2話 母の手つき

母は、私の手からノートを取り上げなかった。

ただ、開かれた頁を覗き込み、鉛筆で書かれた数字を目で追った。位牌の角度、線香立ての位置、白磁の茶碗の欠けた縁が向いている方角。そこまで読み終えると、母は一度だけ箸を置いた。

朝食の味噌汁から、豆腐とわかめの匂いが立っていた。蝉はまだ遠く、家の中には冷蔵庫の唸りと、壁時計の秒針だけがあった。

「二十度って、どうやって測ったの」

「仏壇の金具を基準にした。茶碗の位置も、昨日の夜に見たときと違う」

「そう」

母はノートから顔を上げた。声は平らだった。けれど、その平らさは、感情がない人間の声ではなかった。何かをこぼさないよう、表面を固く均している声だった。

「風で動いたんでしょう」

「網戸は閉まってた」

「古い家なんだから、風くらいどこからでも入るわよ。床が少し傾いてるのかもしれないし、夜中に誰かが触ったのかもしれない」

「誰かって、誰」

「私かもしれないし、あんたかもしれない。寝る前に忘れて触ったんでしょう」

「触ってない」

「そう言い切れる?」

母はそう言いながら、味噌汁の椀を私の前へ押し出した。湯気が顔にかかり、出汁の匂いが鼻の奥へ入ってくる。祖母がいた頃は、朝の仏間にも同じ匂いが流れていた。祖母は茶を淹れたあと、私の椀にだけ具を多く入れた。私が気づくと、「たまたま」と言って、白磁の茶碗の底を布巾で拭いた。

母は立ち上がり、仏間へ向かった。

「朝からそんなことを考えてないで、食べなさい。今日は漬物を持っていく家が三軒あるの。昼までに切って、包まなきゃならないんだから」

「母さんは、前にも見たんだろ」

足を止めた母の背中が、障子から差す光の中にあった。

「何を」

「位牌が動いてるところ」

母は振り返らなかった。背中だけが、答えの代わりに少し固くなった。

「見たとは言ってないでしょう」

「さっき、またって言った」

「言った?」

「言ったよ」

「寝ぼけてたんじゃないの」

「俺は、そういう聞き間違いはしない」

「人の声まで測るつもり?」

母はようやく振り返った。口元だけで笑っていた。笑った形を作っているのに、目が動いていない。その顔は、祖母が近所の人を見送るときの顔に少し似ていた。相手の話を最後まで聞いたあと、何も否定せず、けれど家の内側へは一歩も入れない顔だった。

私は味噌汁に箸をつけず、ノートの頁を押さえた。

「位牌だけじゃない。線香立ても、茶碗も動いてる」

「だから、誰かが触ったのよ」

「夜の間に?」

「夜の間に」

「母さんは仏間に入ってない」

「入ってないからって、私じゃないとは限らないでしょう」

「どういう意味」

「どういう意味もないわよ。あんたが見ていない時間のことなんて、あんたには分からないでしょう。家の中で何が起きたか、全部を見張っていたわけじゃないんだから」

その言葉が、妙に胸へ残った。

母はいつも、私が知らない家の時間を持っている。祖母が倒れた夜も、救急車を呼ぶ前に必要なものを揃え、病院へ持っていく薬の袋を確認し、玄関の鍵を閉めた。私はただ祖母の手を握っていた。冷たくなっていく指を、温めることもできずに。

母は家を回していた。誰かが泣いている間にも、誰かが眠れない間にも、洗濯機を回し、電話をかけ、弁当を用意し、葬儀の日取りを決めていた。

それを責めることはできない。けれど、その手つきが何かを押し込めているように見えることがあった。

母は仏間へ入り、位牌の前にしゃがんだ。

「戻すから」

「触らないで」

「守」

「位置を変えたら、分からなくなる」

「分からなくなって困るのは誰なの」

母の手が、位牌から数センチ離れたところで止まった。

「そんなもの、記録してどうするの。位牌の角度が毎朝何度だったか分かったところで、すみさんが戻ってくるわけじゃないでしょう」

「戻ってきてほしいなんて言ってない」

「じゃあ、何がしたいの」

母の声が初めて揺れた。

仏間の中で、線香の燃え残りが小さく崩れた。灰が香炉の中へ落ちる音は、あまりに軽かった。その軽さのせいで、母の問いだけが畳の上に残った。

私は答えを探した。

祖母が死んだことを認めたいのか。位牌が動く理由を知りたいのか。それとも、祖母のいない家で、何かがまだ祖母の代わりをしていることに縋っているのか。

どれも正しくて、どれも違っていた。

「分からない」

やっとそう言うと、母は目を細めた。

「分からないなら、朝ご飯を食べて。分からないものをいじると、家の中が余計に散らかる」

「散らかってるのは、家じゃないだろ」

言ってから、私は口を閉じた。

母の眉がわずかに動いた。私は畳の目へ視線を落とした。人の顔を見ていると、言葉より先に相手の中身まで見なくてはならない気がする。物なら、欠けや傷や傾きだけを見れば済む。私はいつも、そうやって人から逃げてきた。

母はしばらく黙っていたが、やがて位牌の向きを元へ戻した。

指先が木の表面に触れる。

その瞬間、縁側の外で草が擦れた。

ざ、と一度だけ鳴った。

母の手が止まった。

音は風のものではなかった。風なら庭全体が揺れる。だが、今鳴った草は一箇所だけだった。誰かがその前を通り、伸びた葉を膝で押し分けたような音だった。

母も聞いたはずなのに、何も言わなかった。

位牌を正面へ戻し、線香立ての位置を直し、茶碗を仏壇の中央へ寄せる。手順は祖母と同じだった。ただし、祖母の動きには一つ一つに間があった。茶碗を持ち上げる前に息を置き、線香を立てたあと灰の表面を見て、最後に仏壇の奥を確かめる。

母は間を取らなかった。

「終わり」

母は立ち上がった。

私は仏壇を見た。位牌は正面を向いている。茶碗の欠けた縁は壁側。線香立ては金具と一直線。きれいに整っていた。

だが、その整い方が不自然だった。

「母さん」

「今度は何」

「祖母は、こうやって毎朝直してたのか」

母はすぐに答えなかった。

「すみさんは、何でも直す人だったから」

「何でも?」

「茶碗の向きも、障子の隙間も、庭の石の位置も。あんたが小さい頃、靴を脱ぎっぱなしにすると、怒らずに揃えてたでしょう」

「覚えてる」

「覚えてるなら、同じようにすればいいのよ。気になるなら直す。直したら、次のことをする。家っていうのは、そうやって保つものだから」

「でも、直しても戻る」

母は私を見た。

その目の奥に、疲れが薄く沈んでいた。祖母の葬儀から四十九日の法要まで、母は一度も長く座らなかった。親戚が帰ったあとも、仏花を替え、食器を洗い、余った煮物を小分けにした。夜中に私が廊下へ出ると、台所の明かりの下で母が一人、法要の控え帳をめくっていたことがある。

「戻るって、どこへ」

母が聞いた。

「分からない」

「分からないのに、戻るって書いたの?」

「戻ったから」

「書いた言葉が、何かを変えると思ってるの」

「少なくとも、見たことを消さずに済む」

母は息を吐いた。ため息というより、胸の奥に溜まった熱を逃がすような息だった。

「見たことを消さないで、どうするの。全部覚えていたら、人は暮らせないわよ。すみさんだって、忘れたからやっていけたことがある」

「祖母は忘れてない」

「何でそう言えるの」

「茶碗の欠けを、毎朝同じ向きにしてた。線香立ての灰も、少しでも乱れると直してた。忘れてたら、あんなふうには置けない」

「それは、忘れないためじゃない。忘れるためにしてたのかもしれないでしょう」

母の言葉に、私は返せなかった。

仏間の障子に、庭の草の影が映っている。風はないのに、細い影が一度だけ揺れた。影の形は人の肩に似ていたが、すぐに崩れ、何本もの葉に戻った。

母はその影を見なかった。

「すみさんはね、家の中で起きることを、いちいち言葉にしなかったの」

「知ってる」

「知ってるなら、あんたもそうしなさい」

「それは違う」

声が思ったより大きくなった。

母の指が、前掛けの端をつまんだ。

「何が違うの」

「言わないことと、なかったことにするのは違う」

母は目を伏せた。仏壇の黒檀が、障子の光を鈍く返している。その表面に母の顔が歪んで映った。泣いているようにも、怒っているようにも見えたが、私はどちらとも断定できなかった。

「守は、すみさんの何を知ってるの」

「何って」

「何を知ってるつもりで、今さらそんなことを言うの。すみさんが何を見て、何を見なかったことにして、誰のために口を閉じていたのか。あんたは何も知らないでしょう」

「母さんは知ってるの」

「知らない」

返事が早すぎた。

「じゃあ、何でそんな言い方をする」

「知らなくても分かることはあるのよ」

母は仏間を出た。台所へ戻る足音が、廊下の板を順に鳴らしていく。私はその後を追った。

台所には、漬物用の大根がまな板の上に並んでいた。母は包丁を握り、皮を剥き始めた。刃が大根へ入るたび、こつ、こつ、と乾いた音がする。一定の間隔で繰り返されるその音は、仏間の位牌を戻した手つきと同じだった。迷いを入れず、考える時間を作らず、切り分けていく。

「母さん」

「今度は何」

「俺が知らないことがあるなら、話してほしい」

母は大根から目を上げなかった。

「話したら、あんたはどうするの」

「考える」

「考えて、それから?」

「分からない」

「またそれ」

包丁が止まった。

「守、あんたは昔からそう。物のことなら細かく見る。鉛筆一本の向きまで覚えてるくせに、人が黙った理由は考えない。考えないふりをして、あとで自分だけが何も知らなかったみたいな顔をする」

胸の奥を、細い針で突かれたようだった。

私は反論できなかった。祖母と母が低い声で話しているとき、私はいつも庭へ逃げた。用水路の石を拾い、草の本数を数え、祖母の茶碗の欠けを眺めていた。声の意味を尋ねるより、目に映るものを覚えるほうが楽だった。

母は包丁を置き、濡れた手を布巾で拭いた。

「すみさんが死んで、家の中のものが少しずつずれてる。あんたが見つけた位牌だけじゃない。仏間の匂いも、夜の音も、台所の戸の閉まり方も、前とは違う」

「母さんも気づいてたんだ」

「気づいてないとは言ってない」

「じゃあ、どうして何でもないみたいにする」

「何でもないことにしないと、朝ご飯も作れないからよ」

母の声は平らだったが、今度はその平らさの下が見えた。

家を回すことは、母にとって鈍感でいることではなかった。壊れていると知りながら、鍋に火をかけ、洗濯物を干し、法要の予定を書き直すことだった。怖さを認めれば暮らしが止まる。だから、怖さの上に毎日の手順を重ねている。

その不器用さが、祖母の白磁の茶碗と同じように、母の暮らしの中へ残っていた。

「じゃあ、昼にもう一度見て」

母が言った。

「何を」

「位牌を。私が戻したあと、また動くのかどうか。あんたの記録が正しいなら、昼になっても同じ向きのはずでしょう」

「母さんは見ないの」

「見るわよ。見たら、漬物を切る手が止まるから、あんたが見ればいい」

それは拒絶ではなかった。母なりに、私へ役目を渡しているようにも聞こえた。

私は仏間へ戻った。

位牌は正面を向いている。白磁の茶碗の欠けた縁は壁側を向き、線香立ては中央の金具と揃っていた。私はノートを開き、母が直した時刻を書いた。

午前六時二十三分。久代が位牌を正面へ戻す。

その下に、母の言葉も書いた。

「昼に確認する」

書き終えたとき、仏壇の奥から、かすかな木の音がした。

私は顔を上げた。

位牌は動いていない。

少なくとも、目で見る限りは。

それでも、白磁の茶碗の影だけが、さっきより少し長く伸びていた。障子から差す光の角度が変わったのだろう。そう考えようとしたが、影の先は庭の方角へ細く伸び、まるで何かを指しているように見えた。

昼過ぎ、私は再び仏間へ入った。

蝉の声は朝より近く、家の壁を震わせていた。縁側の網戸は閉じている。風はない。なのに、外の草がざわざわと擦れ合っている。

位牌は、朝、母が直した向きにはなかった。

裏庭の方角へ、また二十度ほど傾いている。

線香立ては右へ二センチ。白磁の茶碗は、欠けた縁をこちらへ向けていた。

私はノートを開いた。

「午後一時四分。戻る」

その文字を書いた直後、仏間の外で、誰かが畳を踏んだ。

一歩。

次の一歩はなかった。

私は息を止め、縁側を見た。障子の向こうに人影はない。けれど、草の擦れる音が、今度は家のすぐそばで鳴った。

ざわ、と葉が揺れる。

網戸の向こうに、何かが立っている。

そう思った瞬間、台所から母の声が飛んできた。

「守、そこにいるの?」

私は返事をしなかった。

仏壇の前で、位牌だけが裏庭を向いている。

その向きは、祖母が生きていた頃、庭の境目で立ち止まっていたときの顔と同じだった。何かを見つめているのに、誰にも教えない。見つめたまま、手だけを静かに動かして、土や茶碗や線香立てを元の場所へ戻す。

母が仏間へ入ってきた。

「何してるの」

私は位牌から目を離さずに言った。

「戻った」

母は仏壇を見た。今度はすぐに視線を逸らさなかった。白磁の茶碗、線香立て、位牌の順に見て、それから縁側の網戸へ目を移した。

外で、草が擦れた。

母の肩がわずかに強張った。

「風じゃないね」

その言葉は、長いあいだ閉じられていた戸が、内側から少しだけ開く音に似ていた。

「うん」

「誰かが触ったのかもしれない」

「夜は、誰も仏間に入ってない」

「そうね」

母はそう言って、仏壇の前にしゃがんだ。

けれど、位牌へは手を伸ばさなかった。

代わりに白磁の茶碗を持ち上げ、両手で包むようにした。祖母がそうしていたように、欠けた縁を親指でなぞる。母の指先は震えていなかった。ただ、茶碗を置くまでの間が、いつもより長かった。

「すみさんは、これを毎朝、先に見てた」

母が言った。

「茶碗を?」

「茶碗と、庭。仏壇に線香をあげる前に、必ず縁側へ出た。何を見てたのかは聞かなかったけど、戻ってくると、これの向きを直した」

「何かあったの」

「聞かなかったのよ」

母は自分で答え、自分で苦笑した。

「聞かないままにしてた。すみさんが言わないことは、言わないほうがいいと思ってたから」

「それで、祖母は何を守れたの」

母は茶碗を見つめていた。

「分からない。守れたのか、ただ先送りしただけなのかも、今は分からない」

その声を聞いて、私は初めて母の手に触れた。冷たいと思った。だが実際には、母の手は生きた人間の温度を持っていた。冷たかったのは、その温度に重なった仏間の空気のほうだった。

母は手を引かなかった。

「守」

「うん」

「もしまた動いても、すぐには戻さないで」

「どうして」

「分からないから」

母は仏壇の奥を見た。

「分からないものを、分からないまま元に戻すのは、もうやめたほうがいい気がする」

外では蝉が鳴き、用水路の水が底石を撫でていた。閉じた家の中で、その音だけが遠くへ流れていく。

私はノートを開いた。

午後一時十二分。

母、位牌を戻さず。

その下に、少し考えてから書き足した。

「母も見た」

書き終えると、仏壇の前の空気がわずかに緩んだ。

白磁の茶碗の欠けた縁が、庭の方角を向いたまま、薄い光を返していた。

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