第3話 庭と用水路

昼になると、家の中の空気は朝より重くなった。
蝉の声が、屋根の上から降ってくる。ひとつひとつの鳴き声が別々に聞こえるのではなく、熱を持った膜になって、家全体を包んでいた。障子を閉めていても、畳は湿気を吸い、素足の裏へじっとりとまとわりつく。台所では母が大根を刻んでいる。包丁がまな板に当たる音は規則正しかったが、時折、間が長くなった。
私は縁側の網戸を少しだけ開けた。
熱気が、外から押し入ってきた。風ではない。風なら皮膚の表面を撫でて通り過ぎる。昼の庭から入ってきたのは、逃げ場を探していた熱の塊だった。首筋に汗が浮き、シャツの背中がすぐに肌へ貼りつく。
縁側の板に腰を下ろす。板は祖母が何度も雑巾をかけてきたせいで、表面が滑らかになっていた。膝をつくと、木の節が皮膚へ食い込む。私は足を庭へ下ろした。土は乾いているように見えたが、指先で触れると表面の下に湿り気が残っていた。
夏草は伸びきっていた。
名前の分からない細い草、先端に白い花をつけたもの、葉の裏に小さな虫を隠しているもの。祖母なら、ひと目で抜く草と残す草を決めただろう。私にはどれも同じに見えた。庭の端から端まで、伸びた緑が互いに絡み合い、家の敷地を少しずつ外側へ押し広げている。
風はなかった。
それなのに、庭の奥で草が擦れ合った。
ざ、ざざ、と音が移動していく。
庭全体が揺れているわけではない。ひとところだけが、誰かの歩みに合わせるように鳴っている。私は網戸に手を添えたまま、音のする方角を見た。
裏手だった。
家と隣家を隔てる古い板塀のあたり。板塀はところどころ黒ずみ、釘の頭が赤く錆びている。子どもの頃、私はそこへ近づくたび、祖母に呼び戻された。
「そっちは行かなくていいよ」
祖母は、いつもそう言った。
理由を聞くと、決まって茶を淹れた。急須から白い湯気が立ち、祖母は私の前へ白磁の茶碗を置いた。茶碗の縁に指を添え、欠けた部分を確かめ、それから少しだけ向きを変える。私が何を聞いたのか忘れるまで、祖母は茶を注いだ。
あの頃の私は、茶が出てくれば満足した。質問が答えられなかったことより、湯気の向こうに祖母の顔があることのほうが大事だった。
いまは、答えなかったことのほうが、家の中に残っている。
私は庭へ降りた。
草の先が脛に触れ、細い傷をいくつもつける。露はもう乾いているはずなのに、葉の裏から冷たい水が落ちてきた。肌を伝う水滴は汗とは違い、急に体温を奪った。振り返ると、縁側の向こうに仏間が見える。障子は半分閉じられ、黒檀の仏壇はそこから見えない。
それでも、位牌が裏庭を向いている気がした。
私は一度、息を浅く止めた。
仏間の静けさは、家の中で音が途切れている状態ではない。音がそこへ入ると、何かに吸われてしまう。母の包丁の音も、蝉の声も、用水路の水音も、仏間の前では一度薄くなり、別のものへ変わる。
私はその違いを、祖母が生きていた頃から知っていた。
だが、知っているだけで、見ようとはしなかった。
庭の端まで歩いた。板塀の手前に、古い石がひとつ置かれている。半分ほど土へ埋まり、表面には苔が薄く付着していた。祖母はこの石を動かさなかった。庭掃除のときも、箒の先で周囲の土を掃くだけだった。
私はしゃがみ、石へ指を伸ばした。
触れる直前、背後から母の声がした。
「そこ、踏まないで」
振り返ると、久代が縁側に立っていた。前掛けの紐を締め直し、片手には濡れた布巾を持っている。台所から出てきたばかりらしく、指先が赤くふやけていた。
「何を?」
「石の周り。土が崩れるから」
「この石、昔からあるよね」
「さあね。昔からあるものは、昔からあるだけでしょ」
「祖母は、動かさなかった」
母は庭へ降りてこなかった。縁側の柱へ片手を添え、私と石の間にある距離を見ている。
「すみさんは、庭のものを勝手に動かさなかったの」
「理由は?」
「理由があっても、言わない人だったでしょう」
「母さんも同じだ」
言うと、母は布巾を握り直した。水が一滴、縁側の板へ落ちた。
「似てると思う?」
「手つきは似てる」
「手つきだけ見て、人のことが分かるなら楽ね」
「分からないから、見てる」
「見てるだけで済ませてきたのは、あんたでしょう」
母の声は強くなかった。むしろ、昼の暑さにさらされて乾いていた。その乾き方が、朝の仏間で聞いた声よりも痛かった。
「祖母が庭の境目に立ってたこと、知ってた?」
「知ってるわよ」
「何をしてたのかは?」
「知らない」
「聞かなかったの」
「聞いたことはある」
私は立ち上がった。
母は視線を板塀の方へ移した。見たくないものを見るときの目ではなかった。見ているのに、そこへ意味を与えないようにしている目だった。
「昔、一度だけ聞いた。どうしてあそこへ行くのって。すみさんは、庭の様子を見てるんだと言った」
「庭の様子?」
「草が伸びてるか、水が滞ってないか、塀が傾いてないか。そういう話」
「それだけ?」
「それだけで何が不満なの」
「祖母は、何かを見てた」
母は返事をしなかった。
板塀の向こうから、低い機械音が聞こえた。沢井の家の古い冷蔵庫か、農具小屋の換気扇かもしれない。音は一定ではなく、唸ったあとに止まり、少ししてまた唸る。私は無意識に音の間隔を数えていた。
三秒。
五秒。
また三秒。
その間に、草が擦れた。
母の目が、板塀の隙間へ向いた。
「沢井さんのところ、最近、夜も明かりがついてる」
私が言うと、母はすぐに布巾を絞った。
「庭の手入れでもしてるんでしょう」
「夜に?」
「昼間は暑いから」
「毎晩?」
「毎晩見てるの?」
「見えるから」
「見えるものを全部、意味のあるものにしないで」
母はそう言って、縁側へ戻ろうとした。
私は呼び止めた。
「母さん、あの家との境目に何かあるの?」
母の足が止まった。
すぐには振り返らない。縁側の板に落ちた水滴を見ているようだった。水滴は木目に沿って細く伸び、光を一筋だけ返していた。
「何かって何」
「分からない。でも、祖母はあそこを気にしてた。位牌も、毎日そっちを向く」
「位牌が向くから、庭に何かあると思うの?」
「逆だよ。庭に何かあるから、位牌が向いてるのかもしれない」
「同じことじゃない」
「違う」
母はゆっくり振り返った。
「守、あんたは位牌を見ているようで、すみさんを見ている。すみさんが残したものを、何でも答えにしたがってる。でも、死んだ人は答えを出してくれない。残された人間が、都合のいい向きを拾っているだけかもしれないでしょう」
「じゃあ、向きが変わってること自体は?」
「知らない」
「また知らない」
「知らないものを知らないと言って、何が悪いの」
「見てないだけじゃないの」
母は私を見た。
その目に、怒りが浮かんだ。けれどすぐに消えた。代わりに、疲れのようなものが残った。母は何かを言おうとして、唇を閉じた。祖母と同じだった。言葉を選んでいるのではない。言葉を出したあとに起きることを、先に見ている。
「家の中のことなら、まだ私が何とかする」
母は言った。
「でも、家の外のことまで、あんたが背負う必要はない」
「祖母は背負ってた」
「すみさんは、そういう人だったの」
「だから、俺も見たい」
「見たら、どうするの」
「分からない」
「分からないのに、見たいの?」
「見てから考える」
母は短く笑った。乾いた笑いだった。
「すみさんと同じことを言うわね。すみさんも、何か聞くと『見てから考える』って言ってた。でも、見たあとに考えたことを、誰にも言わなかった」
「母さんは、祖母が何を見たのか知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「本当に知らない。でもね、守。知らないことと、知らないままにしておくことは別なの。すみさんは、知っていたとしても、家の中へ持ち込まないようにしていた。あんたは今、それを逆にしようとしている」
「持ち込まないって、もう持ち込まれてるよ。位牌が動いてる」
母は答えず、仏間の方を見た。
家の中で、何かが落ちた。
小さな音だった。陶器ではない。木片か、線香立ての灰が崩れた音に近い。
母の顔から血の気が引いた。
私は先に縁側へ上がった。母は一拍遅れてついてくる。二人で仏間へ入ると、障子の隙間から差していた光が、朝より濃く床へ落ちていた。
位牌は裏庭を向いている。
白磁の茶碗も、欠けた縁をこちらへ向けていた。
線香立ては、朝、母が直した位置から少しだけ右へずれている。
母は何も言わなかった。
私はノートを取り出した。指先が汗で滑り、鉛筆の軸が一度、畳へ落ちた。拾い上げて、時刻を書いた。
午後一時四十六分。
私は位牌の角度を測り、線香立てと茶碗の位置を記した。書いている間、母は仏壇の前に立ったまま動かなかった。
「母さん」
「触らない」
「うん」
「今は、触らないで」
母の声は小さかった。
そのとき、縁側の外で草が擦れた。
ざわ、と庭の奥からこちらへ近づいてくる音だった。
一箇所、また一箇所。草の葉が押し分けられ、戻っていく。その音は板塀の方角から始まり、家の裏手を回り、縁側のすぐ下で止まった。
私は網戸を見た。
網戸の向こうに、濃くなった夏の緑がある。誰かの姿は見えない。ただ、葉の間にある影だけが、人ひとり分の幅で途切れていた。
母の手が、私の腕をつかんだ。
生きた人間の手だった。温かく、爪の脇には洗剤で荒れた白いひびがある。その温度が伝わってきたことで、網戸の向こうにあるものの温度が、逆にはっきりした。
冷たいのではない。
温度がない。
私は視線を逸らせなかった。
影は動かなかった。草も鳴らない。蝉の声さえ、そこだけ避けているようだった。
やがて、用水路の方から水音がした。
浅い流れが底石を擦る、細く澄んだ音だった。音は家の裏を通り、板塀の向こうへ消えていく。境目を越えて流れていくものがあるのに、こちら側だけが閉じたまま取り残されている。
私は祖母の姿を思い出した。
庭の境目で立ち止まり、伸びた草の先を見ていた背中。小さな肩。白い髪。片手には、いつも古い手拭いか、使い込んだ箒があった。何かを見つけても、すぐには近づかなかった。まず立ち止まり、足元の土を見て、それから家の方を振り返る。
私が声をかけると、祖母はいつも笑った。
「守、茶を飲むかい」
私はその言葉に従った。
何があったのかを聞くことより、祖母の隣に戻ることを選んだ。
いま思えば、祖母は私を遠ざけていたのではない。私を、見なくていい場所から戻していたのだ。けれど、その優しさを私は、ただの気まぐれだと思っていた。
「守」
母が呼んだ。
「うん」
「庭へ出ないで」
「どうして」
「今は、出ないほうがいい」
母はようやく私の腕を離した。だが、指の跡が薄く残っている。
「音がしたから?」
「音だけじゃない」
母は言いかけて、口を閉じた。
仏壇の黒檀に、母の姿がぼんやり映っている。背後の障子には庭の光が差し、母の肩の上に細い草の影が重なっていた。影は一本ではなかった。何本もの草が、ひとの輪郭を作るように寄り集まっている。
「母さんには、何が見えるの」
「見えない」
「でも、知ってる」
「知ってるんじゃない。知っている気がするだけ」
「それは、何を知ってるってこと?」
母は私の顔を見た。
今回は、私が目を逸らさなかった。
「この家はね、すみさんがいなくなってから、初めて静かになったんじゃないの」
母はゆっくり言った。
「すみさんがいたから、静かだったのよ。何かが鳴る前に片づけて、誰かが踏み込む前に道を塞いで、見てはいけないものが見えないように、毎日、物の向きを直していた。あの人がいなくなって、家は何もできなくなっただけ」
「祖母が、何かを押さえてた?」
「そういう言い方をすると、すみさんが悪いことをしていたみたいになる」
「悪いとは言ってない」
「でも、押さえていたなら、いつかは戻るでしょう。そういうものよ」
母の声が掠れた。
「だから、私は何も考えないようにしてきた。庭を見ない。夜に外へ出ない。仏間に長くいない。台所の音を止めない。そうしていれば、今日一日は暮らせるから」
「今日一日だけでいいの」
「家って、今日一日を重ねていくものでしょう」
その言葉に、私は何も返せなかった。
外の影が、わずかに揺れた。
人が立ち去ったのか、草が自分で戻ったのか、分からない。ただ、網戸の向こうにあった濃い部分が薄れ、庭の光が均されていった。
私はノートへ目を落とした。
位牌の向き。線香立てのずれ。茶碗の欠けた縁。草の音。用水路の音。
書き終えたあと、余白に一行だけ加えた。
「庭の音は、近づいてから止まる」
鉛筆を置く。
仏間の中は、また音を失っていた。
母は白磁の茶碗を持ち上げ、欠けた縁を親指でなぞった。祖母と同じ仕草だった。けれど、茶碗を戻す場所を決められず、両手の中でしばらく温めている。
「すみさんは、庭の境目で何を見てたんだろうね」
母が言った。
「俺が調べる」
「調べて、何になるの」
「分からない。でも、もう見ないふりはしない」
母は茶碗を置いた。欠けた縁は、裏庭の方角を向いたままだった。
「すみさんは、あんたにだけは見せたくなかったのかもしれないよ」
「どうして」
「見たら、あんたが私みたいになるから」
「母さんみたいに?」
「手を動かして、今日を終わらせることしかできなくなる」
母はそう言って、立ち上がった。
「それでも、明日の朝は来るわ」
「来るね」
「ご飯も作る。洗濯もする。仏花の水も替える」
「うん」
「でも、位牌は……」
母は仏壇を見た。
「今夜は戻さないでおきましょう」
その言葉を聞いたとき、仏間の奥で、畳がゆっくり沈んだ。
誰かが一歩、踏み入れたような音だった。
母は振り返らなかった。
私は振り返った。
障子の向こうに、人影はなかった。けれど庭の草が、風のないまま一本だけ倒れていた。倒れた草の先は、板塀ではなく、細い用水路の流れを指している。
水音が、家の裏側から静かに続いていた。
私はノートを閉じた。
初めて、庭の湿った匂いを嫌わなかった。祖母が長いあいだ見ていたものが、まだ何なのかは分からない。位牌が向く先も、土の下に何があるのかも、母が飲み込んだ言葉も、どれひとつ形を持っていない。
それでも、向きだけは分かった。
仏間から裏庭へ。
裏庭から境目へ。
境目から、用水路の音が消えていく方へ。
私は縁側へ出て、草の間に残った祖母の古い掃き跡を見つけた。伸びた草に埋もれながら、細い筋だけが、家の裏手から石のそばまで続いている。
箒で掃いた跡は、途中で途切れていた。
その先には、土がわずかに盛り上がっていた。
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