第4話 雨の昇降口、その場しのぎの名札

海から吹き上げてくる雨は、坂道をまっすぐ下りてこなかった。風に押されて斜めに流れ、浜見坂高校の古い校舎を横から叩いていた。
昇降口の庇の下に入っても、制服の袖は細かく濡れていた。傘を閉じると、骨の少し曲がった折りたたみ傘が、手の中で頼りなく軋む。タイルには、出ていく靴と戻ってくる靴の跡が重なっていた。黒い水たまりの中に、誰かの上履きの白い縁や、泥のついたローファーの踵がぼんやり映っている。
私は鞄の中を確かめた。
駅前の図書館へ返す文庫本。貸出票が挟まったままの、読み終わっていない本。母が朝、何も言わずに入れておいた薄いタオル。
今日は図書館に寄って、本棚の間を少し歩く。それからコンビニで新作の菓子パンを確認して、気が向いたらひとつ買う。帰宅時間はいつもと同じ。文化祭前日でも、私の放課後はそのくらいで終わるはずだった。
「ねえ」
背中に声が当たった。
振り向くと、相馬結衣がいた。小柄な身体に似合わない大きさの黒いクリップボードを抱え、濡れた前髪を片手で耳にかけている。その仕草が一度で終わらず、二度、三度と繰り返された。焦っているときの結衣は、髪を耳にかける回数が増える。
「……私?」
「他に誰がいるの。今この靴箱の前にいるの、あんたしかいないでしょ」
「そうだけど」
「そうだけど、じゃない。来て」
結衣は私の返事を聞く前に近づいてきた。クリップボードの端には、赤いペンで時間や矢印がびっしり並んでいる。彼女の指が紙を押さえるたび、爪の先に乾いた絵の具が見えた。
「藤崎、熱出した。立てない」
「藤崎って……蓮?」
「そう。朝からちょっと変だったけど、さっき保健室で測ったら三十九度近くあった。先生が家の人に連絡して、今は帰る準備。明日の本番は無理」
結衣はそこで一度息を吸い、私の胸元を見た。まるで、そこに空いている場所でもあるかのように。
「だから、あんたが代役」
手にしていた傘の水滴が、タイルへひとつ落ちた。
「……えっと」
返事の前に息を吸ってしまった。驚いたときの私の癖だった。結衣はその音を聞き逃さなかった。
「昨日、見学に来てたでしょ。後ろの席じゃなくて、袖。舞台の右側。蓮が二場でどこまで出るか、ちゃんと見てた」
「見てたっていうか、見えてただけで」
「同じこと」
「全然違うよ。私は演劇部じゃないし、舞台に立ったこともないし、台詞だって――」
「覚える」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「じゃあ何の問題?」
結衣の声は大きくないのに、昇降口の奥まで届いた。廊下のどこかで、ガムテープを裂く音が止まる。すぐにまた、びりっ、と乾いた音がした。
私は制服の裾をつまんだ。濡れた布が指に冷たい。
「私より、他にいるでしょ。演劇部なんだから」
「いるなら探してる。三年は全員、別の役か照明か音響に入ってる。二年は私が舞台監督で、衣装の子は台詞を覚える時間がない。男子の役を女子がやる案も出たけど、蓮の役は出ずっぱりだから声が持たない。先生は代役を立てるなら、今夜から立ち稽古をしないと無理だって言ってる」
「それでも、私じゃなくていい」
「そういう言い方、嫌い」
結衣はクリップボードを脇へ抱え直した。焦ると顎が少し上がる。今も、私を見下ろすような角度になっていた。
「誰でもいいなら、私がやる。舞台監督を降りて、台詞を覚えて、袖も回して、照明の合図も出して、衣装のボタンも縫えばいい。でも、それをやったら全体が止まる。だから、今ここにいる人間で、できる形を探してる」
「私、今ここにいるだけだよ」
「昨日もいた」
「昨日は見てただけ」
「見てるだけって、何もしてないことじゃないでしょ」
結衣の言葉は、そこでわずかに揺れた。
けれど、すぐにいつもの鋭い調子へ戻った。
「それに、見てたなら分かるはず。蓮の代わりを誰かがやらないと、明日の舞台は途中で止まる。三年生が何週間も積んできたものが、主役ひとり抜けただけで全部止まる」
「……私がやったら、止まらないの?」
「止まるかもしれない。でも、やらなかったら確実に止まる」
雨音が、庇の端から連続して落ちていた。昇降口の外では、坂を下る自転車のブレーキが濡れた音を立て、誰かの笑い声が風にちぎれて消えた。
結衣は台本を取り出した。
第二稿。
表紙は雨を吸って波打っていた。蛍光ペンの線が黄色、桃色、緑色と重なり、余白には細い字がびっしり書き込まれている。「一拍」「ここで客席を見る」「息が浅い」「袖、遅れない」。誰かの鉛筆の跡を、別の誰かが赤ペンで直し、その上からまた新しい指示が書かれていた。
結衣はそれを私の胸へ押しつけた。
紙の冷たさが、制服越しに伝わった。
「昨日、あんたが見てた位置、蓮の入りと重なる。たぶん、舞台を見る目がある」
「そんなの、見てただけだよ」
「だから、それを使う」
「簡単に言わないで」
思わず声が出た。
言ってから、しまったと思った。結衣の前では、返事より先に息を吸うはずだったのに、今度は言葉が先に出た。
結衣は少しだけ目を見開いた。
私は続けた。
「私、失敗するのが怖い。台詞を忘れて、みんなを止めて、笑われて、ああやっぱり無理だったねって思われるのが嫌。帰れば、明日の舞台がどうなっても私には関係ないって言える。でも、そうしたら、私はまた見てるだけになる。何かが起きても、自分には関係ないって顔をして、あとでそれを正しい判断だったことにする。そういうのが……今は、もっと嫌」
雨の音が、少し遠くなった。
結衣はクリップボードの端を親指で押さえていた。何度も押さえ、離し、また押さえる。その手元を見ていると、彼女も落ち着いていないのだと分かった。
「……そういうこと、言えるんじゃん」
「普段は言えない」
「なら、今夜は言って。黙って沈まれると、こっちは拾えない」
結衣は一度、昇降口の外を見た。雨に濡れた坂道の先には、駅へ続く道がある。図書館も、コンビニも、その先だ。私がいつも選ぶ、誰にも呼び止められない道。
「私は、あんたを舞台に押し出したいんじゃない」
結衣は言った。
「押し出すしかないくらい、時間がないだけ。だけど、立つかどうかまで私が決めたら、あんたは私の操り人形になる。それは嫌」
「もう台本を押しつけてるけど」
「それは……逃げられる前に渡しただけ」
「同じじゃない?」
「違う。たぶん」
「たぶんなんだ」
結衣の口元がわずかに歪んだ。笑いかけて、失敗したような顔だった。
そこへ、廊下の奥から男子の声が飛んできた。
「結衣、どこ行った!」
「今行く!」
結衣は反射的に返事をした。それから私を見る。目の中に、時間を測る針のような焦りがあった。
「やるか、やらないか。今、決めて」
「そんな急に」
「急だから頼んでる」
「母にも連絡しないと」
「連絡して」
「夕飯もまだ」
「菓子パンならある」
「それは結衣の夜食でしょ」
結衣は鞄から、少し潰れたクリームパンの袋を取り出した。
「半分なら」
「半分にする気ある?」
「ないけど、あんたが食べるなら考える」
「それ、半分じゃないよ」
「うるさい。食べないと倒れる」
結衣が袋を開けたとき、鞄の中で携帯電話が震えた。
母からだった。
《傘ある?》
続けて、もう一件。
《雨ひどいから、帰り遅くなるなら連絡して》
私は画面を見つめた。舞台の代役を頼まれた、と打ち込んで、消す。演劇部の手伝い、と打って、また消した。
「何て送るの」
結衣が覗き込む。
「まだ決めてない」
「決めてから送ろうとするから遅いんでしょ。分からないなら、分からないって送ればいい」
「母は心配する」
「心配する人がいるなら、連絡したほうがいい」
結衣はクリームパンを二つに裂いた。片側にクリームが偏る。
「……結衣も心配してるの?」
聞くと、結衣の手が止まった。
「何を」
「私が倒れること」
「それは困る。代役が倒れたら、また探さないといけない」
「心配じゃなくて、困るなんだ」
「似たようなものでしょ」
「違うよ」
「じゃあ何が違うの」
結衣はそう言ってから、先に顔を逸らした。耳が少し赤い。
私は母へ《まだ分からない。終わったら連絡する》と送った。
すぐに既読がつく。
《タオルある?》
鞄の中の薄いタオルに触れた。
《ある》
《ならいい。冷めるけど、夕飯は置いとく》
その短い返事が、妙に現実的だった。舞台だとか主役だとか、誰かの最後の公演だとか、そういう大きな言葉の外側で、母は冷める夕飯と濡れたタオルを気にしている。
結衣が私の手元を見た。
「何て?」
「夕飯を置いとくって」
「勝った」
「何に」
「菓子パンに」
「張り合ってたの?」
「張り合ってない。食べさせる手段の問題」
「同じだよ」
「違う」
結衣はクリームパンの小さいほうを私の手のひらへ置いた。砂糖の粉が指先に落ちる。
「食べて。食べたら、視聴覚室へ行く」
「まだ、やるって言ってない」
「言ってないけど、母親に帰る時間を『分からない』って送った」
「それは……」
「それ、残る人の返事」
私はクリームパンを見た。冷えたクリームの匂いがする。指先に残った砂糖を払おうとして、うまく払えず、そのまま口へ運んだ。
甘かった。少し乾いていて、クリームは冷たい。
結衣は私が飲み込むのを確認してから、第二稿の表紙を指で叩いた。
「行くよ」
廊下へ出ると、文化祭前夜の匂いが溜まっていた。絵の具、濡れた新聞紙、古い木、汗、誰かが食べた菓子パンの甘い残り香。壁際では、衣装係の女子が学ランの袖を裏返し、糸を歯で切っている。別の男子が段ボールを抱えたまま、私たちを見て目を丸くした。
「その子、誰?」
「代役」
結衣が即答した。
「代役って、もう決まったの?」
「今決める」
「いや、結衣、それは――」
「口を動かす暇があるなら、看板の文字を乾かして。絵の具、まだ滲んでる」
男子は何か言いかけたが、結衣の声に押されて段ボールの向こうへ戻った。
私は小走りになりながら、結衣の横顔を見た。誰かに頼むより先に、自分で片づける顔。人を動かす声を持っているのに、その声の裏では、ずっと何かが崩れないよう押さえている。
階段の踊り場で、結衣が急に足を止めた。
窓の外では、海が雨に潰れて灰色になっていた。坂道を上ってきた人たちの靴跡が、階段の手前まで細長く続いている。私たちの濡れた靴跡も、その上へ重なった。
「ひとつだけ言っとく」
結衣が言った。
「蓮の真似をしなくていい」
「でも、蓮の代わりなんでしょ」
「代わりだからって、同じになる必要はない。蓮は蓮。あんたはあんた。そんなこと、今さら言われなくても分かってると思ってた」
「分かってないから困ってる」
「じゃあ、今から分かればいい」
「そんなに簡単じゃないよ」
「簡単じゃない。だから時間がない」
結衣は一段上へ登り、私を振り返った。
「舞台は、できる人間だけが立つ場所じゃない。立った人間が、できないところを隠さずに、次の人の息に合わせていく場所。蓮だって、最初からできたわけじゃない。あいつが立てるようになったのも、周りが合わせたから。あんたが立つなら、今度は私たちが合わせる。だから、あんたも勝手に一人で沈まないで」
最後の言葉だけ、少し低かった。
私は返事をしようとした。けれど、また「えっと」と息を吸い込んでしまう。
結衣がそれを聞いて、眉を上げた。
「その『えっと』、台詞の前にも出る癖?」
「知らない」
「じゃあ使えるかもね。役の癖にする」
「そんな適当でいいの?」
「適当じゃない。使えるものは使う。舞台は、準備したものだけでできてないから」
結衣の手が伸びてきて、私の台本の端を押さえた。私の指と彼女の指が一瞬触れた。濡れた紙を挟んだ近さに、互いの呼吸が聞こえそうだった。
結衣はすぐ手を離した。
「行くよ」
視聴覚室の扉が開く。
中では机が三つ並べられ、壁際に椅子が寄せられていた。天井近くの壊れかけたピンスポットが、誰もいない中央の床を少しだけ外して照らしている。古い木の床には、何人分もの靴跡が重なっていた。
榊原先生が窓際に立っていた。黒縁眼鏡を押し上げ、私の足元を見る。濡れた靴から、床へ小さな水滴が落ちた。
「靴、拭け」
「はい」
結衣がすぐに雑巾を投げてよこした。
私はしゃがみ込み、靴底と床の境目を拭いた。誰かの舞台を借りるなら、まず濡れた跡を残さないことから始めるらしい。
榊原先生が私の前に立った。
「台本」
差し出すと、先生は第二稿を開いた。蛍光ペンの線、重なった鉛筆の跡、ページの端のふやけ。先生はそこを見てから、私の顔へ視線を戻した。
「役名は」
私は答えられなかった。
結衣が横から言いかける。
「先生、まだ――」
先生は手を上げて止めた。
「本人に聞いている」
喉が鳴った。
台本の表紙に書かれた役名を見た。何度も見たはずなのに、今初めて、自分へ向けられた文字のように見えた。
「……ユウ」
声が小さくなった。
「聞こえない」
私は息を吸った。視聴覚室の雨音、椅子の軋み、遠くの誰かの笑い声。その全部が、一度だけ遠のいた。
「ユウです」
先生がうなずいた。
「立て」
結衣が机を二つずらした。ガムテープが床から剥がれる音がした。誰かが照明のスイッチを触り、壊れかけのピンスポットが一度明滅する。
私は何もない中央へ歩いた。
濡れた靴跡の続きが、そこまで伸びていた。完璧な線ではない。途中で薄くなり、別の跡に重なり、どこへ向かうのか分からない。
それでも私は、その跡の先に立った。
結衣が第二稿を開く。
「一場、最初から。私が相手役やる。先生、見てて」
「見ている」
先生は短く答えた。
私は台本を両手で持ち、最初の行を探した。紙の角が指先に刺さる。喉が乾いている。帰り道はまだ、校舎の外にある。けれど、もうそちらを見なかった。
「はい、始めるよ」
結衣の声が飛ぶ。
私は息を吸った。
そして、昨日まで見ているだけだった場所で、初めて自分の声を出した。
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