3話 蓮の声

再生ボタンが押されると、視聴覚室の空気がわずかに変わった。

スピーカーは机の上で小さく震え、雨音の向こうから、藤崎蓮の声が流れてくる。

「雨が止むまで、ここにいる」

明るく、滑らかだった。語尾に軽く息が乗っている。言葉が口から出たあと、客席のどこかへ迷わず進んでいく。録音された声なのに、その場に立っている人間の体温があった。声だけで、蓮の肩の開き方や、少し顎を上げて笑う顔まで浮かんでくる。

私は無意識に、部屋の中を見回した。

蓮がいるはずはない。保健室から家へ帰ったと、さっき結衣が言っていた。けれど、声には姿がついていた。舞台の中央に立ち、客席を見渡し、見られることを最初から引き受けている姿。

「ここ」

結衣が台本の一行を指で押さえた。

「蓮なら、もう半歩前」

私は白いテープの内側に立っていた。足元の線から、靴の先がほんの少し離れている。

「このままじゃ駄目?」

「駄目っていうか、蓮なら前に出る」

「私は蓮じゃない」

「知ってる」

「じゃあ、いちいち蓮ならって言わないで」

言葉が出てから、部屋が一瞬だけ静かになった。

壁際で衣装の袖を直していた女子の針が止まり、照明係の男子がスマートフォンから顔を上げた。私は自分の声が思ったより大きかったことに驚き、返事を待つ前に息を吸った。指先が制服の裾をつまむ。

結衣は怒鳴らなかった。

ただ、台本の端を親指で押さえ、そこに残った赤い線を見つめていた。

「分かってる。あんたが蓮じゃないことくらい、見れば分かる」

「じゃあ、どうして比べるの」

「比べてるんじゃない。蓮がそこに置いていった動きを確認してる」

「同じだよ」

「違う」

結衣は顔を上げた。目の下に薄い影があった。朝からずっと動いているのだろう。けれど、声だけは崩れなかった。

「蓮が何週間もかけて作った動きを、今夜ぜんぶ捨てるわけにはいかない。台詞の順番も、照明の合図も、相手役との距離も、蓮が立つ前提で組んである。それを一度ばらして、あんたが立てる形に直してる。だから、蓮ならこうする、って言うしかない」

「それなら、蓮の代わりを探してるんじゃなくて、蓮の残骸に私を合わせてるだけじゃない」

誰かが小さく息を呑んだ。

私の喉は乾いていた。怒っているのか、怖いのか、自分でも分からない。ただ、蓮と比べられるたびに、自分の薄い輪郭を指で擦られているようだった。舞台の中心へ立たされても、私は空っぽの場所を埋めるために呼ばれただけだ。そこに私自身がいる必要はない。

結衣はすぐには答えなかった。

雨が窓を叩いている。視聴覚室の天井から、どこかで水が落ちる音がした。ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で響く。

榊原先生が、机を指で一度叩いた。

「続けろ」

結衣が先生を見る。

「でも」

「感情で止めるな。動きで直せ」

先生は私の足元へ視線を落とした。

「右」

私は反射的に半歩ずれた。

「そこじゃない。右足だけ」

言われた通りに足を動かす。体の向きがわずかに変わった。さっきまで客席へ正面を向いていた肩が、結衣のほうへ開く。

「声」

「今、言うの?」

「言う」

先生の指示は短い。短すぎる。腹が立つくらい正確だった。反発するための言葉を探しているあいだにも、先生は私がどこで固まり、どこなら動けるかを見ている。

私は録音の声を思い出した。

雨が止むまで、ここにいる。

蓮なら、もっと軽く言う。明るく、客席に届くように。私はそれを真似しようとした。喉を開き、口元を上げ、声を前へ押し出す。

「雨が止むまで、ここにいる」

声が裏返った。

壁際から、誰かが吹き出した。

胸の奥が熱くなる。笑われた。頬から耳まで一気に熱が広がった。私は台本へ目を落としたまま、次の台詞を探した。文字がぼやける。何も言わずに済むなら、そのまま数秒でも黙っていたかった。

けれど、結衣が先に口を開いた。

「笑った人、今の声で言ってみて」

「え、私?」

衣装係の女子が目を丸くする。

「そう。あんた、さっき笑ったでしょ。笑えるくらいなら、声出せる」

「いや、私は衣装だから」

「衣装でも声は出る。ほら、立って」

「結衣、無茶振りやめて」

「無茶じゃない。今の笑い、悪くなかったから使う」

女子は困った顔をしていたが、周囲から「やってみなよ」と声が上がった。さっきまで私を笑った空気が、彼女のほうへ少し移る。女子は渋々立ち上がり、台本を受け取った。

「雨が止むまで、ここにいる」

彼女の声は私よりずっと大きかった。けれど、語尾が跳ねている。

結衣がすぐに言う。

「声はいい。でも、言ったあとに逃げてる。台詞を置いて、相手の返事を待つ」

「難しいよ」

「難しいから稽古してる」

「結衣は簡単に言うけどさ」

「簡単に言ってない。できる形に分けてるだけ」

結衣は女子の立ち位置を直し、それから私のほうへ戻った。

「今のを聞いて、どうだった」

突然、私へ振られた。

私は返事をする前に、また息を吸った。

「……語尾が少し上がってた」

「ほかは?」

「最初の声は、私より遠くまで届いてた。でも、台詞の後に相手を見てなかった」

「なんで分かるの」

「見てたから」

「何を」

「手。台本を持つ手が、台詞のあとに動かなかった。返事を待つときは、指が止まるから」

結衣は一瞬、何も言わなかった。

榊原先生が眼鏡を押し上げる。

「それでいい」

「何がですか」

「見えている」

先生はそれだけ言った。

褒められたのかどうか、やっぱり分からなかった。でも、誰かの手元を見ていたことが、初めて舞台の役に立った。

私はいつも、人の口元より手元を見る。口では平気そうにしていても、指先は先に焦る。結衣が台本の端を押さえる回数。衣装係が針を持つ手の速さ。照明係がスマートフォンを握る指の震え。誰もが自分の持ち場を手放さないようにしていた。

その中心に、私の手もあった。

第二稿の紙を押さえ、次の台詞を探している。

携帯電話が震えた。

母からだった。

《夕飯、食べた?》

私は画面を伏せた。

結衣がすぐ気づく。

「出れば」

「今それどころじゃない」

言いながら、自分の声に苛立ちが混じっているのが分かった。

「母から」

「だから?」

「夕飯とか、帰る時間とか。こっちは明日の舞台があるのに、そんなことばかり」

結衣の眉が上がった。

「そんなこと?」

その言い方に、私は顔を上げた。

「……違う。そういう意味じゃ」

「じゃあ、どういう意味。飯や帰る時間がどうでもいいくらい、こっちが大事ってこと? それとも、あんたが今ここにいることを、家の人に言うのが面倒なだけ?」

「結衣に分からないよ」

「分からない。私はあんたの母親じゃないから。でも、明日舞台に立つなら、途中で倒れられるほうが困る。腹が減って声が出なくなったら、蓮の代わりどころか、台本を持った置物になる」

「私はそんなに役に立たないよ」

「誰もそんなこと言ってない」

「言ってるのと同じでしょ。声が小さい、足が違う、蓮ならもっと前。何をしても足りないって言ってる」

私は立ったまま、制服の裾を強くつまんだ。湿った布が指の間で皺になる。

「私は、蓮みたいになれない。なれないのに、蓮の代わりにされてる。みんなが欲しいのは私じゃなくて、蓮が立つはずだった場所でしょ。だったら、私がどれだけ頑張っても、最初からいらないんじゃない」

結衣の口が開きかけた。

けれど、すぐには言葉が出なかった。

普段なら、結衣は間が空く前に何かを言う。次の指示を出す。机を動かす。誰かへ仕事を振る。けれど今は、台本の端に置いた親指だけが、ゆっくり動いていた。

「……そうやって、先にいなくなるの」

結衣が言った。

「え?」

「いらないって、自分で決めて、相手が決める前に消える。そうすれば傷つかないから」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「結衣に何が分かるの」

「分かるよ。私もそうだから」

結衣は腕を組んだ。けれど、その姿勢はいつもの威圧ではなく、崩れそうなものを押さえているように見えた。

「頼んで、間に合わなかったら困る。任せて、失敗されたら困る。だから最初から自分でやる。自分が全部やって、誰にも期待しなければ、誰かに裏切られたとは思わなくて済む。そうしてると、いつの間にか、誰かが手を出してくれても、任せるほうが怖くなる」

結衣の声は、いつもより低かった。

「でも、舞台は一人じゃ作れない。私はそれを、知ってるのに忘れる。忘れるたびに、誰かへ仕事を押しつけて、失敗しないように細かく口を出して、結局その人の息を止める。今もそう。あんたに蓮の代わりを頼んでおいて、蓮みたいに動けって言いかけてた」

結衣はそこで一度、私の顔を見た。

「ごめん。今のは私が悪い」

視聴覚室の空気が止まった。

結衣が謝るところを、私は見たことがなかった。小柄な身体に似合わない声を張り、壊れかけた機材を直し、誰かが手を抜けばすぐに怒る。何でも自分でできるように見える彼女が、謝った。

「……謝るんだ」

「謝る。私が悪いときは」

「いつも悪いって認めないのに」

「今、認めたでしょ」

「そこは素直なんだ」

「うるさい。茶化すな」

結衣の耳が赤くなった。

私は携帯電話を手に取った。母からのメッセージは、まだ画面に残っている。

《夕飯、食べた?》

母へ、

《まだ。今、稽古中》

と返す。

少し迷ってから続けた。

《今日は遅くなる。できるだけ連絡する》

送信すると、すぐに返事が来た。

《分かった。冷蔵庫におにぎり。タオル使って。制服そのまま寝ないで》

私は画面を見ながら、ほんの少し笑った。

結衣が覗き込む。

「何て?」

「おにぎりがあるって」

「勝った」

「何に」

「菓子パンに」

「母と張り合ってたの?」

「張り合ってない。食べさせる手段の問題」

「それを張り合ってるって言うんだよ」

結衣は鼻を鳴らした。

「でも、食べて」

「あとで」

「今」

「稽古が」

「食べながらでも台本は読める」

「結衣、私を何だと思ってるの」

「倒れない代役」

その言葉は冗談のようで、少しだけ違った。

結衣は私がここに残ることを、もう当然のように扱っている。必要とされている。その事実が怖い。けれど、胸の奥には、怖さと同じ形をした別の感触もあった。

私は役に立てるのかもしれない。

その考えが浮かぶと、すぐに打ち消したくなる。期待して、できなかったときが怖いからだ。それでも、完全には消えなかった。

榊原先生が録音を止めた。

「蓮に寄せるな」

先生が言った。

「はい」

結衣が返事をする。

私は先生を見た。

「でも、さっきは蓮の動きを使うって」

「動きは使う。声は使わない」

「声を使わないって?」

「録音の声を基準にするな。蓮の声は、蓮の体から出たものだ。お前の体から同じ音は出ない」

「じゃあ、どうすれば」

先生は少し目を細めた。

「お前の声で、相手に届けばいい」

「届くかどうか分かりません」

「届くまでやる」

それは結衣と同じ言葉だった。

私は台本を見た。蓮の声は、私の喉よりずっと遠くまで伸びる。立ち姿も、間の置き方も、笑い方も違う。追いつこうとすればするほど、自分の体が固くなる。

なら、蓮の声を追うのではなく、私が聞いたものを使えばいい。

結衣が次の台詞を待っているときの浅い呼吸。衣装係が針を止める瞬間。照明係がスイッチを押す前の指の迷い。誰かが聞こうとしているとき、部屋の音は少しだけ薄くなる。

私はその薄さを知っている。

普段、私はそこにいる。教室の端で、輪の外で、誰かの会話を少し離れた場所から聞いている。見ているだけだと思っていた。でも、聞いていたからこそ、誰かが次の言葉を待つ瞬間が分かる。

結衣が台本を閉じた。

「今の場面、録音なしでやる」

「え」

「蓮の声を消す。あんたの声だけで」

「まだ覚えてない」

「だから、相手の台詞を聞いて返す。台本は持ってていい」

「それ、本番でできるの?」

「本番でできるかを、今確かめる」

結衣は相手役の位置へ立った。私から二歩ほど離れた場所。いつもなら、すぐに距離を直す。けれど今回は動かなかった。

「雨が止むまで、ここにいる」

結衣の声が届く。

私は台本を見た。文字は知っている。けれど、紙から顔を上げるまでに一拍遅れた。

結衣の指が、台本の端で止まった。

私はその停止を見た。

「止まない雨もある」

一行、口にした。

結衣の目がわずかに動く。次の台詞を待っている。私は先に言葉を探そうとせず、その待っている間へ身体を置いた。

「それでも、止むまでここにいる」

声は小さい。

けれど、床へ落ちた。

誰も笑わなかった。

雨音が遠い。窓の外の海も、廊下の足音も、母からのメッセージも、いったん部屋の外へ退いている。私は自分の声が、誰かの声を押しのけたのではなく、誰かの声の後ろへ続いていったことを感じた。

結衣が台本を下ろした。

「今の」

私は身構えた。

「何」

「もう一回」

「駄目だった?」

「逆。変だった」

胸が沈む。

結衣はすぐに続けた。

「でも、使える変さだった。蓮ならもっと早く返す。あんたは一拍遅れた。その遅れで、ユウが本当に考えてるみたいに見えた」

「それ、褒めてる?」

「褒めてない。使えるって言ってる」

「同じじゃない?」

「違う」

結衣の耳が赤くなった。

私はまた、彼女の台本を押さえる指を見た。今度は震えていなかった。私の返事を待つために、力を抜いている。

それが、少しだけ嬉しかった。

蓮の声は、まだ耳の奥に残っている。明るく、滑らかで、どこまでも先へ進む声。私はきっと、あんなふうには話せない。舞台の中央に立っても、蓮のように空気を明るくはできない。

けれど、私には私の遅れがある。沈黙の長さがある。相手の手元を見て、次の呼吸を待つ癖がある。

それを欠点のままにするか、役の形にするかは、まだ決まっていない。

私は台本を持ち直した。

「もう一回やろう」

結衣が顔を上げた。

「言われなくても、そのつもり」

「結衣」

「何」

「今度は、蓮ならって言わないで」

結衣は一瞬、目を丸くした。

「分かった」

「本当に?」

「分かったって言ってるでしょ。代わりに、あんたが遅れたら、遅れたって言う」

「それは言っていい」

「あと、声が小さかったら小さいって言う」

「それもいい」

「足がずれたら直す」

「それも」

「顔が怖かったら茶化す」

「それは……」

「何」

「少しだけ、やめてほしい」

結衣は口元を歪めた。

「無理。そこは私の役目だから」

笑いが起きた。

今度は私も笑った。笑った拍子に、喉の奥が少し痛んだ。声を張ったあとの震えが残っている。結衣がそれに気づき、机の上の水筒を私へ差し出した。

「飲んで」

「結衣の?」

「そう。少しだけ」

「間接的に?」

「そういうこと気にするなら、早く自分の水を買ってきなよ」

私は水筒を受け取った。蓋の縁に、結衣の体温が残っているような気がした。口をつける前に、彼女が顔を逸らす。

その仕草が、いつもの強い声よりずっと分かりやすかった。

私は少しだけ水を飲んだ。

冷たかった。乾いた喉の奥を通り、胸のあたりへ落ちていく。

榊原先生が机を叩く。

「最初から」

「はい」

結衣が答える。

私は白いテープの内側へ戻った。録音機器の画面は暗いままになっている。そこに蓮の声はない。

窓の外では、雨がまだ降っている。

それでも私は、さっきより深く息を吸えた。蓮の声の後ろではなく、結衣の呼吸の前へ。誰かが待っている、その一拍へ。

「雨が止むまで、ここにいる」

今度は、私の声だった。

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蓮の声 - 雨音の代役 - 誰でも作家life