6話 仏間に入る僧

田辺慧巌が来たのは、昼下がりだった。

蝉の声が屋根を叩き、古い木造家屋の柱まで熱を持っていた。台所では久代が麦茶を瓶へ移している。氷を入れた硝子の音が、からん、と一度鳴り、それきり家の中へ沈んだ。

玄関の引き戸が開く音がした。

私は自分の部屋で、祖母の境界地図をノートの下へ隠していた。紙の端を折り目に沿って撫でていると、母の声が聞こえた。

「まあ、田辺さん。わざわざすみません」

「近くまで来ましたので」

田辺の声は低く、乾いていた。暑さに疲れた人の声ではない。声を使うたび、周囲の空気まで静かに整えてしまうような響きだった。

私は廊下へ出た。

田辺慧巌は、玄関の上がり框で草履を脱ぎ、左右の向きを揃えていた。草履の底には寺の境内の白い砂が少し残っている。田辺はそれを指で払ってから、立ち上がった。

「法要の確認ですか」

私が聞くと、母が先に答えた。

「来月の納骨のこと。まだ話してなかったでしょう」

田辺は私を見た。目が合ったのは一瞬だったが、その前に彼の視線が私の手元へ落ちた。ノートを持っていることに気づいたらしい。

「守さんは、記録を続けておられますか」

「はい」

「そうですか」

それだけ言って、田辺は仏間の方へ顔を向けた。

障子は閉まっている。けれど、縁側の網戸の向こうから、伸びた夏草が擦れる音がした。風はなかった。草の一群だけが、誰かの通り道を譲るようにざわめいた。

田辺は玄関から仏間へ向かう廊下の途中で、足を止めた。

「田辺さん?」

母が呼ぶ。

田辺は返事をせず、縁側を見た。視線は庭の奥、板塀と用水路のある方角へ向けられている。何かを見ているのではなく、何かがこちらを見ているかどうかを測っているようだった。

やがて田辺は、障子の前で一度だけ息を置いた。

「入ってもよろしいでしょうか」

仏間へ入るのに、誰の許しが要るのかと私は思った。だが、問いの相手は母ではなかった。この家に残ったものへ、そう尋ねているように聞こえた。

母が小さく頷く。

田辺が障子を開けた。

仏間の空気は、廊下より明らかに重かった。線香の匂いが薄く漂い、湿った畳の奥から冷えが上がっている。外では蝉が鳴き続けているのに、仏間へ入った途端、その声は一枚の布を隔てたように遠くなった。

田辺は位牌を見なかった。

最初に視線を向けたのは、線香立てだった。

灰の表面には、祖母が生前つけたものとは違う細い筋がある。線香を抜いた跡のようにも、指先でなぞった跡のようにも見えた。線香立て自体は、昨夜、私が記録した位置から右へ二センチほどずれている。

田辺は香炉の前にしゃがんだ。

「触れても?」

今度は私に聞いた。

「はい」

田辺は灰へ指を入れなかった。香炉の縁を両手で持ち、ほんの少し手前へ引いた。底が畳を擦る音はしなかった。持ち上げたのではなく、畳の目に沿って滑らせたのだろう。

「動いているのは、位牌だけではありませんね」

「茶碗もです。線香立ても、毎朝少しずつ」

私はノートを開いた。田辺へ見せようとしたが、彼は頁を受け取らず、私の横から数字を目で追った。

六月二十七日から始まった記録。位牌の角度、茶碗の欠けた縁の向き、線香立ての位置。夜に聞こえた草の音と、縁側の下で見つけた土の跡。私は順番を追って説明した。言葉にすると、ひとつひとつの出来事が急に小さくなった。位牌の角度は二十度。茶碗の移動は半尺。土の筋は細く、途中で途切れている。

記録は事実を残してくれる。だが、事実だけにすると、恐怖はどこかへ逃げてしまう。

田辺は最後まで口を挟まず聞いた。

久代は仏間の戸口に立ったまま、麦茶の瓶を持っていた。瓶の表面には細かな水滴が浮いている。冷たい水のはずなのに、彼女の指は瓶の首を強く握っていた。

田辺は白磁の茶碗へ手を伸ばした。

私は反射的に息を止めた。

茶碗は祖母が使っていた。小さく、軽く、縁の一箇所が欠けている。田辺はそれを乱暴に持ち上げず、両手の指先で底を支えた。欠けた部分へ親指が触れる。その瞬間、田辺の眉がわずかに動いた。

「この欠けは、古いものですか」

「俺が子どもの頃には、もうありました」

「そうですか」

田辺は茶碗の内側を見た。白磁の底には、茶渋が薄い輪になって残っている。洗っても完全には落ちなかった祖母の生活の跡だ。

「すみさんは、これを使う前に温めていましたか」

私は少し驚いた。

「はい。湯を入れて、しばらく置いていました。熱いままだと、俺が飲めないから」

「あなたのために?」

「たぶん。祖母は、そういうことを言わない人でした」

田辺は茶碗を持ったまま、仏壇の前の床を見た。

「言わない人は、何もしていない人ではありません」

その言葉が、仏間の奥へ静かに落ちた。

久代が瓶を置いた。硝子の底が畳を叩き、思ったより大きな音になった。

「田辺さん、守が妙な話をしているだけです。古い家ですし、夜中に誰かが触ったのかもしれません。私も、気のせいだと思っていました」

「思っていた、ということは、今は違いますか」

母は答えなかった。

田辺は茶碗を元の場所へ戻した。だが、元通りにはしなかった。仏壇の中央から半寸ほど左へ寄せ、欠けた縁を裏庭の方角へ向ける。

その置き方を見た瞬間、私は祖母の手を思い出した。

茶碗を置く前に一呼吸置く。欠けたところを確かめる。仏壇の奥を見る。それから、誰にも気づかれない程度に位置をずらす。

「なぜ、そこへ置くんですか」

「今の場所が、元の場所だとは限らないからです」

「でも、祖母はいつも仏壇の中央に置いていました」

「中央というのは、見る人間の都合で決まります。仏壇の中で中央でも、家全体から見れば、別の場所を指していることがある」

田辺は私のノートを見た。

「守さんは、毎朝、位牌の角度を書いている」

「はい」

「けれど、角度を測る前に、向いている先を見ましたか」

私は答えられなかった。

位牌が何度動いたかは覚えている。二十度、十五度、わずかに右。だが、その延長線がどこへ向かうのかを、正確に考えたことはなかった。仏壇の正面から見て右。縁側の柱。庭の石。板塀。用水路。

田辺は、私が視線を動かすのを待っていた。

「裏庭です」

やっと言うと、田辺は頷いた。

「ええ」

「沢井さんの家との境目へ向いている」

母が小さく息を吸った。

田辺はその反応を見ても、すぐにはそちらへ顔を向けなかった。

「向きそのものより、向けられている先を見たほうがよろしい」

同じ言葉を、田辺はゆっくり繰り返した。

「位牌が動くことを、私は脅しとは考えません。死者が生きている者へ何かを命じる、と決めつける必要もない。けれど、供養の形が整っていない場所では、残された者の目が、何度も同じところへ戻されることがあります」

「供養が、整っていない?」

「法要を済ませたかどうかだけではありません」

田辺は数珠を指先で回し始めた。珠と珠が触れる音は小さく、仏間の静けさを乱さなかった。

「家族が死者を送るとき、亡くなった人の人生を、都合のよい一枚に畳んでしまうことがあります。よく働いた人。優しかった人。長生きした人。そういう言葉は間違いではありません。ただ、その人が抱えていたものまで一緒に畳むと、残ったものの置き場がなくなる」

「祖母が抱えていたものを、俺たちは知らない」

「知らないことと、知らないまま送ることは違います」

母が低く言った。

「田辺さん、すみさんは、何か悪いことをしたんでしょうか」

田辺は母を見た。

「私は、悪いことをしたかどうかを聞いているのではありません」

「でも、何かが残っているなら、理由があるでしょう」

「理由は、善悪だけでできてはいません。守ろうとしたことが、別の誰かを傷つけることもある。黙っていたことが、ある人の暮らしを保つ一方で、別の人の苦しみを長引かせることもある。死者を一つの言葉で裁くのは、生きている者が楽になるための方法です」

母の指が、前掛けの端をつまんだ。

「では、どうすればいいんですか」

「まず、決めつけないことです」

田辺は線香を一本取り上げた。

「怖いものがある。だから祓う。悪いことがある。だから掘り返す。そういう順番にすると、死者も生者も置き去りになります。先に場を整え、それから、何を見たのかを確かめる。見たものを、誰の責任か決める前に、そこに置くのです」

私は、祖母の箪笥から見つけた紙片を思い出した。

向きを正せ。

夜に触るな。

水音のするうちに済ませる。

「祖母は、何かを書き残していました」

私は言った。

母が私を見る。

「守」

「短いメモです。『向きを正せ』『夜に触るな』『水音のするうちに済ませる』。それから、古い境界地図も」

田辺はすぐに驚かなかった。数珠を回す指だけが止まった。

「地図は、今ありますか」

「部屋に」

「見せていただけますか」

私は立ち上がりかけた。

田辺が手を上げた。

「今は、まだ」

「どうしてですか」

「仏間の前で、地図を広げると、あなたはまた線だけを見るからです」

言われたとおりだった。私は地図を見れば、境界のずれや井戸の位置を測る。紙の上の線を追い、土の下にあるものを特定しようとする。けれど、田辺が見ているのは、地図を持つ人間の手の震えや、母が仏間に入らず戸口に留まる理由なのだろう。

「土の下に、何かあるんですか」

「あるかもしれません」

「沢井さんが夜に掘っています」

「知っています」

私は顔を上げた。

「知っているんですか」

「この辺りの古い家では、夜に土を触る人は珍しくありません。ただ、沢井さんの場合は、庭を手入れしている手つきではない」

「何をしているんです」

田辺は線香へ火を移した。炎が細く揺れ、煙が立ち上る。

「見張っているのでしょう」

「何を」

「崩れかけたものを」

田辺は線香を香炉へ立てた。煙はまっすぐ上がり、それから仏壇の右側へゆっくり流れた。右側には縁側があり、その先に裏庭と用水路がある。

久代が一歩だけ仏間へ入った。

「沢井さんが、昔、すみさんと境界のことで揉めたのは知っています」

母の声は平坦だった。けれど、今までの平らな声とは違っていた。何かを隠すためではなく、崩れないように慎重に置いている声だった。

「私が高校生の頃です。夜に、男の人が何人か来て、土蔵の前で怒鳴っていました。何を争っていたのかは聞いていません。聞かないまま、鍋の火を消しました」

田辺は母の方へ顔を向けた。

「その後は?」

「朝になると、すみさんが庭を掃いていました。沢井さんもいました。二人とも、何もなかったようにしていた。私は、そのままにしておけばいいと思った」

「今も、そう思いますか」

母は仏壇の方を見た。

位牌は、裏庭を向いたままだった。

「思いたいんです」

久代はそう言った。

「思いたいけれど、もう無理みたいです。すみさんが死んでから、家の中の音が変わった。台所の戸が閉まる音も、夜の水音も、仏間の静けさも。守が言う前から気づいていました。でも、認めたら、私が今までやってきたことまで間違いになる気がして」

田辺は一拍置いた。

「間違いだったと、すぐに決めなくてよろしい」

「でも、見ないようにしていた」

「見ないことで、守れた日もあったのでしょう」

母は目を伏せた。

「守れたのか、ただ先送りしたのか、分かりません」

「分からないものを、すぐにどちらかへ置かなくていいのです」

田辺の声は、雨のない夏の日に聞く水音のようだった。細いのに、同じ場所を離れない。

「ただし、先送りしたものには、いつか置き場を作らなければならない。死者を送るとは、忘れることではありません。残された者が、もう同じ場所を守り続けなくてもいい形にすることです」

私は祖母の姿を思い出した。

仏間へ入る前の一拍。茶碗の欠けた縁を確かめる親指。庭の境目で立ち止まり、何かを見たあと、私へ茶を勧める声。

祖母は一人で、置き場を作り続けていたのかもしれない。

「土の下のものを、掘り返すべきですか」

私が聞くと、田辺はすぐには答えなかった。

「誰が埋めたのか。何を埋めたのか。なぜ埋めたのか。それを確かめずに掘るのは、詮索です」

「でも、位牌が向いている」

「だから、まず向きを覚えておきなさい。急いで正しい方角へ戻すのではなく、何度も向けられた先を見て、そこに誰の暮らしがあるのかを考える」

「沢井さんの暮らしも?」

「もちろんです。土の下にあるものだけでなく、その上で長年暮らしてきた人も含めて、弔いは行われます」

その言葉を聞いたとき、沢井の夜の姿が浮かんだ。鍬を振り下ろし、掘った土を手のひらで戻し、盛り上がりを周囲と同じ高さまでならしていた背中。あれは隠蔽のためだけの動きではなかった。土の下にあるものが崩れないよう、あるいは崩れたときに誰かが傷つかないよう、見張っている動きだった。

田辺は仏壇の前で手を合わせた。

長い沈黙が続いた。

読経はない。祝詞もない。田辺の指先で数珠がゆっくり回り、線香の煙が黒檀の仏壇を撫でている。仏間の外では、蝉が一斉に鳴いていた。だが、その音は障子の向こうで薄くなり、部屋の中には耳の痛い静けさだけが残った。

私はその静けさの中で、誰かが畳を踏む気配を感じた。

仏壇の前から、こちらへ一歩。

次の足音はなかった。

田辺は目を閉じたまま、静かに言った。

「今、何か聞こえましたか」

「はい」

「どこからですか」

私はすぐには答えられなかった。畳の沈み方、音の消え方、障子の向こうの草の位置を思い出す。

「仏壇の前から、縁側の方へ」

田辺は頷いた。

「では、そこまでです」

「そこまで?」

「今日は、そこまででよろしい」

田辺は立ち上がり、線香立てを見た。灰の筋を指先でならし、香炉を元の位置へ戻す。白磁の茶碗は動かさなかった。欠けた縁は裏庭を向いたままだった。

「向きを正さないんですか」

「正すべき向きが、まだ分かりませんから」

田辺は私を見た。

「分からないものを、正しい形に押し込めると、また別の場所がずれます」

私はノートを開き、今日のことを書いた。

田辺慧巌、午後二時十六分に来訪。

線香立てを確認。白磁の茶碗を半寸左へ移動。位牌は動かさず。

その下に、田辺の言葉を書いた。

「向きそのものより、向けられている先を見る」

書き終えると、田辺は私のノートを覗き込んだ。

「記録は、あなたを守っていますか」

「分かりません」

「それで結構です。記録が答えになる必要はありません。見たものを見たまま置いておくための台です」

「台?」

「茶碗を置く台のようなものです。茶碗そのものではない。けれど、台がなければ、手の中で持ち続けることになる」

私は白磁の茶碗を見た。

その白さには、祖母の手の温度が残っている気がした。死者のものだと思うと冷たく、生前の記憶へ触れると温かい。二つの感覚が、同じ器の中で重なっていた。

田辺は玄関へ向かった。

久代が見送りに出る。私は少し遅れて後を追った。

玄関で田辺は草履を履いた。片方を置き、もう片方を揃える。門へ出る前に、再び敷居で足を止めた。

庭の奥から、草の擦れる音がした。

ざ、と短く鳴り、用水路の水音へ溶けていく。

田辺は裏手の方角を見た。

「田辺さん」

私は呼びかけた。

「沢井さんのことを、知っているんですか」

田辺はすぐに答えなかった。数珠を一度だけ握り直し、門の外へ視線を向ける。

「知っていることは、少しあります」

「祖母が何を守ったのかも?」

「それは、すみさんに聞くべきことでした」

「もう聞けません」

「だから、残されたものを見ます」

「残されたものって、位牌や地図ですか」

「それだけではありません」

田辺は仏間の方を振り返った。

「久代さんの手つきも、沢井さんの土のならし方も、あなたが毎朝書いている文字も、すみさんが残したものです。人は、言葉だけを残すのではありません。誰かを守ろうとした手順を、別の人間の手へ渡していく」

「でも、その手順が、今は家を苦しめている」

「守り方は、守る相手がいなくなったあとに、檻へ変わることがあります」

田辺の言葉に、私は息を止めた。

「では、壊すべきですか」

「壊すのではなく、終わらせるのです」

「どう違うんですか」

「壊す者は、そこにあった理由まで壊します。終わらせる者は、理由を見たうえで、もう続けなくてよい形にする」

田辺はそれ以上、説明しなかった。

門の外へ出る前、彼はもう一度だけ用水路へ目をやった。水の流れは見えない。ただ、石に当たる音だけが、古い家の裏を通り過ぎていく。

「水音のするうちに、という言葉を、急げという意味には取らないことです」

私は祖母のメモを思い出した。

「では、何ですか」

「音があるうちなら、境目が分かるということです」

田辺は私を見た。

「音が止まったとき、人は自分の足音だけを聞くようになります」

その意味を考えている間に、田辺は歩き出した。

草履の音が門の外へ遠ざかり、やがて蝉の声に紛れた。

私は玄関に残った。

家の中から、母が呼ぶ。

「守、麦茶、冷蔵庫に入れておいて」

「分かった」

返事をしてから、私は仏間へ戻った。

黒檀の仏壇の前で、白磁の茶碗が半寸左へ寄っている。線香立ての灰はならされ、位牌は裏庭を向いたままだった。

縁側の網戸の向こうで、草がまた擦れた。

今度は遠かった。

私はノートを閉じず、最後の頁に書き足した。

「田辺慧巌は、位牌を戻さなかった」

その下に、少し迷ってから続ける。

「向いている先を、まだ見ていない」

鉛筆を置いたとき、仏壇の奥で、畳がゆっくり沈んだ。

一歩だけだった。

けれど今度は、その音を聞いても、私は母を呼ばなかった。白磁の茶碗へ手を伸ばし、欠けた縁を指で確かめる。

祖母が生きていた頃と同じように、そこには小さな傷があった。

見えないところへ隠せば、忘れてしまう傷だった。

私は茶碗を持ち上げず、ただ、向けられた先を見た。巣立ちきれない夏草の向こうに、古い石と、境界の杭と、細い用水路がある。

その先で、何かが近づいている気配がした。

まだ姿はない。

けれど、音だけは、確かにこちらへ向かっていた。

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