第4話 盛り土の夜

その夜から、私は沢井恒一の裏庭を覗くようになった。
覗く、といっても、塀を越えたわけではない。縁側の網戸を指一本分だけ開け、柱の陰から隣家の裏手を見た。網戸を大きく開けると、母に気づかれる。何かを見張っていると知られれば、きっと「寝なさい」と言われる。母は怖いからそう言うのではない。怖いものを見ている時間があるなら、戸締まりを確かめ、洗濯物を取り込み、明日の味噌汁の具を考えろという人だった。
夜の家は、昼より狭かった。
閉め切った障子が熱を抱え、畳から湿気が上がってくる。縁側の板は昼間の陽を吸ったまま冷めきらず、裸足を置くと、皮膚の裏へぬるい温度が染みた。蚊取り線香の煙が細く漂い、仏間から流れてくる線香の匂いと混ざっている。どちらも火の匂いなのに、蚊取り線香は生きている夜のためのものに思え、仏壇の線香は、もう帰れない場所へ向けたものに思えた。
蝉は、昼間のようには鳴かなかった。
一匹が遠くで鳴き、しばらくして止む。別の一匹が、家の裏側で短く鳴く。声と声の間に、耳を澄ませば聞こえる程度の水音があった。細い用水路が、暗い庭の底で息をしている。水量は少ないはずなのに、夜になると音だけが深くなる。底石を擦る流れが、家の下を通り抜けているように響いた。
最初に沢井を見たのは、午後十一時を少し過ぎたころだった。
隣家の裏口が開き、沢井が出てきた。手には古い鍬を持っている。月は雲の切れ間にあったが、庭を照らすほど明るくはない。沢井の姿は、上半身だけが薄く浮かび、下半身は草と闇に沈んでいた。
彼はすぐに境界の杭へ向かわなかった。
裏庭の中央に立ち、足元を見た。何かを探しているというより、土の表情を読んでいるようだった。靴先で地面を軽く押し、しゃがみ、指先で表土を撫でる。それから作業用の手袋をはめた。手袋をつける前に、両手を一度、古い手拭いで拭った。
土に触れるための準備というより、土へ触れることを詫びているように見えた。
沢井は鍬を振り下ろした。
音は小さかった。金属が地面へ入り、乾いた土がわずかに割れる。だが、私にはその音よりも、鍬を抜いたあとの沈黙のほうが大きく聞こえた。
一度、掘る。
土を脇へ寄せる。
もう一度、掘る。
沢井は急がなかった。何かを探す人間の動きではない。見つけたくないものの位置を、確かめている動きだった。
私はノートを膝に置いた。
六月二十八日、午後十一時十七分。
沢井、裏庭へ出る。鍬を使用。
書きながら、なぜ時刻まで記録しているのか自分でも分からなかった。記録していれば、見たものが私の頭の中だけで形を変えるのを防げる気がした。恐怖は、思い出すたびに輪郭を変える。だが数字は変わらない。十一時十七分。鍬を三回。境界杭から、家側へおよそ二歩。
私は目を細めた。
沢井が掘っている場所は、昼間に見た盛り土の近くだった。祖母が庭の端に置いていた古い石から、板塀へ向かう途中。今の境界杭より少しだけ内側に見える。けれど、祖母の箪笥から出てきた地図の線を思い出すと、そこは佐伯家の敷地ではなく、昔の沢井家の土蔵に近い場所だった。
地図は、まだノートの下に挟んである。
母には見つからないよう、古い裁縫箱の底へ戻したふりをして、私は自分の部屋へ持ってきていた。折り目の深い紙を何度開いても、境界線の意味は分からない。ただ、現在の塀と古い線が一致していないことだけは確かだった。
沢井は、鍬を置いた。
代わりに小さなスコップを取り出す。錆びた刃先を布で拭い、掘った穴の縁を丁寧にならした。土の中から根が出ると、指でそっと外す。根を切れば早いのに、沢井はそうしなかった。細い根を傷つけないよう、土ごと持ち上げ、別の場所へ置いた。
私はその手つきを見て、祖母を思い出した。
祖母も庭の草を抜くとき、同じように根元を探った。急いでいるときでさえ、土の中に残った根を気にした。私が面倒だから上だけ引きちぎると、祖母は怒らず、私の手を取って土へ戻した。
「根っこを残すと、また出てくるからね」
その言葉が、今になって別の意味を持って聞こえた。
沢井は穴の中へ手を入れた。
私は息を止めた。
彼の指先が何かに触れたのか、動きが止まる。数秒のあいだ、沢井はその姿勢のまま固まっていた。やがて手を抜き、掌についた土を見た。何かを掴んだ様子はない。だが、掌を握り込むことも、土を払うこともしなかった。
ただ、暗い地面を見つめていた。
その横顔に、私は初めて沢井の年齢を見た。普段、道で会う沢井は、いつも作業着を着て、背中を少し丸めて歩いている。近所の挨拶にも短く頷くだけで、老人というより、そこに長く置かれた道具のようだった。
けれど今夜の沢井は、土の前に立つ一人の男だった。
若い頃から同じ場所を見続け、見続けたまま年を取った男。
沢井は穴へ土を戻し始めた。
掘った土を、手のひらで少しずつ落とす。スコップで一気に埋めれば済むものを、何度も指で均す。盛り上がりが周囲と同じ高さになるまで、彼は作業をやめなかった。
そのとき、背後の仏間から、かすかな音がした。
私は振り返らなかった。
振り返れば、見ているものを失う。そう思った。仏間から何かが来たのか、家の木が縮んだだけなのか、確かめたくなかった。耳だけを澄ますと、畳がゆっくり沈むような音が、一つ、廊下の奥で鳴った。
一歩。
間があった。
もう一歩。
沢井も聞いたのか、手を止めた。
隣家の庭で、彼の肩がわずかに上がる。こちらを見たわけではない。それでも、同じ音を聞いた人間の反応だと分かった。
私は網戸の端を握った。指先に細かな金属の網目が食い込む。汗で滑った指が、何度も同じ場所をなぞった。
庭の草が擦れた。
ざ、と鳴った。
沢井の立っている場所から、私のいる縁側へ向かって、音が近づいてきた。草の一本一本が倒れ、また起き上がるような音だった。風なら庭全体が揺れるはずなのに、音は細い道を選んで進んでいる。
沢井が顔を上げた。
私は、彼がこちらを見ると思った。
だが沢井は、私ではなく、境界の杭を見た。杭に結ばれた古い紐が、風もないのにわずかに揺れている。紐の先が、こちら側へ向いていた。
沢井は鍬を拾った。
逃げるのかと思った。けれど彼は、境界の杭へ近づき、紐を結び直した。手つきは慎重だった。ほどけかけた結び目を指で解き、もう一度、固く締める。その間にも草の音は続いている。
彼の足元まで来た。
そこで、止まった。
音が消えたあと、庭は異様な静けさに沈んだ。蝉も鳴かない。用水路の音さえ、急に遠くなった。耳の奥が痛くなるほどの無音だった。
沢井はゆっくりと頭を下げた。
誰かに頭を下げるように。
私はその姿を見て、祖母が仏間へ入る前に必ず一拍置いていた理由を思い出した。あれは迷っていたのではない。そこに何かがいるかどうかを、音で確かめていたのだ。祖母は、家の中のすべての場所に、見えない境目があることを知っていた。
沢井は、盛り土の上へ手を置いた。
「まだだ」
声が聞こえた。
小さすぎて、言葉として聞いたのか、私がそう聞きたかったのか分からない。
「まだ、動かすな」
沢井は土へ向かって言った。
その声には、怒りも命令もなかった。疲れきった人間が、相手に頼るときの声だった。
私はノートを開いたまま、鉛筆を握っていた。書くべきか迷った。今の言葉を記録すれば、私はそれを事実として認めることになる。けれど書かなければ、祖母が残したものと同じように、言葉は夜の中へ沈んでしまう。
私は書いた。
午後十一時三十二分。沢井、土に向かって「まだ、動かすな」と言う。
書き終えると、鉛筆の芯が折れた。
その音に、沢井がこちらを向いた。
月明かりの下で、彼の顔が見えた。驚きはなかった。怒りもない。ずっと前から、私がそこにいることを知っていたような顔だった。
沢井はすぐに視線を落とした。
「覗き見は、趣味が悪いな」
低い声だった。
私は網戸を開けなかった。開ければ、二つの家の間にある線を越えてしまう気がした。
「何を埋めたんですか」
声が掠れた。
沢井は答えなかった。土の上に置いた手を引き、作業手袋を外した。指の間に黒い土が入り込んでいる。彼はそれを見てから、手袋を丸めた。
「埋めたんじゃない」
「でも、掘っていた」
「戻してるだけだ」
「何を」
沢井は長く黙った。
用水路の音が、ようやく戻ってきた。底石を擦る水の音が、二人の間を流れていく。私はその音を聞きながら、沢井の返事を待った。沈黙を急かすと、相手は言葉ではなく壁を返してくる。祖母がそうだった。母もそうだった。だから私は、返事を待つしかなかった。
「土は、掘れば形が変わる」
沢井が言った。
「埋め戻しても、元には戻らん。見た目だけ平らにしても、中の締まり方が違う。雨が降れば沈む。根が入れば割れる。上に草が生えても、下に手を入れたことは消えん」
「だから毎晩、直してるんですか」
「直してるんじゃない。見てる」
「何を」
「崩れてないかどうかを」
沢井は私を見なかった。隣家の裏庭にある土の盛り上がりだけを見ていた。
「そこに何があるんですか」
今度は、沢井の喉が動いた。
「おまえの婆さんから、何も聞いてないのか」
「祖母は何も話さなかった」
「そうだろうな」
「知ってるなら、教えてください」
「教えたら、どうする」
「自分で考えます」
「考えて、掘るのか」
私は答えられなかった。
沢井は初めて、わずかに笑った。笑ったというより、口元に乾いた皺が寄っただけだった。
「若いな。掘れば分かると思ってる」
「分からないままのほうが嫌です」
「分からんままでも、人は暮らせる」
「母も同じことを言います」
「久代さんは、暮らすために言ってる。おまえは、見つけるために言ってる。似てるようで違う」
その言葉に、胸が詰まった。
沢井の声には、祖母を知っている者だけが持つ重さがあった。祖母の名前を口にしたわけでもないのに、二人の間に長い時間が横たわっている。憎しみだけなら、もっと簡単だった。怒鳴ることも、責めることもできる。けれど沢井の沈黙には、祖母へ向けた恐れと、頼りと、返せなかった何かが混ざっていた。
「祖母は、何を守ったんですか」
私は聞いた。
沢井はすぐに答えた。
「守ったんじゃない」
「でも、毎朝、庭を見ていた」
「見ていたからだ。見ていたものを、守れるとは限らん」
「じゃあ、何をしていたんですか」
「壊れないようにしていた」
「何が」
沢井は、やっとこちらを見た。
「二つの家が、同じ夜を掘り返さんようにだ」
それ以上、沢井は話さなかった。
彼は鍬を持ち上げ、盛り土の端を木の板で軽く叩いた。土の表面に残った足跡を消し、草の倒れた場所を起こしていく。自分の痕跡だけでなく、私が見ていた痕跡まで消そうとしているようだった。
私はノートを閉じた。
仏間へ戻ると、位牌はまた向きを変えていた。
前夜より少しだけ、裏庭へ近い。白磁の茶碗の欠けた縁も、庭の方角を向いている。線香立ては右へ二センチほどずれていた。私は立ったまま、しばらくそれを見た。
沢井の言葉が、胸の中で土のように沈んでいる。
二つの家が、同じ夜を掘り返さんように。
私はノートを開いた。日付と時刻を書き、位牌の角度を書いた。最後に、昨夜見た盛り土の高さを記そうとして、手を止めた。
土の山は、昨日より低くなっていた。
沢井がならしたからではない。彼が触れたのは端だけだった。盛り上がりの中央が、誰かに内側から押されたように、わずかに沈んでいる。
私は鉛筆を置いた。
仏間の障子の向こうで、草が擦れた。
今度は隣家の庭ではない。
家のすぐ裏、縁側の下で鳴った。
ざ、と一度。
私は振り返らなかった。祖母がそうしていたように、まず足元を見た。畳の縁、敷居、濡れたように暗い板の隙間。
そこに、細い土の跡が続いていた。
縁側から仏間へ。
土は、仏壇の前で途切れている。
位牌は、誰も触れていないのに、裏庭の方角を向いていた。
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