9話 見なかったことの紙

翌朝、私は祖母の遺品を机いっぱいに広げた。

窓は開けていたが、風は入らなかった。外では蝉が鳴いている。鳴き声は屋根の上から降り、庭の夏草へ吸い込まれ、開け放した窓のところまで届くころには、濁った一つの音になっていた。部屋の中には、昨夜から残った湿気がこもっている。机の表面へ腕を置くと、木の冷たさではなく、皮膚にまとわりつくぬるさが返ってきた。

白磁の茶碗。短く折った古いメモ。境界地図。裁縫箱の針山。祖母が使い込んだ数珠。古い布切れ。どれも、手に取れば祖母の生活へ触れられるようでいて、触れたところからすぐに遠ざかっていく。

布を外しただけで、古い家の匂いが立ちのぼった。

乾いた糸。樟脳。紙の黄ばみ。長く閉じられていた引き出しの底に残った、夏の熱。祖母の部屋は、亡くなってからも片づいていた。衣類は季節ごとに分けられ、裁縫道具は針先が布へ刺さらないように針山へ戻され、使いかけの糸は長さを揃えて切られていた。死ぬ直前まで、祖母は物の向きを直していたのだろう。

その几帳面さが、今は逃げ場のない沈黙に見えた。

私は境界地図を机の端へ置いた。紙の折り目に沿って、昨夜、沢井が言った言葉が蘇る。

――二つの家が、同じ夜を掘り返さんようにだ。

――すみさんは、もう少しだけ待ってくれと言った。

祖母は何を待たせていたのか。何を埋め、何を見ないことにし、何年ものあいだ、白磁の茶碗を庭の方角へ向け続けたのか。

私は裁縫箱を開いた。

針山には、色の褪せた針が何本も刺さっている。祖母は針を使い終えると、必ず糸を抜き、頭の向きを揃えていた。針山の裏側には、私が子どもの頃に描いた落書きが貼られていた。鉛筆で描いた家と、家の横に立つ棒のような人間。屋根から煙が出ていて、庭には丸い石が三つある。

「これは、何?」

私は声に出した。

もちろん、答える人はいない。

落書きの裏をめくったとき、針山の底布に小さな切れ目があるのを見つけた。糸がほつれたのではない。刃物で開けたような、まっすぐな裂け目だった。

指先を差し入れる。

何かが触れた。

紙だった。

私は爪を立てず、鉛筆の先で少しずつ押し出した。細く折られた紙片が、布の奥から出てくる。何度も畳まれたせいで、折り目は白くなり、紙の角は柔らかく擦れていた。

祖母の字だった。

私はすぐには開かなかった。

紙を持ったまま、仏間の方へ目を向ける。障子は閉まっている。向こうには黒檀の仏壇があり、位牌があり、白磁の茶碗がある。今朝、仏壇へ行ったとき、位牌はまた裏庭を向いていた。線香立ては右へ二センチ、茶碗の欠けた縁は用水路の方角。私はいつものように記録したが、そこから先へ手を伸ばすことはできなかった。

紙の中身が、あの向きとつながっている気がした。

私は折り目を一つずつ開いた。

最初の一行は、短かった。

「見なかったことにしたものは、土の中で形を変える」

私は息を止めた。

次の行には、裏庭の土、とあった。

その下に、井戸の跡。

さらに、用水路の水音。

文字はところどころ滲み、何度も書き直された跡がある。祖母は文章を綺麗にまとめようとはしていなかった。言葉を選び、消し、また書き足した。その筆圧のばらつきが、紙の上に残っている。

「朝になってからでは遅い」

最後の一行は、他の文字より濃かった。

私は紙を机へ置いた。

誰の名前もない。何が起きたのかも、どこへ何を埋めたのかも書かれていない。ただ、土と井戸と水音だけが並んでいる。

それなのに、読んでいるうちに、紙の向こうに夜の庭が浮かんだ。

古い土蔵の影。境界の杭。濡れた土へ差し込まれる鍬。用水路の水音。若い頃の祖母と沢井が、誰にも見られないように立っている。二人の足元には、いま私が見ている盛り土と同じ形の土がある。

だが、そこに何があるのかは見えない。

見えないまま、私の想像だけが勝手に手を伸ばしていく。

私は紙を握りかけ、すぐに指を開いた。祖母の紙を折り目から壊したくなかった。何かを強く掴めば、紙は簡単に傷つく。真実も同じなのかもしれない。急いで握れば、形を確かめる前に破れてしまう。

「何を見なかったんだ」

声が、部屋の中で乾いた。

私はもう一度、紙を読んだ。

「朝になってからでは遅い」

この言葉は、過去の夜に向けられたものなのか。それとも、今の私に向けられているのか。祖母が死ぬ前に書いたのか、もっと若い頃に書いたのか、日付はない。紙の端に小さな染みがあり、その上を祖母の指が何度も触れたように黒ずんでいる。

私は手帳を開いた。

書けば、紙の中身を記録として外へ置ける。だが、文字にしてしまえば、祖母の曖昧な筆跡が私の解釈へ変わってしまう気がした。

それでも、鉛筆を持った。

七月二日。午前八時十一分。

針山の底から紙片。

記載――裏庭の土、井戸の跡、用水路の水音。

「朝になってからでは遅い」

そこまで書いたところで、廊下から足音がした。

母だった。

久代は台所から戻ってきたが、手には何も持っていなかった。いつもなら布巾か、湯を入れた器か、買い物袋を持っている。手ぶらで歩いている母を見るのは、祖母の葬儀以来、ほとんどなかった。

母は机の上を見た。

紙より先に、茶碗の位置を見た。

仏壇へ供えたはずの茶碗は、今朝、私が持ってきていた。机の端に置き、欠けた縁を壁側へ向けている。祖母がそうしていた理由を確かめたくて、しかし元の位置へ戻す勇気がなくて、そこに置いたままにしていた。

母の目が、茶碗の欠けへ止まった。

「それ、どこへ持ってきたの」

「ここに置いただけ」

「仏間へ戻しなさい」

「この紙を見つけた」

母は紙へ視線を移した。

足が止まった。

その止まり方は、驚いた人のものではなかった。見覚えのある道具を、長いあいだ使わずにいた手が、触れる前で迷うような止まり方だった。

「どこにあったの」

「針山の底」

「針山を切ったの?」

「切ってない。底布に裂け目があった」

「すみさんが自分で開けたのね」

「たぶん」

母は紙へ近づいた。けれど、手を伸ばさない。机の縁へ指を置き、紙の文字を遠くから読む。

「何が書いてあるの」

私は紙を母の方へ向けた。

「裏庭の土。井戸の跡。用水路の水音。それから、朝になってからでは遅いって」

母は読んでいる間、何度も唇を動かした。声にはならない。祖母と同じだった。言葉にする前に、その言葉が誰を傷つけるのかを考えている。

「知ってる?」

「知らない」

「その返事は、もう聞き飽きた」

母は紙を見たまま、静かに言った。

「知らない、とは言えないな」

その声は平らだった。けれど、平らすぎて、底に大きな揺れがあることが分かった。

「知ってるの」

「知っているとは言ってないでしょう」

「でも、知らないとも言えない」

「守。言葉尻を捕まえても、昔のことは出てこないわよ」

「昔のことを隠しているのは、母さんたちだ」

「隠しているんじゃない」

「じゃあ、何?」

母は紙の端へ手を伸ばした。指先が触れる寸前で止まり、机の上の茶碗へ移る。茶碗を持ち上げ、欠けた縁を親指でなぞった。祖母と同じ仕草だった。

「すみさんは、この茶碗を使って沢井さんに茶を出していた」

「聞いた」

「田辺さんから?」

「母さんが言った」

「そうだったわね」

母は茶碗を両手で包んだまま、長く黙った。

「何年も前のことよ。あの頃、私はまだ家を出ることもできなくて、すみさんと一緒に暮らしていた。夜になると、沢井さんが裏口から来た。大きな声を出さない人だったけど、来るたびに土の匂いがした。すみさんは、何も聞かずに茶を淹れた。沢井さんも、何も説明しなかった。ただ、二人で庭を見ていた」

「何を見ていたの」

「私が聞きたいくらいよ」

「聞かなかったんだね」

「聞けなかったの」

「なぜ?」

母は茶碗を机へ置いた。置く場所を決められず、中央から少し外れたところへ置いた。

「聞けば、私もその夜の中へ入らなきゃならなくなるから」

「もう入ってる」

「そうね」

母の返事は早かった。

「ずっと入っていたのかもしれない。でも、入っていると認めなければ、台所へ戻れた。朝になれば米を研げた。すみさんの着替えを用意できた。あんたが学校へ行く時間に、弁当を渡せた。家の中に何かがあっても、家を動かすことはできたのよ」

「それは守ったことになる?」

母は私を見た。

「何を守るかによるでしょう。家を守ることだけを考えれば、私は間違っていなかった。けれど、すみさんが何を背負っていたのかを聞かなかった。あの人を一人で沈ませたという意味では、私は何も守っていない」

その言葉のあと、家のどこかで水が落ちた。

ぽたり、と一滴。

台所の蛇口かもしれない。洗面所の管かもしれない。だが、音は仏間の方角から聞こえた。私は障子へ目を向けた。

母は茶碗を見ていた。

「この紙は、祖母が何を見なかったかを書いたものじゃない」

私は言った。

「何を見なかったことにしたあと、家がどうなったかを書いてる」

母の眉がわずかに動いた。

「どういう意味?」

「土の中のものそのものじゃなくて、それを見たあとに、誰が何をしたのか。祖母は、朝になったら庭を掃いた。沢井さんは土を戻した。母さんは台所へ戻った。みんな、何もなかった形にした」

「それで暮らしてきたのよ」

「でも、祖母は忘れてなかった」

「忘れられなかったのかもしれない」

「同じでしょう」

「違うわ」

母の声が初めて強くなった。

「忘れられないことと、忘れないと決めることは違う。すみさんは、忘れられなかった。だから毎朝、庭を見た。茶碗の向きを直した。線香立ての灰をならした。あれは、覚えているためではなく、覚えていることに飲まれないためだったのかもしれない」

「でも、死んだあとも位牌が動いてる」

「すみさんが動かしていると決めないで」

「じゃあ、誰が?」

「知らない」

母はそこで息をついた。

「知らないけれど、あんたが祖母の姿を借りて、家の中の沈黙を見ているだけかもしれない。あるいは、本当に何かが残っているのかもしれない。どちらにしても、位牌を祖母そのものにしたら駄目よ。あの人を、答えを返してくれる死者に変えないで」

私は返す言葉を失った。

祖母の気配を感じるたび、私は安堵していた。祖母がまだこの家にいる。まだ私を見ている。まだ何かを伝えようとしている。そう思うことで、祖母の死を受け入れずに済んだ。

けれど、その気配を祖母と呼ぶことは、祖母の沈黙へ都合のいい意味を与えることでもあった。

母は紙を手に取った。

紙の裏側を確かめ、表へ戻す。そこには何も書かれていない。

「すみさんは、これを誰に読ませるつもりだったのかしら」

「俺だと思う」

「どうして?」

「針山の底にあったから。祖母は、俺が道具を片づけるとき、針山の裏まで見るのを知ってた」

「昔から、細かいところばかり見ていたものね」

母の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

「すみさんは、あんたのそういうところを心配していた。見つけたら、最後まで行こうとするから」

「祖母は、俺に何も見せたくなかったんじゃないの」

「見せたくなかったんじゃない。見たあとに戻れる道を残していたのよ」

母は紙を机へ戻した。

「だから、茶を出した。だから、庭から呼び戻した。あんたが境目へ近づきすぎると、何でもない話をして家の中へ戻した。あれは隠すためだけじゃなかった。あんたの暮らしを、あの夜の続きにしないためだった」

私は祖母が、庭の石のそばで私を振り返った日のことを思い出した。

私が「何を見ているの」と聞くと、祖母は答えず、茶を飲むかと訊いた。あのとき、私は自分が避けられたと思った。今になって、それが祖母の手を伸ばす形だったと分かる。

「でも、祖母は一人で残った」

「そうね」

「俺たちに何も言わないまま」

「そうね」

母の返事は短かった。

その短さが、責めることを許さないほど重かった。

私は紙を持ち上げた。

「ここに、最後の一行がある。朝になってからでは遅いって」

「ええ」

「これ、あの夜のこと?」

「分からない」

「母さん」

「本当に分からない。でも、すみさんが亡くなる少し前、同じことを言っていた」

私は紙へ目を落とした。

「何て?」

「朝になってからでは、間に合わないことがあるって」

「何が間に合わないの」

「聞かなかった」

「また?」

「そうよ。また聞かなかった。あんたに責められても仕方ないわね。でも、私はずっと、聞かないことで家を守ってきたの。すみさんが死ぬ前も、沢井さんのことを聞かなかった。裏庭のことも、土蔵のことも、井戸のことも。あの人が仏間へ入る前に一拍置く理由も、茶碗の欠けを庭へ向ける理由も、何ひとつ聞かなかった」

「それで、祖母は何を守れたの」

母は目を閉じた。

「沢井さんの息子さんよ」

私は顔を上げた。

母はすぐに口を開かなかった。台所の時計が、乾いた音を一つ鳴らした。蝉の声は相変わらず続いているのに、部屋の中だけ時間が遅れていた。

「沢井さんの息子?」

「当時、あの人はまだ十代だった。境界のことで揉めた夜、土蔵の近くにいた。何を見たのかは知らない。でも、その子が何かをしたと、沢井さんの家では決められかけていた」

「決められかけていた?」

「大人同士の争いがあったのよ。土地の線が違う、井戸の水が濁った、土蔵の道具がなくなった。誰かに責任を負わせないと収まらない揉め事だった。沢井さんの息子さんは、家の中で一番弱かった。口数も少なくて、何かを訊かれても答えられなかった」

「祖母は、その子を庇ったの?」

「たぶん」

「何を見たの」

母は紙へ目を落とした。

「すみさんは、夜中に土蔵の裏へ行った。沢井さんも一緒だった。翌朝、土蔵の床下にあったものが、井戸の跡のそばへ移されていた。何を移したのか、私は知らない。けれど、そのあと、沢井さんの息子さんが家からいなくなった」

「いなくなった?」

「親戚の家へ預けられた。学校でも、近所でも、何か悪いことをしたように扱われていたから。沢井さんは、その子を守るために、自分が土蔵の道具を盗んだことにした。すみさんは、沢井さんの家がさらに責められないよう、佐伯家の側にも責任があることを言わなかった」

「佐伯家の側の責任って?」

母は答えにくそうに、紙の端を揃えた。

「その夜、すみさんの兄が、沢井家の井戸を勝手に埋めようとしていたの」

私は息を止めた。

「境界を変えるために?」

「水の流れをこちらへ引くためだったらしい。古い井戸の位置が、土地の線を決めていたから。井戸を埋めれば、境界を動かせると思った。沢井さんの家は反対した。それで揉めた」

「祖母は、それを見た」

「見た。沢井さんも見た。息子さんも、見ていたのかもしれない。夜の土蔵で、誰かが井戸へ何かを投げ入れた。騒ぎになって、道具が壊れ、土蔵の床が崩れた。誰の手で何が起きたのか、はっきりしないまま、朝になった」

「それで、何を埋めたの」

母は唇を結んだ。

「井戸の中から出てきたものを、もう一度、土の下へ戻したのよ」

「何が出てきたの」

「人のものではなかった」

「人のものじゃない?」

「古い札と、帳面。それから、境界を示す石。昔の家同士が、井戸と水路を共有していた証拠だった。佐伯家の先代が、沢井家の土地を削って水を引いていたことが分かる記録だった」

私は地図を見た。

古い境界線が、何度も描き直されていた場所。井戸と用水路が重なる場所。白磁の茶碗の欠けた縁が、毎朝向いていた場所。

「証拠を埋めたの?」

「すみさんと沢井さんが」

「どうして」

「証拠が出れば、沢井さんの家は土地を失ったかもしれない。佐伯家も、近所で生きていけなくなったでしょう。何より、沢井さんの息子さんが、家の争いの責任を一人で背負わされる。すみさんは、それを見たくなかった」

「だから、黙った」

「だから、埋めた」

母の声は、いつもの平らなものではなかった。

「でも、埋めたからといって、済んだわけじゃない。沢井さんは毎晩、土の沈みを見ていた。すみさんは毎朝、庭と仏間を整えた。私は、何も聞かなかった。誰も、何も終わらせないまま、ただ年を取った」

「祖母は、沢井さんを守ったの?」

「沢井さんだけじゃない。あの人の息子さんと、家の名前と、私たちの暮らしと、それから、あの夜に巻き込まれた誰かの記憶を、全部、土の下に置いた」

「それは守ったことになるのかな」

母は茶碗を見た。

「分からない。守ったから、長く生きられた人もいる。守ったから、長く苦しんだ人もいる。すみさんは、正しいことをしたとは思っていなかったでしょう。だから、誰にも説明しなかった。説明すれば、自分のしたことを正しいと言わなければならなくなるから」

そのとき、仏間から音がした。

畳が、ゆっくり沈む。

一歩。

私も母も、障子を見た。

二歩目は鳴らなかった。

母の手が茶碗の横で止まる。私の指先は机の縁をなぞっていた。木の細かな傷が、指の腹へ一つずつ引っかかる。

「行く?」

私は聞いた。

母はすぐに答えなかった。

「今度は、私も行く」

「仏間へ?」

「裏庭へ」

母は紙を折り直した。祖母と同じように、折り目を一つずつ揃える。だが、最後の角だけはきれいに合わなかった。何度やり直しても、紙の端がわずかにずれる。

母は諦めた。

「田辺さんに連絡して。沢井さんにも、昼のうちに話す」

「掘るの?」

「掘る前に、見に行く。あんたがいつも言っているでしょう。見たものを、なかったことにしないって」

「母さんは、怖くないの」

母は茶碗を私へ差し出した。

「怖いわよ」

初めて、母はそう言った。

「怖いから、朝ご飯を作ってきた。怖いから、洗濯物を干して、仏花の水を替えて、誰にも何も聞かなかった。でも、怖さを片づけるだけでは、片づけた場所からまた出てくる。すみさんが死んで、それが分かった」

私は茶碗を受け取った。

母の指が、私の指へ触れた。温かかった。仏間から漂う気配には温度がなく、母の手だけが、生きている側へ私を引き戻しているようだった。

「今度は、俺が持つ」

「落とさないで」

「落とさない」

「割れたら、すみさんが怒るから」

母の言葉に、ほんの少しだけ笑いが混じった。笑えるような話ではない。けれど、祖母が生きていた頃の家には、こういう不器用な冗談があった。大きな悲しみを直接見ないために、茶碗や包丁や洗濯物の話をした。

私は白磁の茶碗を机の中央へ置いた。

欠けた縁は、裏庭の方角を向けたままにした。

その瞬間、仏間の障子の向こうで、線香立てが倒れる音がした。

からり、と乾いた音。

母が立ち上がった。

私も続く。

廊下を歩く間、家の中の音が一つずつ遠ざかった。台所の冷蔵庫の唸り。時計の秒針。外の蝉。すべてが仏間の手前で薄くなり、障子の向こうには耳に痛い静けさだけが残った。

母が障子へ手を伸ばす。

今度は、ためらわなかった。

開ける。

黒檀の仏壇の前で、線香立てが横倒しになっていた。灰が畳へこぼれている。位牌は、これまでで一番深く裏庭を向いていた。ほとんど横顔しか見えない。

茶碗は机の上にある。

それなのに、茶碗の影だけが、仏壇の前から縁側へ伸びていた。

影の先で、土の筋が途切れている。

私はしゃがみ、灰へ手を伸ばしかけた。

母が止めた。

「まだ触らないで」

「祖母なら、直してた」

「だから、今度は直す前に見るの」

母は仏壇の前へ座った。灰の中に混じった細いものを、指先ではなく視線で追っていく。線香の灰の筋は、仏壇から縁側へ続き、途中で細くなっていた。

「庭へ行く」

母が言った。

「でも、夜に触るなと」

「今は昼よ」

「水音は?」

二人で耳を澄ました。

裏手の用水路から、細い水音が聞こえている。底石を撫でる流れが、家の下を通り、板塀の向こうへ進んでいる。

水音のするうちに済ませる。

その言葉が、今度は命令ではなく、道のように思えた。

私は紙を手帳へ挟んだ。祖母の字を折り目の中へ戻す。母は立ち上がり、仏壇の位牌には触れずに、縁側へ向かった。

障子を開ける。

熱気が流れ込んできた。夏の夜ほどではないが、昼の庭も湿っている。夏草の匂い。濡れた土の匂い。用水路の水の匂い。生きているものと、長く埋められたものが、同じ空気の中で混じっていた。

庭の奥で、草が擦れた。

ざ、と一度。

今度は、逃げる音ではなかった。

私たちを待つように、石のそばで止まった。

母が私を見る。

「行きましょう」

私は頷いた。

白磁の茶碗は、仏壇の前に置いたままにした。欠けた縁が、裏庭の先を向いている。

その向きへ、私たちは初めて、二人で歩き出した。

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