第7話 香炉の位置

朝の蒸し暑さが、夜のあいだ閉じていた家の中へ、ゆっくり入り込んでいた。
網戸の向こうでは蝉が鳴いている。屋根瓦の下に溜まった熱が柱を伝い、縁側の板は夜を越してもぬるかった。私は仏間の障子の前で一度立ち止まり、息を浅く吸った。
線香の匂いは、昨夜より薄い。
その代わり、どこかに濡れた土の匂いがあった。庭から風が運んできたというより、畳の下や壁の隙間から、家そのものが吐き出しているような匂いだった。
障子を開ける。
黒檀の仏壇は、朝の光を吸って黒く沈んでいた。その前に置いた白磁の茶碗だけが、硬い白さを持って浮いている。欠けた縁は、昨夜の記憶より少しだけ裏庭の方角へ向いていた。
位牌も動いていた。
ほんのわずかだった。けれど、私は見間違えなかった。正面から見て二十度ほど、庭のある側へ身を向けている。線香立ては右へ半歩。灰の表面には、細い筋が二本残っていた。
私は座布団へ腰を下ろし、黒い手帳を開いた。
六月三十日。午前五時四十三分。
位牌、裏庭側へ約二十度。白磁の茶碗、欠けた縁は北西。線香立て、昨夜より約二センチ右。
鉛筆の芯が紙へ引っかかる音だけが、仏間に残った。
蝉の声は障子の向こうで遠くなり、用水路の水音も、ここまで届くころには細い糸のように痩せている。仏間は音がないのではない。入ってきた音を、何かが一つずつ飲み込んでいる。
私は香炉へ手を伸ばしかけた。
だが、指が縁に触れる前に、玄関の引き戸が開いた。
「守さん、いらっしゃいますか」
田辺慧巌の声だった。
私は立ち上がり、廊下へ出た。田辺は上がり框で草履を脱ぎ、左右の向きを揃えていた。底に付いた白い砂を指先で払い、すぐには家の中へ入らない。仏間の方角を見たまま、しばらく動かなかった。
「朝から、すみません」
母が台所から出てきた。髪をひとつに束ね、前掛けの紐を締め直している。片手には水の入った器があった。
「法要の確認ですか」
「それもあります。ただ、今日は少し見ておきたいものがありまして」
田辺は私の手元の手帳へ目を落とした。
「まだ、お書きになっている」
「毎朝、向きが変わるので」
「ええ」
田辺は短く答えたあと、仏間の障子の前まで歩いた。敷居をまたぐ前に、一度だけ足を止める。祖母と同じ間だった。
「入ってもよろしいでしょうか」
誰に向けた問いなのか、私は尋ねなかった。
母が戸口で黙っている。田辺は返事を待たず、しかし勝手に入ることもせず、もう一度仏間の奥を見た。
やがて、障子を開けた。
空気が変わった。
廊下から流れていた熱が、仏間の手前で薄い膜に阻まれたように感じられる。畳は湿っているのに、足の裏だけが冷えた。田辺は位牌を見なかった。黒檀の仏壇を見上げることもなかった。
最初に見たのは、線香立てだった。
「触れてもよろしいですか」
「はい」
田辺はしゃがみ、香炉を両手で持ち上げた。底を引きずらないよう、わずかに浮かせる。灰の表面を覗き込み、指先で乱れた筋をならした。
それから香炉を、位牌の前へ少しだけ右に置いた。
わずかな移動だった。それなのに、仏間の中にあったものが一つずつ所定の場所へ戻っていくように感じた。線香の煙がまだないのに、空気の流れだけが整っていく。
「香炉が、毎朝ずれるんです」
私は言った。
「位牌も、茶碗もです。夜に誰かが触っている形跡はありません。網戸も障子も閉まっていて、灰以外のものは動いていない」
田辺は私の言葉を遮らなかった。
「記録を見せていただけますか」
私は手帳を差し出した。田辺は受け取らず、私の横から頁を覗き込んだ。日付と時刻、位牌の角度、線香立ての位置、茶碗の欠けた縁の向き。私は毎朝の記録を順に説明した。隣家の裏庭で見た新しい土のこと、夜の草の音、縁側の下に残っていた細い土の跡のことも話した。
話しているうち、出来事は紙の上の数字へ変わっていった。
二十度。
二センチ。
午前五時四十三分。
それでも、田辺の顔は変わらなかった。
「角度をよく覚えておられますね」
「覚えていないと、動いたかどうか分からないので」
「そうでしょうね。ただ、守さんは少しだけ、見ている場所を間違えているかもしれません」
「どこをですか」
田辺は線香立ての灰から手を離した。
「向きそのものです」
「位牌が毎朝、向きを変えているのに?」
「向きは結果です。大切なのは、何を向いているかではなく、どこへ向けられているかです」
田辺は白磁の茶碗を持ち上げた。
私は息を止めた。
田辺は茶碗の底を指先で支え、欠けた部分を親指で確かめた。白磁の表面には、祖母が長年触れてきたための、薄いくすみがある。田辺はそれを見たあと、仏壇の中央から半寸ほど左へ置き直した。欠けた縁は、裏庭の方角を向いている。
「そこへ置くんですか」
「元の場所とは、どこでしょう」
「仏壇の中央です。祖母はいつも、そこに」
「中央は、仏壇の中だけで決められます。家全体から見れば、この茶碗は庭を見ている」
「茶碗が、ですか」
「茶碗そのものに意思がある、と申し上げているのではありません。置き方には、置いた人の手が残ります。すみさんは、物を正しく戻す人でした。正しいというのは、見た目を揃えることだけではない。何かの位置を、何かに対して定めることです」
母が戸口で器を持ち替えた。
「田辺さん、守は少し思い詰めているだけです。古い家ですし、床も傾いています。仏具くらい動くことはあるでしょう」
「そうかもしれません」
田辺は母を見た。
「ですが、久代さんは、今朝も動いたことをご覧になったのではありませんか」
母の指が器の縁で止まった。
「見たとは言っていません」
「言わなくても、手が覚えていることがあります」
「どういう意味ですか」
田辺はすぐに答えなかった。数珠を取り出し、珠を一つだけ親指で送った。
「守るために、毎日同じ手順を繰り返してきた人の手は、変化が起きたときだけ遅くなります。いつもならすぐに終える動作の前で、ほんの少し間ができる。先ほど、久代さんが水の器を置いたときにも、その間がありました」
母は仏間へ入らなかった。
「すみさんが亡くなってから、家の中の音が変わりました」
母が言った。
「それは私も分かっています。台所の戸の閉まる音も、夜の水音も、以前とは違う。仏間に入れば、線香の匂いがする。そんなものは当たり前なのに、今は匂いの奥に、別のものが混じっている気がするんです」
「土の匂いですか」
私が聞くと、母は私を見た。
「分からない。分からないけれど、庭を見たくなくなる匂いよ」
「祖母も、庭を見ていた」
「すみさんは、見ていたからこそ、私たちを見せないようにしていたのかもしれない」
「何から?」
母は答えなかった。
田辺が線香を一本取り上げた。火をつける。炎は短く揺れ、やがて赤い先端だけが残った。田辺が香炉へ立てると、煙は細くまっすぐ上がった。
誰も話さなかった。
煙は一度、仏壇の天井へ向かった。次の瞬間、ふいに左へ折れた。黒檀の面を撫で、遺影の横を通り、仏間の奥から縁側の方角へ流れていく。
私は無意識に息を止めた。
煙の先には、閉じた障子がある。その向こうに、裏庭と板塀と、細い用水路が続いている。
田辺の視線が、煙の向きを追った。
「裏庭です」
私は言った。
「沢井さんの家との境目へ向いている」
田辺は答えず、私の手帳を指した。
「地図はありますか」
「あります」
私は祖母の部屋へ走った。箪笥の引き出しの底に戻したふりをして、実際には自分の机の下へ隠していた地図を取る。紙は何度も開いたせいで、折り目の部分が白くなっていた。
台所の古い机に広げる。
紙から、乾いた木と樟脳の匂いが立った。田辺は地図の上へ身を乗り出さず、少し離れて立っている。私は現在の家の間取りと、紙に描かれた古い線を照らし合わせた。
土蔵の位置。
井戸の跡。
裏庭の角。
そして、今の境界杭より半歩ほど内側を走る、太く描き直された線。
「ここです」
私は指で示した。
「位牌の向きは、仏壇からこの場所へ続いている。煙も同じ方角へ流れました。沢井さんが夜に掘っている土の場所とも重なります」
田辺は地図を見ながら、数珠をゆっくり回した。
「線を追うのは、あなたの得意なことですね」
「得意というより、そうしないと分からない」
「分からないままでは、いられない?」
私は答えようとして、口を閉じた。
母が台所から戻ってきた。手には水を張った器がある。だが地図を見るなり、また足を止めた。
「それを、どこから出したの」
「祖母の箪笥です」
「戻しなさい」
「何が描いてあるか知ってるの?」
「古い土地の図でしょう」
「井戸と土蔵の位置が、今と違う。境界線も何度も描き直されている。沢井さんが掘っている場所は、この線の上だ」
母は器を机へ置いた。水面が揺れ、小さな輪が広がった。
「だから、何をするつもりなの」
「掘るとは言ってない」
「でも、知りたいのでしょう。知れば、次に触りたくなる。触れば、誰かを問い詰める。問い詰めれば、昔の話が近所へ出ていく。あんたは、そこまで考えているの?」
「考えてる」
「考えているだけで、もう十分怖いのよ」
「怖いから、見ないふりをするの?」
「怖いから、生活を止めないの」
母の声が机の上へ落ちた。
「朝になれば米を研ぐ。洗濯物を干す。仏花の水を替える。近所へ頭を下げる。そうして、今日一日を終わらせる。すみさんが亡くなってからも、私はそうしてきた。怖いものを怖いと認めたら、次に何をすればいいのか分からなくなるから」
「祖母は、分かっていたんだと思う」
「何が」
「何をするか。茶碗を置く。線香立てを直す。庭を掃く。位牌を戻す。毎日、同じことをしていた」
「それは、終わらせるためだったのかもしれない」
母は地図を見たまま言った。
「それとも、終わらないものを終わったことにするためだったのかもしれない」
田辺が、母の方へ顔を向けた。
「久代さん。守さんは、お母さまを責めようとしているわけではありません」
「分かっています」
「では、久代さんご自身を責める必要もありません」
「責めているつもりはありません」
「責める人は、そう言います」
田辺の声には、叱る響きがなかった。そのため、母は言い返せなかった。
田辺は線香の煙を見た。
「沈黙には、いくつかあります。知らないから黙る沈黙。恐ろしいから黙る沈黙。誰かを守るために黙る沈黙。そして、黙っていること自体が誰かを傷つけていると知りながら、それでも黙り続ける沈黙です」
仏間の奥で、木が小さく軋んだ。
「すみさんの沈黙が、どれだったのかは、まだ私にも断定できません。ただ、位牌が向いている先に、土の下のものがあるなら、これは死者が怒っているという話ではないでしょう。残された者が、同じ場所を見続けているのに、見たことを言葉へ移せずにいる。その滞りが、仏間の形を借りて現れているのかもしれません」
「土の下に何かあるんですか」
私は聞いた。
「あるかもしれません」
「沢井さんが、毎晩そこを見張っています」

「見張っているなら、隠すためだけではないのでしょう」
「どういうことですか」
「本当に隠したいだけなら、土に触れ続ける必要はありません。人は、忘れたいものから距離を取ります。何度も土を均し、根を避け、沈みを確かめるのは、そこにあるものを崩さないためか、崩れたものを自分が受け止めるためです」
母が目を伏せた。
私は夜の沢井を思い出した。土を手のひらで戻していた手つき。境界杭の紐を結び直していた指。あの男は、何かを隠しているのではなく、隠したものが地上へ戻ってこないよう、長いあいだ押さえ続けているように見えた。
「田辺さん」
私は言った。
「祖母のメモに、『水音のするうちに済ませる』とありました。これは、どういう意味でしょう」
田辺はすぐには答えなかった。
「水音があるうちは、境目が分かる」
「境目ですか」
「水は、土の中へ入り、家の下を通り、隣の土地へ出ていきます。所有の線を知りません。けれど、流れがあることで、土地の高低や、昔からの道筋が分かる。音がしているあいだなら、自分の足音だけで判断せずに済む」
「つまり、急げという意味ではない?」
「急ぐ必要はありません。急ぐと、見えるものまで見落とします」
田辺は地図へ視線を落とした。
「ただし、夜には触れないほうがよいでしょう」
母が顔を上げた。
「どうしてですか」
「夜の土は、生きている者の判断を狭くします。見えないものを見たつもりになり、見えるものを見落とす。すみさんは、それを知っていたのでしょう」
「祖母は、夜に何かを見たんですか」
私が聞くと、田辺はしばらく黙った。
「見たのかもしれません。あるいは、見なかったことにしたものがあったのかもしれません」
「同じじゃないですか」
「違います。見たものは、目を閉じても残ります。見なかったことにしたものは、目を開けている間だけ、見えないふりができる」
その言葉を聞いたとき、仏間の床が小さく沈んだ。
誰かが、仏壇の前からこちらへ一歩近づいたような音だった。
母が息を呑む。
田辺は振り返らない。
「今の音は、何ですか」
私は聞いた。
「聞こえたままにしておきましょう」
「でも、誰かがいる」
「いる、と決めるのはまだ早い」
「では、何だと思いますか」
田辺は香炉へ手を伸ばし、灰の表面を平らにならした。
「今は、音です」
「音だけ?」
「音を、すぐ誰かにしないことです。死者を怪異にしてしまうと、残された者は楽になります。怖いもののせいにして、自分が聞かなかったことや、言わなかったことを忘れられるからです」
私は口を閉じた。
祖母の位牌が動いた。茶碗がずれた。土の跡が伸びた。草の音が近づいた。私はそれらを、祖母の気配だと思っていた。祖母が何かを知らせているのだと。
だが、それは私が祖母を、答えを返してくれる存在に変えていたということでもある。
田辺は私の手帳を見た。
「記録は、答えの代わりにはなりません」
「では、何のために書くんですか」
「持ち続けないためです」
「持ち続けない?」
「手の中に握ったままのものは、形を確かめられません。机の上へ置けば、裏側を見ることができる。記録も同じです。見たことを紙へ置くことで、あなたはそれを少し離れたところから見られる」
私は手帳を開いた。
六月二十七日から続く数字が、頁の上に並んでいる。位牌の角度。線香立てのずれ。茶碗の向き。草の音が近づいた時刻。母の手が止まった回数。
私は、物の位置だけを記録していたつもりだった。
けれど、そこには母の沈黙も、沢井の土も、祖母のいない家の息苦しさも、数字の隙間に入り込んでいる。
「今、位牌を戻してもいいですか」
私は尋ねた。
田辺は位牌を見た。
「なぜ戻したいのですか」
「正しい位置へ戻したいからです」
「正しいとは、誰にとってですか」
私は答えられなかった。
仏壇の中央。家族が合掌する正面。祖母の名前がこちらを向く場所。それが正しいと思っていた。だが、祖母が毎朝、茶碗の欠けた縁を庭へ向けていたなら、正しさは別のところにあるのかもしれない。
田辺は静かに言った。
「向きを正す前に、向けられている先を見てください」
「見れば、何か分かりますか」
「分からないかもしれません」
「それでも?」
「それでもです。分からないものを、分からないまま見届けることがあります。弔いは、いつも答えを得るためにするものではありません。もう一人で抱えなくてよいと、死者と生者の双方へ形を渡すためにするものです」
母が仏間へ一歩入った。
長いあいだ戸口に立っていた母が、ようやく仏壇の前まで来る。白磁の茶碗を持ち上げ、欠けた縁を親指で撫でた。祖母と同じ仕草だった。
「この茶碗を、沢井さんが使っていたことがあります」
母が言った。
「昔の話です。境界のことで揉めたあと、あの人は何度か夜に来ました。すみさんは裏口から入れて、茶を出した。何を話していたのか、私は聞いていません。ただ、二人とも庭を見ていた」
「なぜ、今まで言わなかったんですか」
「言ったら、あんたはすぐに沢井さんのところへ行くでしょう」
「行くと思います」
「だからよ。あんたは見つけたら、最後まで確かめようとする。昔の私も、そうだったらよかった。でも私は、台所にいて、鍋の火を消すことしかできなかった。すみさんが庭へ行っても、沢井さんが後を追っても、何も聞かなかった」
「母さんは、祖母を守ったの?」
「分からない」
母は茶碗を見たまま答えた。
「私が守ったのは、家の形だけだったかもしれない。すみさんが守ろうとしたものが何だったのか、私は聞かなかった。聞かなかったから、あの人を悪者にせずに済んだ。でも同時に、あの人を一人にした」
私は母の隣へ座った。
仏間の畳は冷たかった。母の肩が近くにあり、そこから生きた人間の体温が伝わってくる。仏壇の奥には、温度のない気配が沈んでいる。生者と死者の境目は、見える線ではなく、こういう肌の差に現れるのかもしれない。
田辺は香炉を少しだけ正面へ戻した。
「今日は、これ以上は触れません」
「でも、位牌は」
「位牌は、そのままにします」
「正しい位置へ戻さないんですか」
「まだ、戻す理由がありません」
田辺は線香の煙を見た。
煙は今度、まっすぐ上がっている。だが、ほんの少しだけ裏庭の方へ傾いていた。
「向きは、誰かを脅かすために変わるとは限りません。残された人の目を、何度も同じ場所へ戻すことがあります。そこにあるものを見つけたら、すぐに元へ戻すのではなく、見つけたものを置く場所を考えなければならない」
「土の下のものを、掘り返すんですか」
「必要なら。けれど、掘り返す前に、誰と一緒に見るのかを決めることです」
「沢井さんも?」
「沢井さんもです」
母が息を吐いた。
「二つの家が、また同じことで揉める」
「揉めないために、場を整えるのです」
田辺は私を見た。
「守さん。あなたがしたいのは、祖母の秘密を暴くことですか。それとも、祖母が一人で守ってきたものを、終わらせることですか」
私は手帳の端を指で擦った。
言葉にすれば、どちらも同じように聞こえる。だが胸の中では、違っていた。
秘密を暴けば、祖母の沈黙はただの隠蔽になる。けれど、終わらせるなら、沈黙の理由も、守られた人間の暮らしも、私たちが見ないふりをした時間も、一緒に見なければならない。
「分かりません」
私は言った。
「でも、もう一人では抱えたくない」
母が私を見た。
田辺は一度だけ頷いた。
「それで十分です」
そのとき、縁側の外で草が擦れた。
ざ、と一度。
今度は遠かった。庭の奥から、用水路に沿って何かが移動していく。蝉の声が途切れ、水の音だけが残る。
田辺は立ち上がった。
「水音がしています」
私は祖母のメモを思い出した。
「このままにしておくんですか」
「今日は、見たものを置く日です。動かす日は、皆で決めましょう」
田辺は香炉の灰を最後に一度だけならした。線香の燃えた灰が、細く崩れて落ちる。音は小さかったが、仏間の中で長く響いた。
「記録してください」
「何を?」
「今のことを。位牌の向きも、香炉の位置も、誰が何を言ったかも」
私は手帳を開いた。
六月三十日。午前六時二十一分。
田辺慧巌、来訪。
香炉の灰をならし、位牌の前へ少し右に移動。白磁の茶碗、欠けた縁を裏庭側へ。位牌は戻さず。
私はそこで鉛筆を止めた。
「田辺さんの言葉を書いても?」
「見たものなら」
「向きそのものより、向けられている先を見る」
田辺は頷いた。
「それから、もう一つ」
「何ですか」
「今夜は、庭へ出ないことです」
「沢井さんを見張るなということですか」
「見張ることと、見ることは違います。あなたはもう十分に見ました。今夜は、見たものを自分の中で動かさない時間にしてください」
私は返事をしなかった。
田辺は玄関へ向かった。母が後を追う。私は仏間に残り、黒檀の仏壇を見た。
位牌は裏庭を向いたままだった。
白磁の茶碗の欠けた縁も、用水路のある方角を指している。線香の煙は細く、見えない境目をなぞるように漂っていた。
玄関で、田辺が敷居に足を止めた。
「守さん」
「はい」
「境目は、越えるためだけにあるものではありません」
私は振り返った。
「では、何のために?」
「こちらとあちらを、同時に見失わないためです」
田辺はそう言って、草履を履いた。
私は仏間へ戻り、手帳の最後の行を書いた。
「位牌は、まだ戻さない」
鉛筆を置いたとき、畳がゆっくり沈んだ。
仏壇の前から、縁側の方へ一歩。
私は振り返らなかった。
音の先に誰がいるのか、何が近づいているのか、まだ分からない。けれど今は、分からないものをすぐに祖母の姿へ変えず、ただその音を音のまま聞いていた。
外では、用水路が流れている。
夏草が、風のない庭でかすかに擦れている。
そして白磁の茶碗の欠けた縁は、私ではなく、庭の先を向いていた。
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