなかった。
結衣は逃げずに、そこにいた。
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