第5話 祖母のメモ

翌朝、私は祖母の箪笥を開けた。
前の晩から、そうすると決めていた。決めていたというより、眠れないまま朝になり、布団の中で何度も同じ場所を思い浮かべていた。仏間の前で途切れた土の跡。裏庭の盛り土。沢井の「二つの家が、同じ夜を掘り返さんようにだ」という声。
それらを、祖母の遺品と結びつける以外に、私には方法がなかった。
箪笥は祖母の部屋の隅に置かれている。引き出しの取っ手は長年触られて黒ずみ、木の表面には細かな傷が縦に走っていた。祖母は何かをしまうとき、必ず一度、引き出しの中を手で撫でた。紙の端が折れていないか、布が湿っていないか、物の向きが乱れていないかを確かめるためだった。
私は取っ手に手をかけ、しばらく動かなかった。
部屋には、祖母の匂いがまだ残っていた。樟脳と乾いた布、古い木、それから夏の朝に淹れていた薄い茶の匂い。人の匂いは、亡くなってから急に消えるものではないらしい。少しずつ薄くなり、別の匂いに押され、それでも思い出そうとすると、何かの隙間から戻ってくる。
一段目には衣類があった。二段目には裁縫道具と、畳んだ手拭い。三段目を開けると、白磁の茶碗を包んでいた布が出てきた。
薄い藍色の木綿だった。
私は布を広げ、鼻を近づけた。茶碗の匂いがするはずはないのに、唇をつけたときの湿った白磁の感触まで、手のひらに蘇った。祖母は茶を淹れる前に、茶碗を湯で温めた。私が熱いと言うと、「熱いものは、熱いうちに飲むものだよ」と言いながら、少し冷ましてくれた。
布の折り目を開くと、底に小さな紙片が貼りついていた。
私は爪を立てず、鉛筆の先で端を起こした。紙は湿気で少し波打っていたが、破れずに剥がれた。祖母の字だった。
短い文が、三行だけ並んでいる。
「向きを正せ」
「夜に触るな」
「水音のするうちに済ませる」
私は紙を持ったまま、しばらく意味を考えた。
向きを正せ。
位牌のことだろうか。線香立てや茶碗のことだろうか。それとも、もっと別のもの。昨夜、仏壇の前に残っていた土の跡を思い出す。土は縁側から仏間へ続いていた。あの跡を正せという意味なら、祖母は何をどこへ戻そうとしていたのか。
夜に触るな。
これは、かなりはっきりしていた。沢井が夜に土をならしている。祖母はそのことを知っていたのかもしれない。いや、知っていたからこそ、この紙を残したのだろう。
最後の一行だけが分からなかった。
水音のするうちに済ませる。
私は耳を澄ました。
家の裏手から、用水路の音が聞こえている。昼間の流れは浅く、底石を擦る音も細い。だが、この家では水音があるときだけ、何かの気配が遠のくように感じられた。昨夜、沢井が土をならしていたときも、用水路の音が急に遠のき、草の擦れる音が縁側まで近づいてきた。
「済ませるって、何を」
声に出しても、紙は答えなかった。
私は紙をノートの頁に挟み、さらに奥の引き出しを探った。針山の下から古い数珠が出てきた。珠は手の脂で黒く光り、房の一部がほつれている。その下には、畳んだ布と、錆びた裁ち鋏があった。どれも祖母が長く使っていたものだったが、境界の話につながるものは見当たらない。
最後の引き出しを抜いた。
底板の奥に、何かが引っかかっている。
私は引き出しを逆さにせず、手を差し入れて確かめた。木の隙間に、折り畳まれた紙が押し込まれていた。さっきの紙片より厚く、何度も折り直した跡がある。
広げると、古い土地図だった。
現在の市道も、隣家との塀も描かれていない。手書きの細い線で、土蔵、井戸、裏庭、用水路の流れが示されている。紙の端には、かつてここにあった建物の名前らしきものが書かれていたが、墨が滲んでいて読めなかった。
私は畳の上へ地図を置いた。
仏間から線香の匂いが流れてくる。障子は閉めているのに、煙がこちらへ向かっているようだった。私は紙の四隅を文鎮代わりに数珠で押さえ、現在の家の間取りと照らし合わせた。
古い土蔵は、今の隣家の裏庭にかかっている。
井戸の跡は、境界の杭より少しこちら側。用水路は昔の線と今の流れがほとんど一致しているが、裏庭の角だけが不自然にずれていた。
そして地図の境界線は、その一点で何度も描き直されている。
太くなった線のそばに、祖母の字で小さな印があった。
丸ではない。矢印でもない。
白磁の茶碗の欠けた縁のような、細い切れ目だった。
私は息を止めた。
位牌の向き。茶碗の欠け。線香立てのずれ。昨夜、仏壇の前で途切れた土の跡。
全部が、同じ場所を指している。
正確な場所を確かめるため、私は地図を持って縁側へ出た。夏の熱が、すぐに腕へまとわりついた。庭の草は朝露を残し、葉先が衣服に触れるたび、冷たい水が肌へ落ちた。土の表面は乾いているのに、足の裏へ伝わる地面の感触は柔らかい。
板塀の手前まで歩く。
用水路の水音が、昼より近く聞こえていた。石に当たる水が細かく跳ね、暗い溝の中で何かを囁いているようだった。私は地図を地面へ重ねる。紙の上の古い境界線は、今の杭より半歩ほど内側を通っていた。
昨夜、沢井が掘っていた場所と重なる。
私はしゃがみ、盛り土へ手を伸ばした。
触れる前に、背後で障子が開いた。
「何してるの」
母だった。
久代は片手に包丁を持ち、もう片方の手に濡れた布巾を握っていた。台所から出てきたままなのだろう。包丁の刃に、午前中に切った大根の白い汁が乾いている。
「地図を見つけた」
私は振り返った。
母は地図を見た瞬間、足を止めた。
それだけで、何かを知っていることが分かった。驚いたのではない。見たことのあるものを、長いあいだ見ないふりをしていた人の止まり方だった。
「どこにあったの」
「祖母の箪笥の底」
「戻して」
「何が描いてあるか知ってるんだね」
「知らない」
「なら、どうして戻せと言うの」
「古い紙は湿気るから」
「地図の話をしてる」
「私も紙の話をしてるの」
母は縁側へ上がらず、庭の端に立った。裸足の先が土に触れないよう、板の際で足を止めている。祖母もそうだった。境界へ近づいたとき、決して足を揃えて踏み込まなかった。
私は地図を持ち上げた。
「土蔵と井戸が描いてある。今の境界と違う。沢井さんが掘ってる場所は、昔の境界線の上だ」
母は布巾を絞った。水が草の上へ落ち、葉の先で小さく光った。
「だから何」
「祖母は知ってた」
「すみさんが古い家のことを知っていたとしても、不思議じゃないでしょう。ここで生まれて、ここで暮らしていたんだから」
「夜に触るなって書いてあった」
母の手が止まった。
「何を?」
私は紙片を見せた。
母は近づかなかった。目だけを細めて、三行の字を追った。風がないのに、地図の端がわずかにめくれた。母はその紙片を見つめたまま、長く息を吐いた。
「その字は、すみさんのものよ」
「内容を知ってる?」
「知らない」
「母さんは、知らないって言いながら、いつも知ってる顔をする」
「知っている顔って、どんな顔よ」
「紙を見たときに手が止まる顔」
母は私を見た。
「守、あんたは物ばかり見てるから、人の手が止まった理由まで分かったつもりになるのね」
「違う。母さんの手は、何度も止まってる」
「何度も?」
「位牌を直そうとしたとき。祖母の名前を聞いたとき。今、地図を見たとき」
母は布巾を広げ、濡れた布の端を丁寧に揃えた。何かを片づけるときの手つきだった。言葉を片づけられないときほど、母は布や皿の位置を整える。
「すみさんが、あんたに言わなかったことを、私が言えると思う?」
「母さんは祖母の娘だろ」
「だから言えないのよ」
「どうして」
「娘だからよ。母親が何をしていたか、何を隠していたか、全部知らないままでも、私はあの人のそばで暮らしてきた。言わなかったことを問い詰めれば、今までの暮らしまで嘘になる。何も聞かなかった私の時間まで、間違いだったことになる」
「間違いじゃない」
「あなたに決められることじゃないわ」
母の声は荒くなかった。けれど、普段より低かった。家の中へ押し戻されるような声ではなく、長く蓋をしていた場所から滲んでくる声だった。
「俺は、祖母の沈黙を嘘だとは思ってない」
「本当に?」
「思ってない」
「じゃあ、なぜ掘り返そうとするの」
「沈黙を、そのまま終わらせたくないから」
母は地図を見た。
「終わらせるって、何をするの。沢井さんを問い詰めるの? 土を掘るの? 昔の話を近所へ広げるの? すみさんが一生かけて避けてきたことを、あんたは『知りたい』というだけで始めるの?」
「知りたいだけじゃない」
「何が違うの」
「俺は、毎朝、位牌が向きを変えるのを見てる。母さんも見た。草の音も、土の跡もある。もう何も起きていないふりはできない」
「できるわよ」
母は即座に答えた。
「できる。人は、できないと思ったことでも、暮らしの中へ押し込めていける。朝になれば米を研ぐ。洗濯物を干す。近所に頭を下げる。誰かが死んでも、次の日にはご飯を食べる。それは薄情だからじゃない。そうしないと、残った人間まで一緒に沈むからよ」
「でも、沈んだものは消えない」
「消えなくても、上に土をかぶせておけば、歩けるでしょう」
母はそう言ってから、言葉を失った。
私たちの間に、用水路の音だけが流れていた。水は細い。けれど、途切れずに石を撫でている。何年も、何十年も、同じ場所を通り続けてきた水の音だった。
私は地図の一点を指で押さえた。
「ここに何があったの」
母は答えなかった。
「井戸?」
「昔の井戸の跡よ」
「土蔵は?」
「もうない」
「何で壊したの」
「古くなったから」
「沢井さんの裏庭にかかってる」
「だから?」
「祖母は、ここを見ていた」
「すみさんは、庭を見ていた。何度も言ったでしょう」
「ただの庭じゃない」
「それを決めるのは誰」
「俺が見て、俺が考える」
母は薄く笑った。
「すみさんと同じね。見て、考えて、最後は何も言わない」
その言葉が、予想以上に深く刺さった。
私は地図を握った。紙が汗を吸い、柔らかくなる。
祖母の沈黙を責めているつもりだった。けれど、私は自分自身も同じようにしていた。家族が言葉を切るたび、私はそれ以上聞かず、誰かの背中を見て済ませてきた。祖母の膝の上で茶を飲み、母が台所で包丁を動かす音を聞き、家の中の重さを物の位置へ置き換えてきた。
今も私は、地図の線を見ている。
母の顔ではなく。
「守」
母が言った。
「何」
「その地図は、すみさんが持っていたものじゃない」
私は顔を上げた。
「どういう意味」
「持っていたのは、すみさんだけじゃない。沢井さんの家にも、同じようなものがあるはずよ」
「沢井さんが持ってる?」
「知らない」
「また」
「知らないけど、あの人は紙を信用しないから。境界の線は、紙に書いたものより、土に残ったもののほうが正しいと思っている」
「母さんは、沢井さんと昔から何か知ってるの」
母はすぐに返事をしなかった。
庭の草が、風もないのに擦れた。
ざ、と板塀の向こうで鳴り、音は用水路沿いにこちらへ近づいてきた。母は反射的に仏間の方を振り返った。私も同じ方向を見たが、障子は閉まっている。家の中で、何かが一度だけ軋んだ。
「知ってるの?」
私はもう一度聞いた。
母は地図から目を逸らした。

「昔、すみさんと沢井さんの間で、境界のことで揉めたことがある」
「何年前」
「私がまだ高校生だった頃」
「何があったの」
「知らない」
「母さん」
「本当に知らない。大人同士の話だった。夜に男の人が何人か来て、土蔵の前で怒鳴っていた。沢井さんもいた。すみさんもいた。私は台所で、鍋を火から下ろすことしかできなかった」
「祖母は何を言ってた?」
「何も。怒鳴り声が止んだあと、すみさんは裏庭へ行った。戻ってきたとき、手に土がついていた」
「誰かと一緒だった?」
母は唇を結んだ。
「沢井さんがいた」
「二人で何をしてたの」
「聞いてない」
「見たんじゃないの」
「見たくなかったのよ」
母の声が初めて崩れた。
「守、見たくないものを見たら、何かしなきゃいけなくなるでしょう。止めるのか、逃げるのか、誰かに話すのか。私はそれができなかった。だから、台所にいた。鍋の蓋を閉めて、火を消して、次の日の朝の米を研いだ。そうすれば、夜のことを知らないままでいられると思った」
「でも、知っていた」
「知っていることと、認めることは違うの」
母は地図を見ないまま言った。
「すみさんは、朝になると何もなかったように庭を掃いた。沢井さんの家から人が出入りした跡も、裏庭の土の乱れも、全部、いつもの庭に戻していた。私はそれを手伝った。理由は聞かなかった。聞けば、私も何かを背負わなければならない気がしたから」
私は地図を畳めなかった。
母の告白は、説明というより、長い年月の中から少しずつ押し出された息に聞こえた。母は泣いていない。けれど、その目の奥には、濡れた土のような重さがあった。
「祖母は、何を守ったの」
「知らない」
「母さん」
「本当に知らないのよ。ただ、すみさんが守ろうとしたものが、家の体面だけじゃないことは分かる」
「どうして」
「沢井さんを、何度も家へ入れたから」
「沢井さんを?」
「境界のことで揉めたあとも、あの人は何度か来た。昼間ではなく、夜に近い時間に。すみさんは誰にも見られないように裏口から入れて、茶を出した。白磁の茶碗で」
私は息を呑んだ。
「茶碗を?」
「そう。あんたが今、仏壇に供えている茶碗。沢井さんはそれで茶を飲んだ。すみさんは、何も責めなかった。沢井さんも何も説明しなかった。ただ、二人で庭の方を見ていた」
「何回くらい」
「覚えてない。でも、何年も続いた」
「母さんは、ずっと見てたの?」
「見ていたくなかった。でも、台所から縁側が見えるから」
母は手にした布巾を、今度は畳まずに握った。
「すみさんは、沢井さんが帰ったあと、必ず茶碗を洗って、縁を確かめた。それから仏間へ持っていって、欠けたところを庭の方へ向けた。私は意味を聞いたことがない。聞かなかった。あんたと同じで、聞けば何かが終わる気がしたから」
私は白磁の茶碗を見た。
仏壇の前にあるはずの茶碗が、今は仏間から離れた場所に置かれている。朝、母がそこへ動かしたのだろう。欠けた縁は、裏庭の方角を向いていた。
祖母は誰かを待っていたのかもしれない。
あるいは、誰かが来たことを忘れないために、欠けた縁を見える側へ向けていたのかもしれない。
「地図を戻して」
母が言った。
「嫌だ」
「守」
「もう戻せない」
「戻せないんじゃない。戻さないだけでしょう」
「そうだよ」
私は地図を折った。折り目に沿って、紙がかすかに鳴った。
「祖母が何を見ていたのか、知りたい。沢井さんが何を埋めたのかも。母さんが知らないと言っていることも、全部」
「全部知れば、楽になると思ってるの?」
「楽になるとは思ってない」
「なら、何のために」
「終わらせるため」
母は私の顔を見つめた。
「すみさんも、終わらせようとしていたのかもしれない。でも、終わらせる方法が分からなくて、毎日、向きを直すしかなかった。茶碗を置き、線香を立て、庭を掃いて、誰かが踏み込まないようにしていた」
「祖母は、終わらせられなかった」
「だから今、あんたがやるの?」
「分からない。でも、俺が見てしまった以上、なかったことにはできない」
母はしばらく黙っていた。
やがて、地図の端を指で押さえた。
「ここに、古い井戸があった」
「地図にある」
「井戸は埋めた。土蔵を壊したときに、一緒に」
「いつ?」
「境界で揉めたあと」
「何を埋めたの」
母は答えなかった。
用水路の音が、急に大きくなった。家の裏側から水が押し寄せてくるように聞こえ、縁側の板の下で何かが動いた気がした。私は息を止め、地図へ目を落とした。
古い境界線の切れ目が、白磁の茶碗の欠けと同じ形に見えた。
母はようやく言った。
「すみさんが、夜に触るなと書いたなら、夜には触らないで」
「昼ならいいの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
母は私の手から地図を取ろうとした。私は反射的に引いた。
その瞬間、仏間の奥で、位牌が木の台を擦る音がした。
小さく、乾いた音だった。
母も聞いた。
二人とも庭ではなく、家の中を見た。
障子は閉じている。だが、その向こうにある黒檀の仏壇が、薄い明かりの中で沈んでいるのが分かる。線香の煙が、障子の下から細く流れてきた。煙は床を這うように伸び、私たちの足元で途切れた。
母が先に立ち上がった。
「見に行く」
「待って」
「何よ」
「今、夜に触るなって書いてあった」
「まだ昼でしょう」
「でも、今は水音がしてる」
私は自分で言いながら、紙片の三行を思い出していた。
向きを正せ。
夜に触るな。
水音のするうちに済ませる。
祖母は、何かをする時間だけでなく、してはいけない時間も書き残していた。私たちが今、仏間へ入るべきなのか、それとも近づくべきではないのか、判断はつかなかった。
母は障子の前で足を止めた。
その姿が、祖母に似ていた。敷居をまたぐ前に一拍置き、向こう側の音を聞いている。私はその背中を見ながら、初めて、祖母の所作が家族へ受け継がれていたことに気づいた。
母が小さく息を吸う。
障子の向こうで、何かが畳を踏んだ。
一歩。
間があった。
もう一歩。
私は地図を抱えたまま、母の隣に立った。
障子の向こうから、白磁を置く音がした。
ことり、と軽い音だった。
茶碗が、誰かの手によって仏壇の前へ戻されたような音。
母が障子へ手を伸ばす。
私はその手を止めなかった。
障子が開く。
仏壇の前に、白磁の茶碗が置かれていた。さっきまで縁側にあったはずの茶碗だった。線香立ては少し右へ寄り、位牌は裏庭の方角を向いている。
その前に、細い土の筋が新しく伸びていた。
仏壇から縁側へ。
そして、縁側から庭の石の方へ。
母の手が、私の腕をつかんだ。
「今、茶碗は……」
「縁側にあった」
「そうね」
「母さんは触ってない」
「触ってない」
「じゃあ、誰が」
母は答えなかった。
仏壇の奥で、祖母の位牌がわずかに揺れた。
風はない。障子も動いていない。黒檀の仏壇の表面に、白磁の茶碗だけが異様に明るく浮かんでいる。欠けた縁は、裏庭の石と、その向こうの用水路を指していた。
私はノートを開いた。
けれど、すぐには書けなかった。
記録するには、目の前のものが生きている現実から外れすぎていた。書いてしまえば、茶碗がひとりで動いたことを認める。位牌が向きを変えたことも、土の筋が家の中へ伸びてきたことも、数字と文字の形に閉じ込めることになる。
母が低い声で言った。
「書きなさい」
私は顔を上げた。
「母さん」
「見たことを消さないんでしょう」
母は仏壇を見たまま続けた。
「だったら、書きなさい。すみさんが何をしていたのか、私たちが何を怖がっているのか、分からなくてもいい。分からないままでも、見たことだけは残しておくの。そうしないと、また誰かが同じものを見て、同じように黙るから」
その声に、祖母の気配が重なった。
沈黙を守ることと、沈黙に閉じ込められることは違う。祖母はその境目を、最後まで一人で歩いていたのかもしれない。
私は鉛筆を持った。
六月二十九日。午前十一時二十八分。
茶碗、縁側から仏壇前へ移動。
位牌、裏庭側。
土の跡、仏壇から縁側へ延びる。
書き終えてから、私は紙片の三行をノートの余白へ写した。
「向きを正せ」 「夜に触るな」 「水音のするうちに済ませる」
その下に、祖母が残した地図の切れ目を描いた。
線は途中で途切れ、庭の石の位置で止まっている。
用水路の水音が、今も続いていた。
だが、仏間の中には別の音があった。
畳がゆっくり沈む音。
誰かが、仏壇の前から一歩、こちらへ近づいてくる。
母は私の手を握った。生きている人間の体温が、指の骨へ伝わってくる。私はその温度を確かめながら、障子の向こうを見つめた。
誰の姿もない。
それでも、白磁の茶碗の欠けた縁は、私たちではなく、庭の先を向いている。
地図の上で、古い境界線がわずかに震えた。
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