8話 隣家の土

午後から、私は沢井恒一の家を見張った。

見張る、といっても、張り込みのような大げさなものではない。縁側の網戸を指一本分だけ開け、柱の陰から隣家の裏庭を覗いていた。母に見つかれば、すぐに戸を閉められる。何をしているのか訊かれれば、私はたぶん「庭を見ている」と答えるだろう。嘘ではない。けれど、それだけでもない。

夏の午後は、庭の奥まで明るかった。

隣家との境に立つ板塀は、ところどころ黒く湿っている。釘の頭は赤く錆び、塀の下から伸びた草が、こちらと向こうの地面を同じ緑でつないでいた。蝉の声が屋根の上から落ちてきて、古い木造家屋の柱を細かく震わせている。光は強いのに、風がない。空気だけが重く、肌にまとわりついて離れなかった。

沢井の裏庭には、昼間から誰もいなかった。

ただ、土の一角だけが新しかった。

周囲の地面は乾いて白っぽくなっているのに、そこだけ色が濃い。表面が湿っているわけではない。指で触れれば乾いているのだろうが、見ているだけで、土の内側にまだ水分が残っているように思えた。盛り上がりは、畳一枚分にも満たない。けれど、庭のどこよりも目立っていた。

私は手帳を開いた。

七月一日。午後一時十八分。

隣家裏庭、境界杭から二歩ほど奥。土の盛り上がり、東西約一・五メートル。周囲より色が濃い。新しい。

書いてから、鉛筆を置いた。

数字にすれば、土の山は小さくなる。東西一・五メートル。高さは三センチほど。誰かが庭の隅へ土を寄せただけと考えても、不自然ではない。けれど、数字の外側にあるものが、私の手帳には入りきらなかった。

その土を見ていると、仏壇の位牌が向きを変えた朝の空気が戻ってくる。

黒檀の仏壇。白磁の茶碗。右へ寄った線香立て。仏間の奥から庭へ向かって流れた線香の煙。

そして、祖母が庭の境目で立ち止まっていた背中。

私は網戸の縁を指でなぞった。細かな金属の網目が指腹へ食い込む。緊張すると、いつも同じ場所を触ってしまう。昔からの癖だった。祖母はそれに気づくと、何も言わず、私の手を茶碗の熱い縁から離してくれた。

「熱いものは、熱いうちに飲みなさい」

そう言いながら、実際には私が火傷しない温度まで冷ましていた。

いま、その手はない。

ないのに、茶碗の置き方だけが残っている。欠けた縁を庭の方へ向け、誰にも見えない場所を指し示す置き方が。

日が傾き始めた。

西の空の光が板塀を斜めに照らし、盛り上がった土の表面に細い影を作る。影の中で、小さな根が一本だけ露出していた。土から抜け出そうとしているのではなく、土の下へ戻ろうとしているように見えた。

そのとき、隣家の裏口が開いた。

沢井が出てきた。

作業着の上着を脱ぎ、灰色のシャツ一枚になっている。片手に鍬を持ち、もう片方には古い手拭いを握っていた。彼は庭へ降りる前に、敷居のところで一度足を止めた。境界をまたぐことを嫌う人間のように、足元を見ている。

沢井はすぐには土へ近づかなかった。

庭の中央に立ち、周囲をゆっくり見回す。隣家の窓、板塀、用水路、境界杭。何かを探しているようでもあり、何かが動いていないか確かめているようでもあった。

やがて彼は、鍬を地面へ立てた。

手拭いで両手を拭う。土に触れる前の準備にしては丁寧すぎた。指の間まで布を通し、爪の先を確かめ、手拭いを二つ折りにして鍬の柄へ掛ける。

その手つきに、私は祖母を思い出した。

祖母も、何かを始める前には必ず道具を整えた。箒の柄を拭き、布巾を畳み、茶碗の底を指で撫でる。急いでいる朝でも、その順番だけは崩さなかった。

沢井が鍬を振り下ろした。

乾いた音がした。

土へ刃が入る音は、思ったより軽かった。深く掘っているわけではないらしい。鍬を抜き、少しだけ土を脇へ寄せる。もう一度、同じ場所へ刃を入れる。

掘る。

寄せる。

ならす。

沢井はそれを繰り返した。

何かを探す人間の動きには見えなかった。探しているなら、土を乱し、出てきたものを確かめるはずだ。沢井はそうしない。土の表面を少し崩し、内部を確かめ、すぐに元へ戻していく。

見つけたいのではない。

崩れていないか、確かめている。

私はその考えを手帳に書こうとしたが、鉛筆を止めた。見た事実ではなく、自分の推測だった。私はいつも、推測まで記録に混ぜることを嫌っている。記録は、見たものを別の形へ変えないためのものだ。

だが、土の下に何があるのか分からないままでは、見たものだけを書いても足りない気がした。

沢井は鍬を置き、小さなスコップへ持ち替えた。

錆びた刃先を手拭いで拭う。傷んだ道具を、まだ使えるものとして扱う手つきだった。彼は盛り上がりの端へ刃を入れ、土を薄く剥がしていく。深く刺さない。根を切らない。出てきた細い根は、指先で土から外し、切れない場所へそっと置いた。

「根っこを残すと、また出てくるからね」

祖母の声が、耳の奥で蘇った。

子どもの頃、庭の草を抜く私の手を、祖母が包んだことがある。私は面倒で、葉だけを引きちぎっていた。祖母は怒らず、土の中へ残った根を見せた。白い根が、湿った土の中で細く伸びていた。

「上だけ取っても、下に残っていれば、また出てくるでしょう」

「出てきたら、また抜けばいいよ」

「そうだねえ」

祖母は笑った。

「でも、同じところを何度も抜くのは、疲れるからね」

あのときの言葉は、庭仕事の話だった。今になって、別のことを言っていたように聞こえる。

沢井の手が止まった。

彼はスコップを土の上へ置き、盛り上がりの中央へ手を入れた。手袋越しに、土を少し掴む。指先が何かに触れたのか、肩がわずかに強張った。

私は息を止めた。

沢井はすぐに手を引かなかった。土の中で何かを確かめている。触れているものを取り出すのかと思ったが、しばらくすると、何も持たずに手を抜いた。

手袋に黒い土が付いている。

沢井はそれを見下ろしたまま、動かなかった。

夕方の光が、彼の横顔を薄く照らしていた。道で会うときの沢井は、いつも背中を丸め、目を合わせない。年齢の分からない男だった。だが、土の前にしゃがんだ姿には、長い時間がそのまま乗っていた。

若い頃から同じ場所を見続けてきた人間の背中。

何かを埋めた夜から、朝になるたび同じ場所へ戻ってきた人間の背中。

沢井は土を戻し始めた。

スコップで一度にかぶせるのではなく、手で少しずつ落としていく。土の粒が手袋の上を滑り、盛り上がりの中央へ落ちる。落ちた場所を指でならし、また土を足す。平らになったと思っても、横から見て高さを確かめ、わずかな窪みを埋め直す。

私はその動きを見て、胸の奥に嫌な感覚を覚えた。

もし土の下に何かがあるなら、沢井はそれを隠している。

けれど同時に、壊れないよう守ってもいる。

隠すことと守ることは、外から見ればよく似ている。手をかけ、表面を整え、他人の視線から遠ざける。違うのは、その手が何を恐れているかだけだ。

沢井は、何を恐れているのだろう。

私は一度、縁側の方を振り返った。

家の中は薄暗くなっていた。障子の向こうに仏間がある。位牌は今朝も裏庭を向いていた。母は夕食の支度をしているはずだ。包丁の音が、遠く、一定の間隔で聞こえている。

こつ。

こつ。

間。

こつ。

母がいつものように手を動かしている。その音があることで、私はまだ家の側にいると思えた。

しかし、用水路の水音は、夕方になるほど大きくなっていた。

水量は少ない。昼間に覗けば、底石の間を細い流れが通っているだけだ。それなのに夜へ近づくほど、音が深くなる。壁や石に反響し、家の下を流れているように聞こえる。

沢井も、その音を聞いたらしい。

土をならす手が止まった。

風はない。庭の草も動いていない。けれど、板塀の向こうで、ざ、と音がした。

一箇所だけ、草が擦れた。

沢井は顔を上げた。

音は、板塀の向こうからこちらへ近づいてきた。葉が押し分けられ、倒れたものが戻っていく。風なら庭全体が鳴るはずなのに、音は細い道を選んで進んでいる。

私は網戸を握った。

沢井の足元へ音が近づく。

彼は逃げなかった。鍬を拾うこともしなかった。ただ、境界杭へ手を伸ばした。杭に結ばれていた古い紐が、風もないのに揺れている。

紐の先は、私の家の側を向いていた。

沢井は結び目へ指をかけた。

一度ほどき、古い紐の毛羽立った部分を確かめる。それから、結び目を作り直した。固く結び、余った部分を切らずに杭へ巻きつける。

その間にも、草の音は近づいていた。

沢井のすぐ後ろまで来た。

そこで、止まった。

音が消えた瞬間、庭全体が深い穴へ落ちたように静かになった。蝉の声も、母の包丁の音も、用水路の水音も遠ざかる。耳の奥が痛くなるほど、何も聞こえない。

沢井は、盛り土へ向かって頭を下げた。

誰かに謝っているように見えた。

私は仏間へ入る前に一拍置く祖母の姿を思い出した。あれは、ためらいではなかったのだ。そこに何かがいるかどうかを、音で確かめる間だった。祖母は家の中のどこにでも、目に見えない境目があることを知っていた。

沢井は盛り土の上へ手を置いた。

「まだだ」

低い声だった。

聞き間違いかと思った。だが、沢井の唇が動いた。

「まだ、動かすな」

土へ向けた声だった。

命令ではない。誰かに頼む声に近かった。何年も同じ場所に置き続けたものへ、これ以上、地上へ出てこないでくれと頼んでいるような声だった。

私は手帳を開いた。

この言葉を記録すべきか迷った。書けば、沢井が土に話しかけたという事実を認めることになる。書かなければ、祖母のメモと同じように、夜の中へ沈んでしまう。

私は書いた。

七月一日。午後七時四十二分。沢井、盛り土に手を置き、「まだ、動かすな」と言う。

書き終えると、鉛筆の芯が折れた。

小さな音だった。

だが、静まり返った庭では、石を落としたように響いた。

沢井がこちらを向いた。

驚いた顔ではなかった。私がそこにいることを、ずっと前から知っていたような顔だった。彼はすぐに視線を下げ、土の付いた手袋を外した。

「覗き見は、趣味が悪いな」

「何をしているんですか」

私は網戸を開けなかった。

沢井は答えず、手袋を丸めた。指の間に黒い土が入り込んでいる。彼はその土を払わず、掌を見たまま長く黙っていた。

「庭の手入れには見えません」

「庭の手入れだ」

「根を傷つけないように掘って、土の中を確かめて、すぐに戻している。普通の手入れなら、そんなことはしない」

「おまえに庭の何が分かる」

「分からないから聞いているんです」

「聞いて、分かるのか」

「分からないままのほうが嫌です」

沢井は喉を鳴らした。

「若いな」

「そうでしょうね」

「若い奴は、土の下にあるものを掘れば、答えが出ると思ってる」

「答えが出なくても、何があるかは分かる」

「分かったら、どうする」

「考える」

「考えて、正しいことをするのか」

「正しいかどうかは、自分で決めません」

「なら、誰が決める」

沢井はそこで初めて私を見た。

目が合うまでに、少し時間がかかった。いつもそうだ。人の顔を見る前に、足元や手元へ視線を落とす。けれど今は、逃げる場所がないように、まっすぐ私を見た。

「おまえの婆さんはな、正しいことをしようとして、何度も間違えた」

私は息を止めた。

「祖母が?」

「人間は、正しいことだけでは暮らせん。正しいことを口にしたら、誰かの暮らしが壊れることもある。家の名が汚れる。子どもが学校で何を言われるか分からん。土地を手放すことになるかもしれん。そういうものを全部見たうえで、それでも正しさを選べる人間ばかりじゃない」

「祖母は、何を選んだんですか」

「黙ることを選んだ」

「誰かを守るために?」

「守ったつもりだったんだろう」

沢井の声は乾いていた。けれど、乾いているからこそ、ひびの奥にあるものが見えた。

「守れたんですか」

「知らん」

「知らないって、母も言います」

「久代さんは、知らんままでいたかったんだろう」

「あなたは知っている」

「知っていることと、言えることは違う」

「祖母も同じことを言ったんですか」

沢井は目を伏せた。

「おまえの婆さんは、そんな言い方をしなかった。あの人は、人を説得しようとはせん。茶を出して、庭を見て、帰れと言わずに帰る時間だけを待つ。何かを言われても、最後まで聞いて、それから茶碗を洗う。そういう人だった」

「どうして祖母と、そんなに親しくしていたんですか」

「親しくはない」

「でも、あなたは何年もこの場所を見ている」

「見ているだけだ」

「見ているだけで、土をならすんですか」

「土は、放っておけば崩れる」

「土の話じゃないでしょう」

沢井は黙った。

私は網戸越しに彼を見ていた。向こう側の沢井には夜の湿気がまとわりつき、シャツが肩へ貼りついている。こちら側の私は、網戸と縁側の柱に守られている。そのはずなのに、冷たいのは私の背中だった。

「何を埋めたんですか」

「埋めたんじゃない」

「でも、そこに何かある」

「ある」

「何が」

「聞いてどうする」

「見に行く」

「掘るのか」

「必要なら」

「だから若いと言っている」

沢井は、盛り土の端へ落ちた小枝を拾った。折れた枝を指先で二つに折り、土の上へ置く。作業の途中であっても、落ちているものを放置しない。祖母と同じような、妙に几帳面な動きだった。

「そこには、二つの家が見ないことにしたものがある」

沢井が言った。

「一つの家だけのものじゃない」

「祖母も関わっているんですか」

「おまえの婆さんが見た。俺も見た。見た者が、見なかったことにした」

「何を見たんですか」

「それを言えば、二つの家が同じ夜へ戻る」

「もう戻っている」

沢井の手が止まった。

「位牌が毎朝、ここを向く。祖母が死んでから、仏間の音が変わった。母も気づいている。あなたも夜になると土を確かめている。もう終わったことにはできない」

「終わったことにするために、土を見ている」

「違うでしょう」

「何が違う」

「終わっていないから、見ている」

沢井は答えなかった。

用水路の水音が戻ってきた。浅い流れが底石を撫で、夜の庭を細く横切っていく。音は二つの家の間を通り、境界杭の下をくぐり、どちらの土地にも属さない場所へ流れていく。

沢井は水音の方へ顔を向けた。

「おまえの婆さんは、毎朝、庭を見た」

「知っています」

「境目まで行って、土の沈みを見た。草の伸び方を見た。水の音が変わっていないか確かめた。それから、仏間へ戻って茶碗を置いた」

「どうして、その話を今までしなかったんですか」

「頼まれたからだ」

「祖母に?」

沢井はようやく頷いた。

「すみさんは、俺に何も言うなと言った。おまえら家族にも、近所にも。理由は聞かなかった」

「聞かなかった?」

「聞けば、俺は話さなきゃならなくなる。あの人は、それを分かっていた。だから、言わなかった」

「あなたも、聞きたくなかったんですか」

「聞きたくなかった」

「怖かったから?」

「怖いものなら、まだよかった」

沢井の声が少し低くなった。

「怖いものは、逃げればいい。悪いものなら、憎めばいい。だが、守ろうとしたものの中に、自分の間違いが混じっていたら、どこへ逃げても追いついてくる。俺が怖かったのは、土の下のものじゃない。俺が、あの夜にしたことを、正しいことだったと思い込んでしまうことだった」

私は何も言えなかった。

沢井は、しばらく盛り土を見ていた。

「すみさんは、正しいとは言わなかった。ただ、朝になったら土をならせと言った。誰かが見つけても、すぐに掘り返さんようにしろと言った。俺は、それだけを続けてきた」

「祖母は、あなたを責めなかったんですか」

「責めたさ」

「でも、何も言わなかった」

「言わないことが、責めることになる場合もある」

沢井は手袋を丸め、ポケットへしまった。

「茶を出された。毎回、同じ白い茶碗でな。欠けた縁を庭へ向けて、俺の前に置いた。俺が帰ると、茶碗を洗って、また同じ場所へ戻した」

「何を話したんですか」

「ほとんど話していない」

「それで、何年も?」

「話さないから、何年も続いた」

その言葉が、耳の奥へ残った。

話さないことで、関係が続くことがある。言葉にすれば壊れるものを、沈黙の中へ置いたまま、毎年同じ季節を越えていく。祖母と沢井の間には、憎しみだけではない時間が積もっていた。罪を分け合った時間なのか、罪から誰かを遠ざけるための時間なのか、私にはまだ判断できない。

「その土の下にあるものを、あなたは守っているんですか」

私は聞いた。

沢井はすぐには答えなかった。

「守る、というのは便利な言葉だな」

「どういう意味ですか」

「何かを隠しても、守ったと言える。誰かを傷つけても、守るためだったと言える。すみさんも、俺も、その言葉に逃げてきた」

「では、何をしているんですか」

沢井は盛り土へ目を落とした。

「崩れないようにしている」

「何が」

「土が。家が。あの家と、この家の間に残ったものが」

「残ったものって何ですか」

「それを知りたいなら、昼に来い」

私は顔を上げた。

沢井は私を見なかった。

「夜に来るな。夜の土は、見る者の都合で形を変える。おまえは、見えたものを記録する癖があるが、夜に見たものまで事実にするな」

「祖母のメモにも、夜に触るなとありました」

沢井の顔が初めて動いた。

「その紙を見たのか」

「はい」

「どこにあった」

「祖母の箪笥です」

沢井は何かを言いかけた。だが、すぐに口を閉じた。視線が地面へ落ちる。足元に残った鍬の跡を見ている。

「水音のするうちに済ませる、とも書いてあった」

沢井の喉が動いた。

「そうか」

「知っているんですね」

「すみさんの字だ」

「意味を教えてください」

「水音があるうちは、境目が分かる」

「田辺さんも同じことを言いました」

「田辺さんが?」

「土の下にあるものを、掘り返す前に、誰と一緒に見るのか決めろと」

沢井は乾いた笑いを漏らした。

「慧巌さんらしい」

「田辺さんは、あなたのことも知っている」

「知っていることは少ないだろう」

「祖母が何を守ったのか、聞きました」

「何と答えた」

「まだ、分かりません」

沢井は鍬の柄へ手を置いた。

「それでいい」

「よくない」

「分からんことを分からんままにできない人間は、誰かを傷つける」

「分からないまま放置するほうが、傷つけることもある」

沢井は私を見た。

私は目を逸らさなかった。

しばらく、二人の間を水音が流れていた。湿った夜気が網戸の隙間から入り、頬へ触れる。生きている庭の熱と、土の下から立ち上る冷えが、同じ空気の中で混ざっていた。

やがて沢井は、鍬を持ち上げた。

「昼に来い。だが、家の者を連れてこい」

「母も?」

「久代さんもだ」

「どうして」

「すみさんの娘だからだ。聞かなかった者にも、見る順番はある」

「あなたも話すんですか」

「話すとは言っていない」

「では、何をするんですか」

沢井は盛り土の中央へ目を向けた。

「土を崩す」

「掘り返す?」

「崩れたものを、これ以上隠せなくするだけだ」

私は手帳へ書こうとしたが、鉛筆を持つ指が止まった。

沢井はそれ以上言わなかった。

彼は盛り土の端を木片で軽く叩き、表面に残った足跡を消していく。けれど、中央の土には触れなかった。そこだけを避けるように、周囲をなだらかに均していく。

自分の痕跡を消しているのではない。

誰かが、そこへ近づくための道を残しているように見えた。

そのとき、家の中から、畳が沈む音がした。

一歩。

沢井の手が止まった。

私は振り返れなかった。網戸の向こう、仏間へ続く廊下に、何かが立っている気がした。けれど、見ることはできない。もし見れば、私はそれを祖母の気配と呼んでしまうだろう。祖母がここへ来たのだと、勝手に決めてしまうだろう。

二歩目の音は、鳴らなかった。

沢井は頭を下げた。

今度は土にではなく、家の方角へ。

「すみさん」

彼が初めて、祖母の名を口にした。

「もう少しだけ、待ってくれ」

声は、私へ向けたものではなかった。

庭の草が擦れた。

ざ、と一度。

音は沢井の足元から離れ、板塀の向こうへ戻っていった。用水路の水音が、再びはっきり聞こえる。流れは暗い土の下を通り、二つの家の境目を越えていく。

沢井は鍬を地面へ立てかけた。

「帰れ」

「明日、昼に来ます」

「来るなら、母親を連れてこい」

「祖母のことを話してください」

沢井は長く黙った。

「すみさんのことを話すのは、俺じゃない」

「では、誰が」

「おまえが、見たものを見たまま話せ」

それだけ言うと、沢井は裏口へ戻っていった。敷居をまたぐ前に一度足を止め、振り返らずに足元を見た。それから、音を立てずに家の中へ消えた。

私はしばらく、その場を動けなかった。

夜の庭には、誰もいない。

なのに、草はまだ倒れたままだった。人ひとり分の細い道が、盛り土から私のいる縁側まで続いている。風がないのに、倒れた草の葉先だけが、ゆっくりと揺れていた。

私は家へ戻った。

仏間の障子は閉じている。母は台所にいるはずなのに、包丁の音がしなかった。家の中が、息を止めているようだった。

私は障子の前で一拍置いた。

祖母がそうしていたように。

中へ入る。

黒檀の仏壇の前で、白磁の茶碗が少しだけずれていた。欠けた縁は裏庭を向いている。線香立ては右へ二センチ。位牌は、今朝よりもさらに深く、境界の方角へ向いていた。

私は手帳を開いた。

けれど、すぐには書かなかった。

仏壇の前の畳に、細い土の跡があった。縁側から伸び、仏間を横切り、位牌の前で途切れている。その先に、白磁の茶碗の影が落ちていた。

影の先は、庭ではなく、盛り土のある場所を指している。

私は鉛筆を握った。

七月一日。午後八時十一分。

沢井、昼に来るよう言う。久代を連れてくるよう言う。

土の下にあるものを、崩すと。

そこまで書き、私は手を止めた。

仏間の奥で、畳がゆっくり沈んだ。

今度は、私の背後だった。

振り返らないまま、私は鉛筆を紙へ押しつけた。

最後に一行だけ記す。

「沢井は、祖母を待たせている」

書き終えたとき、縁側の外で草が擦れた。

遠ざかる音ではなかった。

庭の奥から、家の方へ近づいてくる音だった。

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